学園長のひとり言

平成13年3月6日


何でも欲しがるサナエさん!

私は上田学園の学園長でもあるが、日本語の教師でもある。子供の教育に夢があるように、日本語教育にも夢がある。 日本語教育での私の夢は、楽しい教科書や教材を作ること。そして、日本語教師のプロ集団をつくることである。

私が日本語教師を始めた24・5年前は、日本語を教えるという仕事があることも、その養成コースも皆無に近かった。実際、日本語を習うのは宣教師や、シスター達とほんの一握りの国際結婚組と、同国人からも“物好きで変な外国人のビジネスマン”と言われるような外国人だけであった。それが、今や世界中の公的な日本語学校で日本語を勉強する外国人が200万人、個人で勉強する学習者を数にいれたら実際何人の人達が日本語を勉強しているか分からない程の普及率だ。しかし、プロの日本語教師は少ないように思う。

「プロの日本語教師?」そう、プロの日本語教師。

「プロの日本語教師の定義とは?」と問われると、なかなか説明出来ない。ただ言えることは日本語教師は“日本語が話せる” だけではなく、“日本語でコミュニケーションとれる”教育をすることが大切だろう。 教育が道具の使い方を教えることなのだから、日本人と上手にコミュニケーションがとれるようになる道具の使い方を、いかに合理的に楽しく教えられるかが、日本語教師の一番の仕事だ信じている。しかし、現実の日本語教師はどちらかというと“文法研究者”に近い教育を受けており、現場の日本語教師というより“日本語学を勉強した人”という感じがする。それだけに、日本語が話せない生徒や、日本語が上手にならない生徒、日本語能力テストに合格しない生徒に対し“教え方の工夫が足りないのでは?”と考えるより“生徒の能力不足”と考える先生が多いように感じられる。

テストとは、先生がいかに上手に適確に教えられたかを知る反省材料にするために実施するものであり、生徒の日本語能力を判断するだけのものではない。そこをしっかり理解し、生徒の出来ないことを生徒の所為にするのではなく、教師の努力不足を一番に考えるような、プロ意識のある日本語教師の大きなプロ集団を作りたいのである。

上田学園が春休みになったので毎日のように外国人に日本語を教え、その現場を先生の卵達に見てもらっている。それでも、先生のプロ集団を作るのには人数が足りないのである。しかし、人数が足りないからといって誰でもが日本語教師に向いているかというと、一概にはそうは言えないのである。そこがつらいところなのだ。

私には私を「師匠!」と呼び、日本語に全く関係のない彼の友人達に「師匠は素晴らしいだろう?な?、な?」と迫り、「そうだ!」と同意しなければぶっ飛ばしそうな形相で返事を強要する“はた迷惑な先生”がいる。彼は日本語の教師でもあり、ミュージシャンでもある。そして、彼を中心に大学時代からの個性的な仲間がおり、サラリーマンになっている彼らと時々ライブハウスでライブを楽しんでいる。私も外国人の生徒、上田学園の生徒、そして先生方と彼らの音楽に合わせて踊り、彼ら以上にライブを楽しませてもらっている。

ライブの後の打ち上げパーティーも楽しみの一つだ。

大久保の近くのライブハウスの後でやった打ち上げパーティーの席で、一人の男の人に出会った。彼は飲める組で、私や上田学園の生徒・先生の飲めない組からは離れた席に座っていた。薄い色の黒メガネを掛けた彼は、“ここは大久保だから、危ない系の方かしら?”と一瞬本気で考えてしまったほど、チョット危ない系のように見えた。
しかし、彼と話をした先生方が彼を誉めちぎる。 「いや、本当に見かけと違って(?)いい人です」と言う。 「どこが?」と聞く私に「本当に優しい人で、いい人です」と絶賛する。そんな彼が私を「師匠!」と呼ぶ先生から「上田先生が日本語の教えているところを見せるよ。こんなチャンスないから来いよ!」とまた有無を言わせない脅迫で学校に連れて来た。そして、3週間が過ぎた彼に、私は「貴方って本当に善い人ですね」と連呼するようになっている。

彼は現在父親の後を継ぐべく修行中だという。私を師匠と呼ぶ先生とは バンドを通して学生時代からの友人だそうだ。そして、彼がポツリ、ポツリ自分の小さい時の話をしてくれるようになり、彼の優しさ、思いやりが彼の小さい時の悲しい体験から来ているのだと知った。「おしゃべりじゃないことで、徹底的にいじめの対象になっていました。授業中竹刀で後からバンと叩かれても、担任は見て見ぬ振りをしていましたから。辛かったです。未だにその時のトラウマが残っていますから」と淡々と語る彼に思わず「不登校しようと思わなかったの?」と言う質問に「あの頃はそんな考え、一度も考えつきませんでしたよね?」と。

今彼は私の教える日本語の授業に共感し、日本語を勉強したいと言ってくれるようになった。(勿論、私を師匠と呼ぶ先生の強制も少々関係しているかも知れないが。)色々な理由はあるが、私も彼には是非日本語のプロ集団の一人になって欲しいと切望した。きっと彼の辛い体験が生徒達に役立つと思うし、彼の優しさが、生徒達にも必要だと信じているから。

外国人に日本語を教えることは、一見華やかに見えるようだが、実際は日本語教師にならなければ見なくていいような現実を見せ付けられる。その度に自分の力の無さを思い知らされる。その度に自分の“分”をわきまえることが最善の方法であることを思い知らされる。そして、最後にいかに人間としての優しさ、表面的な優しさではない優しさが必要なことに、気付かされる。言葉が通じようが通じまいが“一流は一流、三流は三流”なのだということにも気付かされる。 日本語教師として、いかに楽しく教えられることが出来るかが、苦労している彼らに私達日本語教師が出来るプロとしての“精一杯の誠意”だということにも。

1年後にチョット“危ない系”の先生が誕生するだろう。でも、きっと素敵な先生になることは間違いない。いかにも“先生然”としている先生より、その意外性が楽しい。言葉がよく通じないだけに、言葉でごまかされない外国人の学生達は先生の良さを見抜くことは間違いない。

「危ない系の先生!、そのまま何も変えないで結構ですから。日本語を教えるテクニックはしっかり伝授しますので一緒に頑張りましょう!他の先生達に長島監督と同じ、 『何でも欲しがるサナエさん!』と命名されましたが、上田学園の生徒達・レッツの生徒達のためなら、いい先生獲得に世界中を走り回るつもりです。先生の友達に素敵な方がいらしたら、また宜しくお願いします!」