学園長のひとり言

平成13年4月30日

 

人間らしく生きるとは、時間と上手に付き合えること?

自分が他とどう違うかを理解し、他とどう調和させていくかを学ぶ授業が先週の土曜日にあった。

その授業の中で、生徒達は大阪や京都や東京等を3色の色で表したらどんなイメージになるか、各自が選んだ色で話し合っていた。その話し合いの中で答えに窮した学生が「そう思ったからで、それ以上言えというなら、それは僕の人格を否定することじゃないですか」と発言。「貴方の共通言語は随分ずれた共通言語ね。人格を否定されるということは、もっと大変なことだからね。“個性”だから、ずれはいい。でもその差を理解していないと、売れる物は作れないのよ。貴方は“点”でしか物事を見ていないし、他との調和がないけれど、今の自分は、『これだけ人と違う!』ということを知って、それを生かして欲しいと思うけど。」と言われていた。それを聞いて「共通言語!?」、その言葉にハッとなった。

上田学園を始めてから気になっていたことがある。
それは、「はい、やります。」「はい、行きます」等という約束事が簡単に破られることだ。その上、破った約束が周りにどんな影響を与えるかが、全く意識されていないのである。それが、上田学園を卒業する頃には、「はい、やります」が“やります”の意味をなし、「はい、行きます」が“行きます”の意味をなしてくるのではあるが。

勿論、大多数の人は約束をキチンと守り、生活している。そういう人でも時と場合により、約束が守られないことはある。でも、そういう人達からは必ず守られなかった約束に対して、何らかのフォローがある。しかし、中には全く約束をする意味が理解出来ていないのではないのか、と考え込んでしまうような出来事も多々あり、その約束が破られる度に、私の対応が悪いからかもしれないと反省していた。しかし先週の土曜日の授業を聞いていて、ひょっとして「共通言語」としての“約束”の意味が違うのかも知れないと気が付いたのである。そして、“約束”ということだけをとって考えてみると「あれ?本当はこっちの問題ではないのかな?」と思われることがある。

約束を破られて一番困るのは、時間の約束、または時間に関わってくるときの約束である。
例えば、2時に会うと約束して2時に来なかったときは、その後の行動に関係するので困るが、「本を持って来る!」と約束して持って来てくれなかったときも、単に後で持っ来てくれることで済めばいいが、論文提出が間に合わなかったとか、他の人に迷惑をかけたとか、何か問題が出て来たときは、本当に困る。

上田学園でも、「次回までにこれをやってくること」と言われてやってこないと、上田学園での決められた授業時間の中で「考えさせたい!」、「気が付かせたい!」と、思っていた授業が出来ず、他の生徒に迷惑をかけてしまうことがあり、先生達の頭を悩ます。でも、この“約束”という言葉が共通言語の“約束”の意味かどうかということ以前に、「約束を守るべき『時間の観念』がなかったから?」と、気が付いたのである。

ここ数年間、「日本語が本当に日本人の共通言語なのかな?」と疑問に思っていた。だから、土曜日の先生の「君の共通言語は随分ずれた共通言語ね」との一言に、思わず「本当だ!」と頷いてしまった。しかし、それでも何となくピッタリしない生徒達に対する「約束という言葉が理解出来ていないのではないのかな?」という思いが、共通言語に載せて自分を表現する以前の、重要ではあるがもっと原始的な“時間”に対する考え方に「問題があるのでは?」と気が付いたのである。

生き物として生まれるということは、「ある限られた時間の中で生きることである」と考えると、人間らしく生きるということは、時間と上手に付き合えることではないだろうか。

限られた時間の中を、「もう」と「まだ」を上手に使い分け、忙しければ忙しいほど、大変であればあるほど楽しく時間と付き合っていくようにすることが、必要なのではないのか。しかし、この時間を上手に使うということは、時間の観念が体に叩き込まれていなければ、出来ないことだと思う。

上田学園の学生達はとても素敵なものを持った学生達である。色々な意味で”動物的感”も働く。その彼らが、約束事に関しては、全く悪気なく破るのを見て「変だ!、変だ!」と納得できずにいた。いくら注意しても、注意されていることが理解出来ないようなところがあり、その度に「どうして?」と考え込んでしまった。でも気が付いたのである。彼らには時間の観念がない、ということに。だから、「3時に戻ってきます」と言っても、今1時だから3時は2時間後だということが、時間の観念が体に入っていない彼らだから悪びれることなく、時間に遅れてくるのではないだろうか、と。その観念が身に付いていないと思われる学生のことを考えてみると、上田学園の子供達だけではなく、一般の学生にも共通しているものがある。それは、子供の教育に熱心な家庭の子供に多いということに。

時間の観念のない子供達は、小さいときから色々なお稽古事や受験塾などで忙しいスケジュールをこなしてきたようだ。その忙しい生活を管理するため、母親はまるでタレントのマネージャー。それも優秀なマネージャー。


スケジュールを効率よくこなすことを優先させた優秀なマネージャーは、あらゆる時間を管理し、無駄を省いた。その結果、子供にじっくり“待つ”という体験もさせず、タレント化した子供から不満がでないように、何でも欲しがる物を買い与え、食事もスケジュールをこなすために時間が来ると、お腹が空いているかどうかに関係なく、食べ物を口に押し込んで次の場所に移動させた。それは、子供にとって時間の観念を身に付ける時期を逃してしまうことであり、その逃したものがいかに人生にとって大切なものであるかを、親も誰も気が付かずにいたようだ。その上、不幸なことに、その逃したものを学校で補う体制は、今の学校にはない。むしろ、学校でやることや、教えることが多いので家庭で教えてから学校に入学させて欲しいと希望する。

小さいときから、しっかりお稽古事や塾で勉強させたと信じ込んだ親と、家庭で体験し、学んで来たと信じ込んだ学校と、その親と学校の思い込みの“勘違い”の間で、補うチャンスを与えられず、時間の観念のないことも知らずに大きくなった子供達。1時間は60分ということもわかる。3時は長い針が12を指し、短い針が3を指すということは知っている。しかし、それは頭で分かっているだけだ。体験で理解している訳ではない。だから60分がどの位の長さかという“実際”が理解出来ないのだ。

人が人間として、他の人の中で上手に生きていくうえで大切なことは、時間を基礎にした“約束”が出来ることだと思う。
約束は、他人が居てはじめて成立するものであるからだ。もし、自分のしたいことを見つけるのに遠回りして時間がかかったら、人より長生きして、人生の終わりに帳尻を合わせればいいことだ。自分一人のことだから、それが可能なのである。他人は自分ではないのだ。自分は他人ではないのだ。だから、出来ることなのだ。

“個”が基準の“人”としてこの世に存在しようとも、他人が居てはじめて成立する“人間”としてこの世に存在しようとも、共通して言えることは、時間の流れは同じだということである。1分は1分であり、1時間は1時間である。それなら、他人から自分、すなわち“個”としての自分、“人”を感じさせてくれる人間として生きる方が、生きることが楽しめると思う。そう考えると、人間として生きるうえで大切になる時間と、「もう」と「まだ」を上手に使って、上手に付き合っていくことが出来るようになると、いいと思う。

私も含めて、上田学園の生徒達には、「もう」と「まだ」を自分の弱さからの“逃げ道”にせず、「もう」と「まだ」の意識を上手に使って、時間と楽しく向き合って欲しいと思う。その為に、あらゆることの基礎になる時間のルールが一番学べる場所、“一般社会”という場を、上田学園の授業に沢山取り入れ、その中に学生達を放り込んでいこうと考えている。それは、どんな時代になろうとも、どんな環境で生きていかなければならなくなっても、上田学園の生徒達には、自分の人生という時間の流れの中で、納得した人生を送って欲しいと願うからだ。