学園長のひとり言

平成13年1月29日

34年振りに大学の友人に会いました。

大雪の降った日、34年ぶりに友人が遊びに来た。子育ての時期を抜いて24年間小学校の教師をしているという彼女は、34年前と同じ、優しくて何とも暖かい人柄のまま、少し歳を取っていた。他の友人を交え、私達は34年間の空白を埋めようと、時々お茶、時々あんみつ。その間、しゃべりっぱなしにしゃべった。そして最後は、今の学校が抱えている“教育”の問題の話になった。

小学校2年生の担任だという彼女は言う。何が一番問題になっているのかと言うと、子供達が“遊び”が出来ない。どうやって他の人と一緒に遊んだらいいか分からない。そのために、低学年の先生方は“遊び方”を教えていると。                                           

子供にとって、遊びは大切な“学びの場”だ。遊びながら、「こんなことをすると嫌われるのだな」とか「どうして上手く負かせられなかったのかな?」とか、「この友達を説得するのには、こうしないと駄目なのだな」とか、あの小さな可愛い頭で、疑問を持ち、情報を集め、まとめ、答えを出し、相手に納得のいくように自分の気持ちを伝えるという、人間社会で生活する方法を体得していく。その遊びが出来ないということは、“学ぶ”ことが出来なくても仕方がない。

教師も親も“勉強”とか“学ぶ”と言うと「必ず机に向かってしなさい!」とか、場所や時間の長短を言い立てる。そして、ただただ「勉強しなさい!」と壊れたテープレコーダーのように連呼する。しかし、“学ぶ心”が出来ていない子供は、疑問を持つこともない。疑問を持つことのない子供が、解決する楽しみや、答えを見つけ出す楽しみが持てないのは当たり前。そんな子供が、ただ親の言う通りに勉強をしても、それは単に強く勉めただけで、興味があって学んだのではない。だから、飽きるし、つまらないので勉強が嫌いになる。

人間が成長する上で、絶対出来ない事がある。それは、1年1年としか歳を重ねられないということだ。1歳から5歳には飛び歳?はどんなに優れた人にも出来ないということだ。私達大人は、子供が1歳、2歳と歳を重ねていくとき、その歳にあった対応をしていくべきではないのか。。5歳という年齢は子供の生涯で一回しかない。その時に無理に大人扱いにすることはないのではないか。5歳としてのその子供を尊敬し(受け入れること)、対応するべきではないのか。子供を取り巻く大人達にそういう考えがあれば、子供は子供の世界の学びの場で、遊びの中から、人間として生きる基礎を学んでいくのではないか。

“遊びが出来ない子供”と言うと、「テレビのある生活が悪い!」とか、「ゲームが子供に悪影響を与えている」とか言いたくなる。でも、本当にそう言い切っていいのかは疑問だ。

自分にとって不必要な物や、悪い物、悪い人間は多い。その中でも生きていけなければ、人間世界では生きられない。だからこそ、テレビが悪い、ゲームが悪いと言う前に、自分にとって悪いのなら、それを“選択しない力”を子供につけなければいけないのではないか。そのために、親は親の価値観をしっかり持つべきではないのか。例え子供に「他のうちでは皆やっているよ!」と抗議されても、「こういう理由で、うちでは許しません!」という、しっかりした価値基準を。

34年振りに会った友人の話を聞きながら、つくづく私達大人は、理屈で考える教育ではなく、その年齢の子供が一番似合う世界に居ることを大切にしてあげる、例え将来のためとはいえ、夜遅く小さい子供が眠そうな目をして塾の鞄をしょってバスに乗っている図より、可愛い顔して安心しきってベットで寝ている図のほうが、ずっと似合うと思うときは、その思う心を優先できる教育をしたいと。