学園長のひとり言

平成12年12月2日

先日、「10代に聞く、少年犯罪をどう思いますか。」といNHKの番組の中で、「命の重さを実感するために人を殺したい!」と言うような発言を耳にした。

仕事が忙しくバタバタとしていた中で聞いたその言葉に、ぞっとした。どうして、こんな発言が出来るのか。どうしてこんなテーマで話をしなければならないほど、子供たちの心が荒廃してしまったのか。いや、心が荒廃しているのではなく、心を育てる機会をもらわずに、体だけが成長し、パスポート年齢だけが、成長しただけなのではないか。どちらにしても、やりきれないテーマだ。おまけに言葉だけが、話し合っている人々の上を上滑りして行く。人の口から発せられる言葉が、こんなに空しいものだとは気が付かなかった。会話に参加している大人達の空しさやタメ息が、まるで真夏の蒸し暑さのようにベッタリと私の心や体にまとわりついてくる。

「どうして?」「何故?」何度自問自答しても、簡単に「命の重さを実感するために人を殺したい!」という発言を理解することは、出来ない。

人の命の大切さを、家庭でまず教えていかなければいけないことは、だれでも知っている。どんなに焦っても、一夕一朝では教えられないし、一見何でもない毎日のやり取りの中でこそ、命の大切さが自然に学べるのだと思う。

小さいときから自分の周りの人や、可愛がっていた生き物などの死を、親や大人達が悲しむのを見聞きして、「自分を守ってくれる強いお父さんやお母さん、大人達が泣いている。悲しがっている。だからこれは、大変なことなのだろう。」と考える。

お互いを大切にし合っている家族を見て、自然に人を愛するということ、人を大切にするということの意味を、学んでいく。そして、子供達の成長過程の一つとして、可愛がる対象が見付かり、それを可愛がるなかで、可愛がるものが消えていくこと、“生きるということは、永遠ではない”ということも無意識に気が付き、生物を慈しむ心が自然に育っていくのではないのだろうか。

しかし、こう発言すると必ず返ってくる答えに「私共はマンションに住んでいるので、動物が飼えないので、それが出来ませんでした。」とか、「私共は核家族でして・・・」というのがある。マンションで動物が飼えないのなら、人のうちの犬だって、マンションで飼える金魚だっていい。誰が所有者かとか、大きいか小さいかなどというサイズの問題ではない。核家族であっても、お付き合いがある方の死を通してでも、教えようとする気持ちがありさえすれば,教えられると思う。

「命の重さを実感するために人を殺してみたい!」という子供達は、人間として生きていないのではないかと思う。

人間として生きるとは、誰かを愛し、誰かから愛されることだろう。

誰かを愛するためには、自分ではない誰か他の人の存在が不可欠だ。人を、“命の重さを実感するために”という名目で殺してしまったら、人間として生きるために必要な人を殺してしまったら、自分の存在価値も、存在する理由も要らなくなると思う。どうして、そんな大切なことに気が付かないのだろうか。きっと、人間として存在していないのだろう。

世の中の所為にはしたくない。でも、子供たちを取り巻く環境は最悪かもしれない、と思う。

TVのドラマは、これでもか、これでもかと、殺しの場面を詳細に表現して見せる。TVゲームも、いかに早く人を倒し(殺す)、ゲームを進めていくかを、競わせる。毎日のようにモーニングショーが、どんなにして人が殺されたかを詳細に流す。それが、青少年犯罪であるならば、なおさら興味を引くように話してみせる。

昔から青少年の犯罪はあったはずだ。しかし、今のようにマスコミが発達していなかったので、事件が起きてもリアルタイムで報道されることはなかった。しかし今は、まるで”犯罪の犯し方マニュアル”を作成したかのような、詳細な報道がなされる。それも、「知る権利」という美名の元で。

人権問題に取り組んでいる人や差別用語や環境問題に目を光らせている方は、多い。でも、なぜTVドラマの中で人が殺される場面が、「これを見れば貴方も立派な殺人者」とでも言いたいのかと思うほどリアルに表現されていることに対して、誰も疑問を持たないのだろうか。

「徒競走に1等、2等などと差別をつけてはいけません。」などと言って、運動会から徒競走をなくし「平等です」と発言しているのに、「どれだけ短時間のうちに、人を倒して(殺す)ゲームを進めるか」という競争を、子供達に平気でさせられるのはどうしてなのか。

大人はこれでもいい。「これはドラマの出来事、本の中の出来ごと。」と区別できるから。それは、「愛する人を傷つけてはいけない!」ということを教えられたし、知ってもいる。「愛されている人を傷付けてはいけない!」ということも教えられたし、知ってもいるから。そして、なんらかの形で体験しているから。それが例え、可愛がっていた“針ねずみの死”からであっても。しかし、自分の力で考えたり判断したりする力が養われていない現代の“マニアルっ子”にとっては、現在の環境は最悪であろう。それに増して“ビタミン愛”抜きで育っていることが、大きな問題に繋がっているように思う。

「命の重さを実感するために、人を殺したい!」と言う人の意見を翻訳すれば、「命という意味がわからないから、自分の家族や、自分の大切な人や、自分ではない他人を殺して、チョット理解したい」ということだとろう。

意味なんて分からなくても、「何だか人が大切にしているから、自分も大切にしよう!」という、単純な発想も重要なことだと教えたい。

「命の重さを実感したいから」と言って殺されたら大変だ。こんな方法で、命の重さは実感できないことは、普通の大人なら誰でも知っている。ただ、それを子供達に理解させるには、「貴方の存在が嬉しい!、貴方が居なくなったら悲しい!」ということ。「いくら貴方を大切に思っても、私の人生にも終わりが来て、貴方を残して行かなければならない。」ということも理解させたい。そして、どんな残酷(?)な情報にも、それを正確に理解する力や、惑わされないバランスのとれた人間らしい人間に育ってくれるように、「自分を愛するとは、人を大切にすること。人を愛するということは、自分を大切にすること。」ということを、一人の人間として、この世の中で生きる物として、“当たり前のこと”として実践していこうと思う。それが「命を大切にする」という考えの原点になると信じているから。