学園長のひとり言

平成13年4月23日

 

自分の為?人の為?

「最近、自転車と接触して起こる自動車事故が多いような気がするんですがね」と私が乗ったタクシーの前を、信号無視で飛び出してきた自転車をよけたあと、タクシーの運転手はホットした声で言う。

確かに最近、私の学園がある中道商店街でも接触事故があった 。 どういう理由であれ、誰も事故を起こしたいとは思わないし、事故に会いたいとも思わない。でも、実際自分が移動するときに歩いて移動しようとも、自転車であろうとも、運転していようとも、自分のことしか考えない一瞬がある。「どんな理由であれ、車と自転車、車と歩行者との事故は、全部車を運転していた者が責任を取らされますからね!」と運転手は言う。「それに夜、ランプを点けずに走っている自転車にはマイってしまいますよ。彼らは自転車のランプは夜道を照らす為でなく、自分の存在を知らしめ、事故を防止するためであることに気が付かないんですかね?」と言う。さすが、プロの運転手さん。運転手さんの何気ない一言で、目からうろこ。運転手さんの話を聞きながら、自分も含めて世の中、何て愚かなのだろうかと考えてしまった。

世の中、見方を変えたら絶対違ったものが見えてくる。それもちょっと見方を変えればいいだけなのだが、それがなかなか出来ない。凡人の悲しさだ。

昔と違い、街路灯が発達し、暗い道が少なくなり、ノーライトで走っても自分はさほど困らない。でも、反対から走ってくる人にとってはどうなのかという思いやりの気持ちで見ると、ライトをつけて自分の位置を知らせることによって、相手は安心して走ってこられる。相手の為になり、結果自分の為になる。こんな素敵なことはないだろうが、そう考えることが出来る人間は少ない。むしろ、ライトを点けると自転車をこぐのが重くなり、スピードが出ないからノーライトで走る。自分にとって“楽”とその場限りの考えで走り、相手を困らせ、自分の命にも繋がってしまう。

勉強のこともそうだ。学校のこともそうだ。友達のことも、あらゆることがそうだ。勿論学校の先生もそうだ。

先日NHKの番組で『学校に行かれない先生達』というような内容の番組をやっていた。私はこの手の番組は見ないことにしている。何故かというと、先生方があまりに一生懸命なことが分かり、せつなくなるからだ。その時もちょっと見て、なんとも悲しい気持ちになってしまった。親も子も先生も一生懸命の大迷惑をお互いにしていると思うからだ。

親は子供の為といって「担任の先生が悪い!」と教育委員会に訴え、先生は生徒の為と言って、生徒の反応に落ち込み、生徒は友達の為と言って、他の生徒の反応に落ち込む。でも、本当に相手の気持ちを思うなら、もしかしたらほっておくのも思いやりであり、やらないことも思いやりであり、本音で話すことも思いやりであるという事実に、気がついて欲しいと思う。そして、自分のやっていることが「以外と自己満足の世界かも知れない」ということにも。

じゃ、自己満足の世界はいけないのか?というと、そうではない。自己満足は満足の原点。どんなことをしても見方を変えれば、基本は自己満足から始まる。ただ切手収集のような、自己満足が自分の上にだけかかるときは、それでいい。しかし、他人を巻き込むときは、ちょっと立ち止まって考えなければいけないと思う。きっとそれが思いやりなのだろう。

子供達もそうだ。

自分にちょっと不利になったり、苦手なことをやらされそうになると「学校に行かない!」と言い、親を困らせる。でも、学校に行くか行かないかは、自分の人生に関わってくるのだ。親の為や、先生の為に学校に行くのではない。自分が必要と思うから行くのだろう。必要と思わないのならさっさと学校を止めて、一人で生きていけるようにしたほうがいい。親も「お願い、ママのために学校に行ってね!」とお願いまでしてしまう。学校とは、お願いされて行くところでも、お願いして行かせるところでもない。だから、親は子供が学校に行かないと言ったとき、困る必要もない。もし困ると思うなら、困ると思わないでいいように子供が小さいときから、学校との付き合い方を教えるといい。学校を楽しむ方法を教えるといい。親が、自分の子供が学校へ行くことを楽しまないで、子供が学校に行くことを楽しめるわけがない。楽しめない大きな理由は自分の子供を他人の子供と同じようにしようとするからだ。同じにしようとするために、隣の子供の似合わない、おまけにサイズの合わない服を着せようと躍起になるからだ。

髪をふりみだして躍起になっている姿を、美しいと思う人はいない。子供も同じだ。そんな親を認めたいとは思わない。親しか頼る人がいなくて、親を頼りにして生きている小さいときなら意や知らず、世間が少し見え出したとき、親のみっともない姿を見て、親みたいになりたいとは思わないだろう。また、親の言う通りにもなりたいとも思わないのが当たり前だ。

親は子供の為という大義名分で、自分が上手に時間の作れないこと、自分の人生の建て直しをしなければならないこと等を先延ばしにしない方がいい。親として、時間がなければ時間をつくることを楽しんだらいい。自宅から出て何かをすることが不可能なら、自宅で出来ることを考え、それを楽しんだらいい。その方が、どれだけ子供達は納得するか。どれだけ、子供達の励みになるか。何でもかんでも思い通りにならないことの方が多いのが当たり前なのだから、その規制された中で、どのように自由な考えで楽しむかを親がしっかり見せたらいい。それをしないで、自分の不満の捌け口に「子供のためにやっているんです!」と言われても、自分の出来ない夢を押し付けられる子供達にとっては、たまったものじゃない。

世の中、自分の為と思ってしていることが、以外と人の為であったり、人の為と思ってしていることが、本当は自分の為であったりする。それだけに、ほんの少し立ち止まって「これは自分の為にしているのかな?、それとも人の為にしているのかな?」と考えてみることも必要なのではないだろうか。それも、ほんの少し見方を変えて。

上田学園も常に軌道修正しながら、子供達の為と信じてしていることが本当は単なる自己満足になっていないかを、時々立ち止まって、ちょっと考えてみたいと思う。