学園長のひとり言

平成13年5月7日

物分かりのいい親を持って幸せ?。

地震、雷、火事、親父!日常、怖いと恐れられているものの順に列挙した言葉だが、地震より、雷。雷より火事。火事より親父と恐れられたのは昔。今は、地震が一番怖いものになり、親父はどこかに 消えてしまった。

確かに昔の親父は煩くて怖い存在であったが、 しっかり家族を守っている感じもした。今は優しくて、物分かりのいい親は存在するが、本当に何かがあったとき「お父さん、助けて!」と言えなくなり、むしろ「お母さん、どうにかしてよ!」とふて腐れる子供に対して、おろおろする母親の存在ばかりが目につく。

最近、中学1年のときから不登校を始め、現在中学3年生になった子供の相談にのった。
彼女はなかなかしっかりした感じの、いわゆる「いい子」と言われる部類に入りそうな子供である。でも、友達とは上手くいかなくて、ずっと学校に行っていないという。「本人の意見を尊重して、何も言わずに暖かく見守りたいと思います。」とおっしゃるご両親。彼女が不登校しているということ以外は、傍目から見ると物分かりの良いご両親と、言葉遣いの丁寧な子供が構成している誠に理想的な家族のように見えるのである。 でも彼女から丁寧な言葉遣いで話されれば話されるほど、物分かりのいいご意見をご両親から伺えば伺うほど、何か心にしっくりするものがなくて、居心地が悪い。その居心地の悪さに「どうしてなの?」と考えずにはいられなかった。そして、ふっと「物分かりの良い親を持って、子供は本当に幸せなのかな?」と考えてしまった。

最近、巷には癒し系言葉が氾濫している。その癒し系の言葉の中に「物分りのいい親」という何とも微笑ましい言葉があり、その言葉を皆で楽しんでいるように見えるのは、私の偏見だろうか。何しろ、ちょっと前までは父親が頑固か母親が厳しいか、どちらかが半分を引き受けていたようで、両親が物分りがいいことはあまりなかったように記憶しているのだが。

「私は友達のためを思って、色々してあげるのですが、友達は何もしてくれないんです。何かをするのはいつも私で、友達ではないのです。それを指摘すると、『何も頼んだおぼえが無いのに!』と言われてしまうのです」と。

それに対して物分かりのいい親は、「いい友達をつくらせたいので、良い学校に行かせたのですが、裏切られたような気がして・・・」と言う。そして、「今の学校も、友達も本当にだめですね」と。それをじっと聞いていた子供は「家は両親が私のことを理解してくれるので、ラッキーだと思います」とニコニコ話を続ける。物分りの悪い私は「世の中、貴女を中心に動いていたらいいのにね!」と言いたくなった。

“物分りがいい”というのは、どういう意味なのだろうか。本当に物を刀で真二つに切るように理解しているのだろうか。どこかで、「いや、どこかちょっと違うかな?」と感じてはいないのだろうか。他人の意見や立場などを理解する力があるということは、その判断する明確な意見が自分にないと出来ないのではないのだろうか。他人と上手く付き合えないことを、全部人の所為にして、学校に行かないことを正当化させることに一生懸命な子供に、何も言わないご両親。私には、どうしても“物分りのいい親子ごっこ”をしているようにしか見えない。“ごっこ”はいつまでたっても“ごっこ”でしかないのに。

私の後ろで本を読んでいた“上田学園の主”の学生が言う。「先生!フリースクールに行っている知り合いが言っていたんですが、最近のフリースクールの生徒間で、どんな精神安定剤を飲んでいるのかを自慢し合うのが、流行っているそうですよ。変な奴らですよね!」と。それを聞いて「もしかしたら“物分りのいい親”も流行なのかしら?」と思わず呟いてしまった。

地震、雷、火事、親父。本当に懐かしい言葉である。懐かしい言葉ではあるが、頑固で頼れる父親と厳しいけれど優しい“お母さん”が復活して欲しいような気がするのは、私だけだろうか?。本当に私だけだろうか?