学園長のひとり言

平成13年3月12日


−+−=−、−×−=+式考え方

私が日本語教師養成を日本でするときも、海外でするときも、最初にする幾つかのことがある。それは、「貴方は、日本語の教師になりたいのですか?、教諭になりたのですか?、先生になりたいのですか?、講師になりたいのですか?、教授になりたいのですか?」という質問をすることと、私がする養成コースは、日本語を勉強したい外国人より少し"先"に日本語を話す人間として"生"まれているだけで、人間としては生徒と全く対等であること。日本語を勉強したい生徒は、日本語だけが劣っているだけで、人間的にも社会的にも、自分達より優れている人が多いという認識を何時も持っていること。クラスの中で一番大変な状況を作ること。親切にしたつもりでゆっくり日本語を話しても、速く話しても、分からないのだから、普通の日本人の話すスピードの1.5倍から3倍の速さの日本語で訓練すること。その速さの日本語が聞き取れるようになれば、苦労して勉強したのに「先生の日本語はよく分かりますが、他の日本人の日本語は全然分かりません」等という悲しい結果にならないこと。教えるという現場では不親切が、親切なことであることが多いこともしっかり頭に入れておくこと等を説明し、その実例を話したり、体験させたりしている。

人間が生きていくときに、楽しいことだけが存在しても、それが楽しいかどうか、なかなか理解できない。それが楽しいと理解出来るのは、比較する基準の苦しいことがあるからだ。しかし、人間はいつも楽しいこと、興味のあることに囲まれていたいと願う。そして、その思いは自分のことだけではなく、親切な人になればなるほど他の人に対しても「苦労はさせたくない!」と考え、その苦労が時には生きる知恵になったり、人生の醍醐味になったりするのに、それを奪ってしまう。 それを一番しているのは、親と教師なのではないかと考えることが、しばしばある。

だからと言って、「苦労は買ってでもしなさい!」と言っているのではない。買わないでいいものなら、"苦労"など買わない方がいいのに決まっている。特に無駄な苦労は買う必要はないと思う。例え、「人生に無駄になることはない!」と言っても。

親も先生も可愛い子供達がどんな理由であれ、自分達から離れて行くのをなかなか受け入れられない。何故受け入れられないのかというと、自分が子供達から取り残されるような淋しさ、誰か他の人に"自分の大切な物"を取られてしまったような気がするからだ。そして、一人前の人間になるために突き放さなければいけない時期を見逃し、厳しい状況に追い込んでそこからどうやって這い出して行くかを学ばさなければいけないのに、自分の懐に抱え込んで、学ぶチャンスを与えなかったりしてしまう。

日本語教師養成コースで、もう一つ必ず話すことがある。それは普通、生徒が先生を選べないように、先生も生徒が選べないということだ。

日本語を勉強する学生には大きく分けて3通りのタイプがある。 一つ目は就学生。日本の大学や専門学校を目指して日本語の勉強をする学生。二つ目は仕事で日本に転勤してきたビジネスマン。三つ目は不法就労が目的で来る学生である。 就学生は日本語能力テスト一級に合格しなければ、大学や専門学校の受験資格がもらえないので、ほっといても勉強する。ビジネスマンは、結果はどうあれ仕事で必要だと考える人は、これも一生懸命勉強する。問題は不法就労が目的の学生である。

彼らは働くことが目的で、一生懸命勉強しようとは思わない。学校に行くのは単にビザをもらう為にだけである。教えることに使命感を持って臨む真面目な先生は、この手の学生が苦手であり、教えたがらない。しかし、勉強したがらないこの手の学生こそ、私達プロ教師の出番なのである。

勉強したくない学生をいかに上手に勉強がしたくなる学生にするか。せっかく眠いのを我慢して出席をしてくる学生に、プロの教師として出席した時間をいかに無駄な時間にさせないか。これが教師の醍醐味である。どんなに愚痴っても生徒を選べないなら、自分しか出来ない授業をして、教師の醍醐味をしっかり味わうべきだと思うし、教えることでは誰にも負けないと言える教師になれる絶好のチャンスだと思う。その為にマイナス要素はマイナスで"足す"のではなく、マイナスはマイナスで掛けてプラスにすることを常に考えるように提案している。

日本語教師が一番答えに窮するので嫌うアジア人学生の日本人評として「日本人は自分達アジア人のことを嫌っていて、ヨーロッパ人のことばかり親切にします。」と言うのがある。私はそれを言われる度に待ってましたとばかりに「皆さんはアジア人で良かったですね。親切にしてくれないから日本人と同じ扱いをされ、日本語が上手になれますね。ヨーロッパ人は親切にされても英語やフランス語の練習台か、容姿だけでチヤホヤされモデルで一時的にお金が入る位ですよ。せっかく同じ長さ、同じ目的で日本に来て、冷たく日本人のような扱いをされた皆さんのほうが日本語が上手になって、将来日本語でしっかり日本からお金が取れますね!本当に皆さんはラッキーですね!。良かったですね!。」と。

親も、―+−=−、−×−=+になる公式を思い出し、子供から「うちの親は冷たい!」と言われたり、「うるせーな!」と怒鳴られて、嫌な気分にさせられるという憂鬱+子供の心が離れていくような淋しい気持ち=親も子も辛い。という公式にするより、子供を突き放し厳しい状況を体験させることで、自分の頭で考え、大人になり、親も子も一人の友人として付き合うことが出来るようになる。とプラスに考えて欲しい。

どんな困難な状況でも、親が何時もポジティブに考えるように指導すると、子供もどんな困難な状況でもポジティブに答えを出そうとする。それは、不登校になったからといって、それを容認するのではなく、それを世間に"恥ずかしい"とするのでもなく、不登校したことで何年間かは遠回りするなら、どうせ世間からなんだかんだと言われるのだから「急がば回れ!」を地で行って、「そういう手もあったのか!」と人が気が付かなかったような生き方を、自然に選択する力の基礎が身に付くように導くほうが、健全でお金も時間も無駄にせず、本当の意味での「明るい不登校。明るい選択。明るい生き方」が出来るのではと考えている。

人間は不完全であるから面白いのではないのか。どこかが、何かが劣っている。それだから人間らしいのだし、生きる意味があると考えている。だから、上田学園ではいつも、マイナスをマイナスで“足す”ことはしない。マイナス要素も考え方一つでプラス要因になるからだ。そして、勉強するということは、こういう公式を"生きる"ということの中で生かすためのものだということを、理解させたいと願っている。