学園長のひとり言

平成12年12月18日

「久しぶりに家族と一緒に日本へ行きます。是非先生と会いたいので、先生、ご連絡を下さい。ハンスより」こんなFAXがスイスから飛び込んできた。

「ハンスが来る!ハンスが来る!」と嬉しさのあまり、そのFAXを手に思わず叫んでしまった。

私は教師になって20年以上経つ。その間、いつも自分に言い聞かせていることがある。それは、
@生徒の未来を自分の短い物差しで絶対計らないこと。                                                                            A生徒とは、年齢・性別・貧富の差・勉強が出来る、出来ないに関係なく、平等につきあうこと。
Bどんな状況にいても、上田先生はいつも上田先生らしくあること。
C生徒との出会いは、長い人生のほんの一瞬の出来事であるかもしれないが、この一瞬が彼等の人生の基礎になるのだから、何時も真摯な態度で、出来る限り工夫した授業をし、その場限りの手抜き授業はしない。
D生徒が自分で楽しんで勉強を始めたら、教師の仕事の70%は終了。残りの30%で生徒達と一緒にいられることに感謝しつつ、1日も早く、先生が100%不要になる様に誘導していく。ゆめゆめ「彼は私の教え子です。」と言って、彼らに付きまとうことはしない。

こんなことを常に自分に言い聞かせ、心がけている。しかし、何時も心にかかっている例外が二人いる。彼はこのうちの一人だ。彼をいつも心のどこかで心配し、「元気でやっているだろうか?」と彼に関する情報が入ると、一生懸命それに耳を傾けた。

父親が日本人で、母親がスイス人というダブルカルチャーの彼とはスイスの日本人学校で、私が最初に教えた小学校1年のクラスの“問題児”として出会った。

父親は大学の助教授。両親の仲もあまりよくないようであった。その上、日本語もドイツ語も中途半端で、スイスの学校にも日本人学校にも馴染むことができず、その鬱憤をはらすかのように悪さをしていた。その悪さと日本語力の問題で、他の生徒の足を引っ張るという危惧から、2年生には進級させるが、日本人の誰かにプライベートレッスンをしてもらい、クラスについていかせるようにしようという案が、校長先生から出された。そして色々な条件を考慮した結果、プライベートレッスンの適任者ということで、私が指名された。

それから2年半、週一回日本人学校に行く前、私の家か彼の家で勉強をし、それから一緒に日本人学校に通う生活が始まった。

彼の家は、彼の上に異夫兄がおり、ちょうど反抗期の14歳位だった。兄弟仲は普通であったが、日本人の私を見るときの兄の目は冷たく、その冷たさがその時の彼の淋しさを象徴しているようであった。またその冷たい目が、半分日本人である弟の言動にも関係しているように思えた。私は出来るかぎり14歳の彼と話すチャンスを見つけ、拙いドイツ語で一生懸命話をした。

そんなチャンスが何回か訪れた頃、目が合うと14歳のお兄さんの顔に時々笑みがこぼれるようになった。そして、弟の反抗的な態度も少しずつ和らいでゆき、一緒に通う市電の中で、お年寄りに黙って席をゆずったり、困っている人に手を差し伸べたりと、これこそが彼の本来の姿なのだと確信できるような微笑ましい出来事を、垣間見ることも多くなった。

父親は口下手だが心根の優しい方で、日本人留学生の心の支えになっていることや、スイス人の母親も、色々な日本人のために骨を折る事を全くいとわないし、とても善良な方だということも、この頃分ってきた。しかし、幼かった彼にはそれが理解出来ず、その上、日本人だかスイス人だか分からない自分の立場への不安や、言葉の問題から起こる学業不振と、それを誰にも理解されないことのジレンマと、自分の居場所探しで喘いでいることも分かってきた。

私のプライベートレッスンの内容が180度方向転換した。                                                                           

私は事ある毎に、日本人の目から見た彼の父親がどんなに立派な方で、日本で一番いいと言われる大学の先生であることや、彼の母親も困っている人のために一生懸命お手伝いをし、日本人留学生からどんなに慕われているか等という話をして聞かせた。そして、彼もその両親の善いところとを全部引き継いでいて、心根は他の人の何十倍も優しいと思えることや、私も一生懸命勉強してドイツ語の学校に行くのに、上手にドイツ語が話せず、ドイツ人の先生に馬鹿にされ、悔しくてトイレで何度も泣いたことなどを話して聞かせた。そして、勉強の出来るのも素晴らしいが、人間が優しいことの方がもっと大切だと思う私の意見を、例をあげて話して聞かせることがメインのような授業に変わっていった。しかし、これは納得出来ないと思う卑怯な振る舞いと、嘘をつくことに関しては常に厳しく諭し、それでも分からない時は、心を鬼にして、叩いた。

いつからか、「先生、今日お仕事がないの?じゃ、もっとここに居てもいい?」と私の仕事のないときは、家の片づけをする私の側の椅子や、台所の椅子に座って、スイスの学校の話や、友達や家族のことを話してくれるようになっていった。そして、すでに日本に帰国していた父親から送ってくる「中学校の科学」という雑誌を持参して、科学音痴の私を悩ませた反面、彼の頭のよさに「すごい、すごい!」と賞賛せずにはいられなかった。

「先生、ロスは暖かくていいですね」と、清々しい若者になって、私の転勤地であるロスアンゼルスに訪ねてくれたのは、彼が17歳になったときだった。「イタリア美術が好きなので、バチカンの衛兵になってイタリアに住むか、郵便屋さんになろうかと考えています。」「郵便屋さん?!」「そう、郵便屋さん。」とこんな話を交わしながら、彼の母親の友人が住む隣街に向かって車を走らせている私の隣で、方向音痴の私を気遣ってナビゲートしてくれる彼の横顔に、過ぎていく時間の早さを改めて感じていた。

彼はその後、専門学校を卒業し、機械の製図を引く仕事を始めたことや、ご両親が離婚したこと、反抗期だったお兄さんが結婚したこと等が噂話で伝わってきていた。そして、久しぶりに行ったスイスで彼の母親から、「私を非難して家に寄りつかなくなったのよ。先生、息子に会って下さい!」と、彼の新しい連絡場所が知らされた。

「先生僕、29歳になりました。」電話の向こうで、明るい声が返ってきた。コンピューターの仕事を辞め、福祉の勉強のため再度学校に通っているという彼に「貴方は本当に優しい善い子だったもの、福祉の仕事は貴方に一番合うと思うわ。先生、転職大賛成よ!」と、ほっと胸をなでおろして言った。

あんなに小さかった彼が29歳になったことに、驚きと感嘆と何とも説明出来ない嬉しさで「今度来るときは、絶対会おうね!」と約束して電話をきった。それから1年後、「エイズで末期になった若者達の面倒を、寝食を共にしながらお世話をするという組織で働いています。」と、17歳の時よりもっと素敵な男性になって自宅に訪ねてくれた。

「今、僕はスイスで有名な時計屋で仕事をしています。そこに先生の知り合いの方もいて、先生のことがよく話題に出ます。先生に会いたいです。」と、FAXの中の彼は、また転職をしたことを告げている。「仕事の内容は結構厳しいです。でも、人に頼られて、人のために生きることは、とても自分に合っていると思います。」と言っていたのに、彼に何が起きたのかと、ドイツ語で書かれたそれを読み続けた。

「最後に先生とお会いしてから5年経ちました。その間、僕は結婚しました。」

「驚いた!彼は結婚したんだ。」と思った瞬間、「ウワー!」と嬉しさのあまり大声をあげたくなった。彼の味方になり、彼を支えてくれる人が出来た。名前からするとスイス人だろう。どんな方かは分からないけれど、私は彼女に会ったら只々「ダンケ!、ダンケ!」と連呼することだろう。どんな仕事をしようと、どんな生き方をしようと構わない。今の彼には、彼を必要とし、彼を支えてくれる家庭がある。「今どき、こんな好青年がいるの?」と言わしめた彼だが、フトしたときに見せていた淋しそうな表情。もうそんな表情も遠のいていくことだろう。

「Bald werden meine Familie und ich wieder einmal Japan besuche.」このmeine Familieとは、彼の母親と弟かと思ったが、奥さんと、もしかして子供かもしれない。子供だったら、どんな子供なのか。彼の小さい時に似ているのだろうか。あと1週間で会える彼と彼の家族。一番嬉しいと思えるクリスマスプレゼントは過去に沢山あったが、こんなに嬉しいクリスマスプレゼント、本当にありがとう!       

「34歳になった彼はどんなになったのだろうか。家族と一緒のときはどんな幸せそうな顔をするのだろうか。日本語、忘れちゃったかな。彼の奥さんとドイツ語で話さないといけないかな。ドイツ語、思い出すかな・・・」と、会える嬉しさと、どうでもいい心配を抱え、彼の到着を首を長くして待っている。