学園長のひとり言

平成13年2月05日


理想教育とは、個性を伸ばす教育とは

最近の上田学園には、将来教育者になりたいと考えている大学生や、現在の教育を何とかしたいと、サラリーマンから教育者に転職を考えている若い方達が訪ねて下さるようになった。
人間大好き、おしゃべり大好きな私は、そんな彼らと時間を忘れて話し込んでしまう程、彼らの話には反省させられること、考えさせられることが色々あり、感激することしきりである。
そんな私を見て、若い先生方が私のために「パンフレスコ」という月1回、月最後の水曜日の夜、皆でおしゃべりをする会を作ってくれた。

「パンフレスコ」には特別なテーマはないが、「パンフレスコ」に参加した方々が雑談の中で感じた自分の考えを、まとめ、メールで送ってくださる。それを読むのがまた楽しい。

上田学園は個性教育だと思われている。それは、人数が少ないから個性教育が出来ると考える方が多いからだろう。実際、メールを送ってくださる「パンフレスコ」参加者も、個性教育をするのには、人数の大小が大きく影響していると考えている方が多いようだ。

「個性教育」、確かに響きはいい。しかし、「個性」とは何なのか。「個性教育」をするのには40人という人数のクラスでは、無理なのだろうか。一クラス70名の時代には個性のある子供は育たなかったのか。本当にそうだろうか。一クラス70名でも個性のある子供は、個性豊かに育ったのではないだろうか。制服は個性を伸ばさないと反対して、自由にさせている学校の生徒達も、外人の人達から「日本の女の子達は何故、同じような厚底の靴をはいて、金髪にして、あれは制服ですか」と聞かれるほど、同じ格好をしている。

「自由」とか「平等」とか「個性」とかいう言葉を本当に理解するのは、難しい。何故難しいのか、と言えば、自由=礼儀知らず、平等=思いやり不足、個性=自分勝手、等と言う言葉に簡単に置き換えられてしまうからではないのか。自由だからといって、混んでいる電車に大股をひらいて、1・5人分の座席を一人占めして良い訳でもないし、平等だからといって、必要もない物をもらって、もっと必要と思っている人に分け与えてあげるでもなく、捨ててしまうようなことをしたり、個性優先だからといって、明らかにそれは個性ではなく、単なる"わがまま"であったり、わがままから発した"社会性のなさ"であったりすることに、注意しないような。

今の世の中、言葉に惑わされていないだろうか。言葉に振り回されていないだろうか。本当に子供の個性を大切にしたいなら、個性が自分の中から伸びるよな基礎力をつけてあげなければいけないのではないか。個性を認める土壌を、自分の周りから始めなければ、始まらないのではないか。「人様はどうでも、自分の子供は是非、いい大学を出て、いい会社にいれたいのです。」と言っているうちは、「個性」を認める大人の社会は育たないのではないかと思う。

上田学園では「個性とは、自分のしたい事を見付け、それを学ぶ(真似する)うちに自然に滲み出てくるものである」と考え、その為に、学ぼうとする力や、学べる力を養いたいと考えている。そして、自分に自信が出来、自分に物を判断する価値基準が出来、はじめて個性的な生方もできるようになると信じている。また、個性豊かな人間になるために、礼儀、思いやり、約束を守る等という、人間として当たり前な心遣いが、当たり前に出来ることも大切だと考えている。

今の世の中、何か問題があると、その問題を根本から考えるのではなく、表面的なことばかりをとりあげる。表面的なことばかりを問題にする。まるで、母親に反抗して困っていると言ってきたお母さんに対し、「自分の家の中に、彼の居場所がないような気がして淋しいんだと思います」とお話したとき、「6畳の自分の部屋があるのに、信じられません!」と答えたようなものだ。

理想教育をしようとするにしても、個性教育をするにしても、それをしようとしているのも生きている人間。その教育を受けようとしているのも生きている人間。人間は生き物であり、昨日、今日、明日と生きている時間の中で生きている。それだけに、目に見えない変化も含めて、毎日変化するのが当たり前なのではと考える。毎回反省し、何をそのまま続けていくのか、何を変化させていくのかを判断するために、色々な方向から検証していきたいと思う。それだけに、パンフレスコに来てくださる色々な方のご意見は、自分達を振り返るきっかけになり、大変貴重だ。

上田学園は4月から、授業の中で「模擬会社」を設立し、実際に予算を与え、税理士の先生をつけ、運営させてみようと考えている。いくら理想教育をしようとも、個性教育をしようとも、社会生活から離れているのでは、意味をなさない。また、社会から叩かれることも大きな勉強だ。失敗を恐れない子供にしたい。いや、失敗から学んで工夫する人間になってもらいたい。基礎的力があれば、その工夫に個人の個性が輝き出すのではないかと信じている。