学園長のひとり言

(毎週月曜日更新)
いつも遅れてすみません
平成13年7月31日



頼もしい隣人、素敵な子供達。

「こら、馬鹿!、そんなところを汚したら近所の皆さんにご迷惑をかけるじゃないか!」どこからともなく聞こえてくる元気なお母さんの、子供達を叱る声。

私の住む近くに元気なお母さんがいる。
彼女は小学校高学年と低学年の男の子のお母さんで、男の子ばかりを持ったお母さんの定番のようにサバサバした若いお母さんだが、子供達を叱る言葉とは裏腹に、本当に礼儀正しく、心根は天下一品のお母さんである。

彼女の子供を叱るときの叱り方は、徹底している。中途半端ではない。
親として子供に言わなければならないことは、子供に遠慮することなくしっかり言っている。だから、子供達がとてもいい子達なのだ。決して今風の大人の顔色を見い見い、大人が喜びそうなことを言うという「いい子供」ではなく、従来の子供らしい子供なのだ。だからお母さんの子供を叱ったり、注意したりする声が聞こえてくると、思わず「ごもっとも、ごもっとも。お母さん頑張れ!」と心の中でエールを送ったものだ。

お母さんの叱ったり注意したりする声しか、聞こえなかった少し前までと違い、最近ではそれに、子供達が理屈をコネてお母さんに対抗する声が聞こえてくるようになった。まさに子供がしっかり成長している証の「頭を使った」対抗のしかたなのだ。

あの小さな頭で一生懸命考えたのだろうイッパシの理屈で、対抗している声が最初に聞こえてきたとき、思わず笑いがこみあげてきて、彼らの理屈にエールが送りたくなったくらいだ。

そして、それを受けてお母さんも、以前以上にもっとしっかり理屈を捏ねて、真正面から子供に対抗して、親として言わなければいけないことや、注意しなければいけないことを「お前達が大人になって困るからお母さんは言うんだ。親として当たり前なんだ。お前達の親なんだから。人に迷惑をかけない人間にならないといけないからだ。馬鹿!」と。

私の学校には、色々なお電話がかかってくる。その中で一番平均しているのが、名前も名のらず血を吸う前の蚊(?)がやっと鳴いているような声で「あの、すみません。子供が学校に行くのがいやだと言って、不貞寝しているんですけれど、どうしましょうか?」と人事のように言うお母さんだ。

「失礼ですが、お名前は?」「お子さんは何歳ですか?」という私の質問を無視して、「困っているんです。子供は親の目から見ると、とても優しくていい子供なんですが。どうしたらいいんでしょうか?」と一方的に優しい声の主は話続ける。「子供に注意して、もし外で悪いことでもしたら困りますし、どうしましょうか?」

「どうしましょうか?」と連呼されても、お電話のご家族に会ったこともないので、私の意見は言えない。言えないし、勝手に電話の向こうの話が続くのでじっと聞いている。

話が終わった頃を見計らって「お母さんは、子供さんをどうなさりたいんですか」と質問すると、「せめて高校位出ておいて欲しいのですが、いやなんでしょうか?」と反対に私に質問してくる。そして最後に必ず「あまり子供に言いすぎて子供の心が傷ついたら困ると思って、何も言えないんです。子供に何か言ってもらえると有難いんですが…」と言う。

私はこの「せめて〜くらい〜して欲しい」というフレーズを聞く度に、21世紀に生きなければならない子供達の親として、「未だにこんなことを言っているけど、世の中の流れが見えないのかしら?」と、何だか淋しくなる。そしてふっと近所の逞しいお母さんの大声を思い出し、「時代がいくら変わろうと、『いいもの』は絶対『いいもの』であり、『親』は絶対『親』なんだけど。もしアメリカのような「お母さんコンテスト」があったら、私は絶対このお母さんを推薦するだろうなと思ってしまう。

現在は、教育的見地から子供を「馬鹿」呼ばわりしたり、叱ったり、叩いたりしたら、いけないと言う。でも本当にそうなのだろうか。

今巷を騒がしている「虐待」と、親が「躾」で叩くのとは決して同じではない。その区別もつけられない大人達や知識人が多い。「馬鹿、まだ分かんないの?駄目は駄目。お父さんに聞いてみないと駄目なんだってば。」とい元気なお母さんの声を聞きながら、本当に素直ないい子供に育っているお子さん達を見るにつけ、「叱ったり、注意したり厳しくしても、厳しいだけじゃない。しっかりフォローしているしな…」と、本当の意味で親業をしっかりやっている親と、一見いい親を演じている親の違いを、元気なお母さんから感じてしまう。

近所の元気なお母さんは、子供達と一緒に花を育てたり、猫用の「おしっこよけボトル」を作ったり、夜空の綺麗なときにはお父さんも一緒に、家族中で夜空を見上げて星の話をしたりしている。そして、「おやようございます。有難うございます」と近所の草取りを黙々としている私の母に大きな声で挨拶をして下さる。だから、子供達も同じような挨拶しながら、母の横を通り過ぎて行く。

今の時代ほど、「日本語」が本当に日本人の「共通言語」かな?と心配になるほど、通じなくなっている時代はないのではないだろうか。そこへもってきて、親が子供にこんなに遠慮して生きている時代はないのではと思えるほど、子供達をガラス細工をいじるように気を遣って、取り扱って(?)いるのを見ると、子供が本当に可哀想になる。

子供は上手に説明出来ないだろうが子供にとって何かあったとき、心から頼れ、心から信頼したい自分の保護者である親が、自分の顔色を見い見い恐る恐る気を遣いながら、本心とは思えない意見を自分の顔も見ないようにして言う姿、嫌になるだろうなと同情したくなる。

親も教師も、子供を取り巻く大人達も「神様」ではない。間違えることもあるし、失敗することもあるし、誤解することもある。だからと言って、今現在一生懸命考えて「正しい」と思える意見を子供にぶつけないということは、人間社会の構成員の一人である子供達に失礼な気がする。

親も含めて、子供達を取り巻く大人達はいつの時代も子供達の生きるサンプルである。それだけに、一生懸命子供達と付き合うべきだし、子供達の先を生きている者としても、間違えたら勇気を持って訂正し、謝り、前進していく姿を正々堂々と見せるべきだと思う。それには、信じていることは子供達に反抗されても、しっかりぶつけていくべきだ。

世の中、物をキチンと判断する物判りのいい親と、どうしようもない親の垣根が全くなくなってしまったような気がする。そして、表面的な物分かりのいい親を、意味も解からず演じたがる親が多く、その被害を子供達が正面から受けてしまっている。でも、真剣に子供の将来を考えるのであれば、自分の信ずる意見は言うべきだし、やらせるべきだ。

「お母さん、ご飯を食べてから水をあげていい?」
「何を言ってるんだ、馬鹿!人間がしっかり世話してあげないと草花はこの暑さで枯れてしまうんだからね。お前は足があるから自分で水を飲みに行けるけど、お花はそうはいかないんだよ。自分の食べる前にやりな。涼しいうちでないとお水はやってはいけないの。わかった!」

今日も朝から、元気なお母さんの声が聞こえてきた。その元気なお母さんの声に、なんだかホットして「今日も一日頑張って仕事しなきゃ」と思わず呟いてしまった。