学園長のひとり言

(毎週月曜日更新)
いつも遅れてすみません
平成13年6月25日


出来ることから始めよう!

子供達が悲鳴をあげている。先生達も悲鳴をあげている。苦しくて悲鳴をあげている。皆が何とかしなければと、その悲鳴に皆がまた悲鳴をあげる。でも、その悲鳴をよく聞くと、悲鳴ではなく不平・不満であったり、自分を被害者にして、人の気をひきたいための我儘だったりすることが多いように思うのは、私だけなのだろうか。本当の悲鳴か、単なる我がままか、しっかり聞き分けたいと考えているのは、私だけなのだろうか。

世の中が変わろうとしている。変わらなければ、日本中がどうにかなってしまいそうな雰囲気だ。子供の問題。家族の問題。学校の問題。会社の問題。政治の問題。経済の問題。色々な問題。あまりの問題の多さに、誰もがどこから手をつけてよいのか分からず、戸惑っている。そんな中を、問題だけが増殖し、時間だけが過ぎていく。

意味の通じなくなった共通言語。自分の隣に他の人が存在していることも認識出来ず、自分のことしか考えられない人達。そのくせ、人に悪く思われたくないと、自分の意見を発言するより、人の顔色を読み、どうでもいいことに無理に同調し、くたびれ果ててしまう人達。

通らない自分の意見や思いを、被害者意識しかないために、“いじめ”だとか、“虐待”という言葉でごまかす。そして、“いじめ”や“虐待”という言葉だけが一人歩きし、説明不足を勝手に補い、現実でない評価をして保護し、甘えさせ、その結果何も出来ない子供や大人だけが世の中に蔓延する。これは、イソップ物語の狼少年と同じではないか。

本当に狼が出てきたとき、誰も信じず“大ごと”になって、「いや、こんな問題になると思いませんでした。」とか「生傷が絶えないので変だとは思っていたのですが、そこまで人の家庭に入り込んでいいか分からず・…」等という取り返しのつかないことになって議論を始める。人の命を何だと思っているのだろうか。

何時も、いつも何か問題が起こるたびに、まるで対岸の火を見るように「人道的に!」とかいう美辞麗句をただ並べて、評論家気取りに意見を言う。非難をする。でも、責任は「とりたくない!」

今、小泉内閣が大変な支持率だ。田中真紀子外務大臣の支持率も、大変なものだ。上田学園の子供達も、テレビをつけるたびに「国会中継ありませんか?」と一生懸命チャンネルを回して、探している。

「小泉内閣には政策がない!」という人達もいるが、政策がどうこう言う前に、基本的なもの、特に国民の代表者であるはずの彼らが、選挙のとき以外全く国民の代表者であることを忘れ、国民に理解出来ない“国会語”即ち、「検討したいと思います」は、“国会語”では「時間を経過させて、何もしません」の意だったり、「善処いたします」は「、というポーズをとって、何もしません」の意味であるような、政治家しか通じない独特の“国会語”を駆使し、派閥争いをしながら一般国民が理解出来ない世界を作ってしまうことを止めさせなければ、いくら「我が党の政策は・・・」と言われても、従来のように言葉の政策だけが一人歩きし、その言葉に振り回されたマスコミに、一般国民が振り回されてしまうような気がする。

小泉総理や田中真紀子外務大臣のように、自分の言葉で話をしてくれる政治家。その人達の前では、“国会語”を駆使して議論されるどんな内容のことも、なんと色あせ、嘘っぽく感じるられることか。

あれだけ「本物だ!」とか「真実だ!」と感じ、支持した政党や政治家が色あせて見えるのは、生の言葉や考えが、いかに人の心に入ってくるのかの証拠であろう。また、自分の頭で考え、自分の言葉で話してくれる人間が出て来るまで、それが当たり前であり、常識であることに気がづかなかった自分達に唖然とする。

当たり前を普通にしてやる政治家の行動を見るのは、まるで混沌とした政治の中では一服の清涼飲料のように気分を爽快にさせ、分かる言葉で語られる言葉に感動さえしてしまう。おまけに、「日本の政治も何とかなるのではないか?」という希望まで、単純に持たせてくれる。政治に何も興味が持てなかった者にも、興味の無かった者にとっても、不思議に政治が気になりだしている。

“生の考え”や、“生の言葉”で語られれば、政治家の政策も理解できるし、それが本物か嘘物かも見分けやすくなるだろう。そこからが、本当の第一歩であろう。それがあって始めて、政治家の言葉だけが一人歩きして、現実でない評価をし、保護し、甘えさせその結果、何も仕事の出来ない"政治屋さん”ばかりが育つこともなくなると思う。

何はともあれ、今、政治に興味が持てるようになったことは、いいことだ。それと同じように教育も、子供の問題も、もっと身近な問題としてとりあげられるように、もっと身近な言葉で語る専門家が出てきてもいいのではないだろうか。

開かれた学校といって、門が開いていることばかりを気にする学校関係者や、「家庭に居場所がないのでは?」と言うと、「自分の部屋があるのに、それ以上、何を要求するのですか?」という親や、有名人を顧問に迎えたから「開かれた市です」という市関係者や、「ストレスが原因のナンタラ病だと言われました」と、病名がついたことで安心して、何か自分達にとって不都合があると、そこに逃げ込んで安心し、時にはその病名に酔ったようにモット自分を追い込んでしまう子供達。

「だからどうしたの?」「だから何をしたらいいのか?」という前向きなことを“全く考えない”というようなことは、もうやめよう。

何が正しいのか、何が間違っているのか分からないけれど、その時、その時一所懸命に考え、もし間違ったら、それで臆病になるのではなく、そこから学び、次にコマを進めて行く勇気。そして、大人も子供も、「することをして、言いたいことを言う。」そんな人間がたくさん育つ社会が出来るといいと思う。

いつから、こんなに文句と不満と自分のことしか興味の無い人間、人の顔色ばかりを気にするくせに、自分のことばかりを理解して欲しいという“自分勝手人間”しかいなくなったのだろうか。もう、そんなことはやめよう。

現代社会の問題は、誰もが、何から手をつけていいか分からないのが本音であろう。何しろ、過去に経験しなかったような流れが押し寄せているのだから。

しかし、分からないなりにも、自分の頭で考え、自分の心で考え、今一番いいと思うことから始めていきたいと思う。それが、問題から逃げて自分のことしか考えない子供や大人が育つのを防止しすることになり、ほんの少しの希望の光を見つける手がかりになると思うから。その小さな希望の光に背中を押されながら、例え間違っていても、その間違いから何かを学び、次のステップに行くことのほうが、ずっと大切だと思うから。

人間の命には限りがある。自分が出来ることにも限りがある。他人に出来ることにも限りがある。しかし、目に見えない力になり、支えになることは出来る。それが人間としてお互いを大切に生きていく原点になるのだからその出来ることを大切にして、今日のために、明日のために、次の世代のために使いたいと思う。