学園長のひとり言

平成12年11月25日

親の条件、子供の条件

不登校になる理由は本当に千差万別、これぞ不登校の正道的理由などというものはないと思う。ただ、どんな理由であっても、それを解決する方法がないものだろうかと考える。特に“いじめ”にあって不登校になったというのは、どうもやりきれない。イジメの問題が起きると、親は子供の代弁をし、学校はいかに先生が大変かと代弁する。その間で本当に心を痛めている子供のことは、以外とほっておかれているような気がする。親もそうだが、親の何倍も生きなければいけない子供にとって、こども時代のその日は、その日しかないのに。

生きていくことは大変なことだ。でも、大変だけど楽しいことがあって始めて苦しいことにも耐えられるし、頑張れる。苦しいことがあるから、楽しいことに感謝出来る。不登校も、その理由によっては大変苦しいことだ。だったら、楽しいことで苦しい現実に立ち向かって行く勇気や力が出ないものかと思う。

上田学園の中にも不登校の原因に“イジメもあった”という学生もいる。ただよく話し合ってみると、その理由の下には、勉強についていかれなかったり、「友達が出来ない。」と言いながら「じゃ、貴方はどんな友達になりたいの」と質問しても全く答えの返ってこないような、無意識のうちに自分の要求ばかりを他人に求め、待っているだけの状態が、不登校の原因になっていたのではないかと思えるものが隠されているように思う。

苦しいことを生き抜いて行くには、楽しいことが必要だと言っても、その楽しいこととはなんだろうか。ゲームだろうか。お金だろうか。

不登校を始めると多くの不登校児が昼夜逆転し、家族が寝静まると起き出してゲームをしたりコンピュータで遊んだりすると言う。そして、親に「もっと高いものを買え!」と強要したり、暴れたり、壁に穴をあけたりすると聞く。と言う事は、楽しいこととは、ゲームでもお金でもない。不登校児がよくいう「無視された!」という言葉にヒントがあるのではないか。確かに、自分のことを考え合わせても、苦しいことを乗りきるエネルギーは、友人の言葉であったり、家族との楽しい会話や励ましの言葉であったりすることが一番多い。それは、イヤなことも含めて、楽しい思い出になることを共有した結果出る“信頼”という言葉に裏打ちされているからこそ、“元気の元”になるのではないだろうか。

不登校の問題が話し合われると、いつも「文部省が悪い。親が悪い。先生が悪い。日本が悪い。根本から変えないと、この問題は終わらない。」と言う話しに終始する。確かにそれは正論だと思う。でも、その問題が三ヶ月後に解決されるというのなら、「自分のことばかり考えてはいけない。同じように苦しんで我慢している人も居るし、貴方と同じような悲しみを他の人に味わわせないためにも、ちょっと我慢していてね!」と言えるけれど、それは不可能に近いことだ。それなら、早くに問題に対処出来る強い力をつけてあげたいと思う。

どうやって?

「自分はまるで、壁になったように無視されていた!私には自分の居場所がどこにもない。」と言う子供の顔を見ながら、ひょっとして親も子供を無視していたのではないだろうか。いや、今も気がつかずに無視しているのではないだろうか。無視してないと言えるのなら、何を根拠に無視していないと言えるのだろうか。

不登校の学校を始めて、度々「お母さん、子供がこんなに元気になり、自分で問題に気がつき、考え判断するようになったことを、喜んであげて下さい。」と言っても、その時は子供が元気になったことより、次のことを要求してくる。それって、子供を無視していることではないのだろうか。

もし、外でいやなことがあっても家の中に“自分の居場所”があれば、なんとか頑張っていけるだけの力が子供には備わっていると思う。親が子供を無視していなければ、家の中には居場所があるはず。

親はよく子供に「貴方の御仕事は勉強です」と言う。その御仕事の勉強が出来ないということは、言いかえれば“社会的地位がない”と言うことになるのだろう。本当に子供の仕事とは、勉強なのだろうか。御仕事とは、読んで字のごとく“御仕えすること”だ。誰に御仕えするのか。親に御仕えする事なのだろうか?子供達も聞きたいだろう「親の仕事は何?」と。

親の仕事は、子供に仕えることではないと思う。じゃ、親の仕事とは一体何なのだろうか。子供の代弁をすることでもなければ、子供のいいなりになることでもないだろうことは、分かる。

親と子という関係では、親の条件として大切なことは、親の職業でも学歴でもなく、親の生き方ではないかと思う。そして、子供の条件は、勉強が出来るとか、お金を稼いでくるとか、容姿がいいなどというものでも、もちろんない。親にとって、子供として存在していてくれることへの感謝の対象ではないだろうか。「存在してくれてありがとう!」と感謝する対象の先輩として、親が自分の生き方を通して“社会とどう向き合って行くのか、人生をどう育んでいくのか”を教えるのではないだろうか。それを理解する力が備わる手助けに“学校”が存在するのではないだろうか。そして親と子という関係を育てる環境が“家庭”であり、その家庭の中で関係を育む方法として家庭の構成者各自に“御役目”があるのではないだろうか。

家庭の中の御役目。それは年齢性別に関係なく、人に喜んで貰える事をする。例えば、お母さんが作ったご飯を、美味しそうに食べている家族を見て、お母さんは自分の存在価値を無意識に感じ、安心してリラックスしている家族の顔を見て、お父さんは自分の存在価値を無意識に感じる。子供は自分の出来ること例えば、掃除をすること、新聞を毎朝とってくる事等という簡単なことでもいい、親が嬉しそうに感謝してくれることから、無意識に自分の存在価値を感じる。その信頼関係が、何か外で問題があっても“家族ならわかってくれる。応援してくれる”と、苦しいことを乗り越える原動力になるのではないかと思う。

不登校になって家で暴れている子供達は、家に居ても親の無意識な無視や、居場所、役目のない悲しさを表現しているのではないかと思うが、これは私だけが感じていることなのだろうか。これでもか、これでもかと苦しんでいる親や子供達、社会、そして生きている全てのもののためにも、この状況を無駄にしないためにも、「誰が正しいとか、正しくない」と言うよりも、もう一度、自分の足元からじっくり見つめてみたいと思う。