学園長のひとり言

(毎週月曜日更新)
いつも遅れてすみません
平成13年6月11日


開かれた学校?

悲しい事件が多い中、またまた本当にいやな事件がおきた。
大阪教育大付属小学校の出来事だ。

お子さん達を、ご自分の命より大切に育てていらしたご両親やご家族。どんな悲しい思いをなさっていらっしゃるかを考えると、なんと申し上げて言いか分からない。分からないだけではなく、何とも形容できない時代の変化、それも悪くなっていくような予感がして、恐怖さえ感じている人が多いのではないだろうか。

加害者の背景が日一日と明らかにされてくると、益々腹が立つ。それを誰にぶつけてよいか分からないし、何をしていいか分からない。それが、誰もが感じていることではないのだろうか。

新聞を読んでも、テレビを見ても、開かれた学校の落とし穴。学校開放の問題点。子供を地域と一体で育てるために、学校の垣根をとりはずした弊害。学校を一般に開放しようと「学校開放」をかかげる現在の制度が結果として悲劇を招いた。など、議論白熱している。
そして、一番悪い加害者は「精神病院に通院していたので、何をしても無罪になる!」と知人に話していたと言う。

何かが違う。そんな思いがずっとしている。

子供を地域と一体で育てるために、学校を開放するということが、垣根を取り外すことイコール、地域に開放したことになると、関係者は本気で思っていたのだろうか。
誰でも自由に学校に入れることイコール、開かれた学校だと思ったのだろうか。

精神病で苦しんでいる人達を守ることと、「精神病院に通院していたので、何をしても無罪になる!」と公言する人間を守ることが、本当に病気で苦しんでいる人を守っていることになるのだろうか。

何だか日本中が共通言語で話していないような気がする。何だか、表面的な言葉に振り回されているような気がする。

学校を開放するイコール、門を開いていることではなく、学校にこんなことをしたいと提案したとき、それを聞いて一考してくれる人間がいるかどうかであり、ドアには関係ないと思う。

「学校の門が常時開いていないから」とか、「垣根が高くて学校を訪問しにくい」とか感じるのは、各自の感じ方の問題であって、学校の問題ではないはず。実際は入りにくい造りの学校であっても何か提案したくてコンタクトを取ったときに、一般の人の提案に聞く耳を持つ学校関係者がいるかどうかが「開かれた学校」、「一般に開放された学校」という意味ではないのだろうか。

実際、子供達の為に何かをしたいと感じて学校を訪ねたとき、門で名前を聞かれたり、用件を聞かれて「入りにくい」と感じるのは、その時応対する方の応対の仕方にそう感じるのではないだろうか。

精神病院に入院したことがあるから、何をしても"許してしまう"ということは、精神病で苦しんで、そこから治り元気に一般の生活をしている元患者の方に失礼ではないのか。何でも許すという安易な考えが、むしろ元気に一般生活している元患者や、今病気と闘っている患者さんに対する"差別"になるのではないのだろうか。

今回の問題を通して、是非もう一度しっかり考えてみたいと思う。
私達が表面的な言葉に惑わされて、本質をしっかり理解していないのではないかという
ことを。

大切な子供達の命を無駄にしないためにも、単なる同情や、一時的な感情や、「人道的」などという言葉に酔うことなく、しっかり考えてみるべきだと思う。それが亡くなった子供達に、私達が出来る最低限のことではないのだろうか。

人の子供をお預かりしても、可愛くて可愛くて仕方がないのに、お子さんを亡くされた親御さんはどんなお気持ちで今を過されているのかを思うとやりきれない。だから、本当に皆で出来ることから考えよう。絶対、人任せにせずに。