(毎週月曜日更新)
いつも遅れてすみません
平成13年11月14日
否定から前進しよう!
11月末から12月早々に、「園長の独り言」が本として出版される。その本の中に収められる対談を作家の村上龍さんと村上龍さんの仕事場でさせて頂いた。 村上龍さんとは、2年位前にフリースクールの取材ということで上田学園に私を訪ねてくださったことがきっかけで面識を得、その後上田学園の子供達が村上龍さんのホームページRyu-Exodus.comの「新しい時代へのExodus」の「不登校」を担当させて頂いたり、村上龍さんが主催するキューバ音楽のコンサートに招待して頂いたりした。その後、村上龍さんのお仕事をされている方々やされていた方々が時々上田学園にお遊びに来てくださるようになり、上田学園の子供達はすっかりキューバ音楽に魅了されサルサに合わせて踊るのを楽しんでいる。 そんなご縁を頼りに図々しく対談をお願いしたのだが、初めてお目にかかったときは、野武士みたいな方だが威圧感の全くない、むしろ優しさを感じる、呼吸のしかたがとても自然な方だという印象を持った。が、今回インタビューされる側ではなくお話を聞く側になって改めて作家村上龍という方とお目にかかって、こんな表現があたっているかは分からないが、ご自分のテリトリーをしっかり持ち、ご自分の考えに裏打ちされた言動が彼を"山のようにそこにデント存在しているように感じさせられる人"という印象を受けた。 当たり前といえば当たり前なはずなのに、私にとって言動一致の人を探すのが難しい昨今、村上龍さんという方は早い話、まるで金太郎飴のようにどこを切っても「村上龍」の何者でもないのだ。(今気が付いたのですが風貌も似ているかな?)少しは誤差があるかと叩いても押してもそこにいるのは「村上龍」なのだ。そんな彼を今の時代が要求するのは当たり前だと得心がいった。 今まで、日本の中で本当にコミュニケーションをしっかり取れる人達や取ることを必要としていた社会があっただろうか。いつも何となく分かったつもり、理解したつもり、納得したつもりと、つもりつもりの社会の中で生きていたような気がする。大人も子供も人間としてしっかり会話をしていたのだろうか。会話をするということは、「自己責任」という共通の意識の元に、自分の意見をしっかり持ち、相手の意見をしっかり聞くことから始まると思うのだが。 親子の間も同じだ。その為に親は小さいときから自己責任に裏打ちされた会話(言動一致)をしてみせることで、子供が知らず知らず言動一致という考えを基盤にした会話をする意義を学んでいくのだと思う。 上田学園の子供を通してみる現代の子供達。まずは否定から始まる。相手の言うことを聞いてみようとはしない。ただ理由もなく否定するのだ。否定することが反社会的で格好いいと思っているのか?個性的と信じているのか?否定することでその否定したことに責任が発生することにも気が付かず。 若い時代は今しかない。だから大いに否定をしてもいい。でも否定の後に何の意見も行動もないのは、時間の無駄。お金の無駄。エネルギーの無駄。何故なら人は納得しないからだ。例え人に受け入れてもらえなくても、自分なりに反対する確固たる意見を持っていれば、それはそれなりに通じる。しかし、否定しているつもりでも全く意見のない否定は、拒絶でしかない。拒絶は"絶"だ。だからそれ以上前に進まないのだ。発展しないのだ。 どんな主義主張を唱えようと、親に食べさせてもらっている間は、紐付きだ。紐付きは、その紐の言うことを聞かなければならない。紐なしで自由に生きるためには一日も早く独りで食べていけるようにしなければならない。その為に、ただただ意味もなく拒絶するのではなく、自分の意見を持ち否定することを学んで欲しい。自分の意見がしっかりしていれば、人の意見を聞こうとするし、納得すると方向転換も簡単だ。方向転換は後退することではない。自分の意見があったから次に進むための単なる方法論の一つだと思う。方向転換は決して敗北ではないから、潔く方向転換出来るのだと思う。 上田学園の子供達には、否定するための意見をしっかり持てるように色々なことに目を向け、吸収し、学んで欲しいと思う。そして正々堂々と否定し、否定したことの代わりに何をしなければいけないか、どうやって前進するかまで考え行動出来る力を持つために、無駄な抵抗(?)はやめて素直に学び、素直に聞き、素直に理解するよう努力して、最短距離で合理的に自分のための力をつけてくれたらいいと願っている。 村上龍さんではないが、上田学園の子供達は鋭い感性を持っている。しかし、感性を単なる感性で終わらせないために、その感性を何かを通して表現する力を身につけて欲しいと思う。それが出来る子供達だと確信出来るからだ。人材としての彼等を"宝の持ち腐れ"にしたくないからだ。その為に私達は張り切ってギャ‐ギャ‐言うつもりだ。その為に、自分達をまるごと子供達にぶつけるつもりだ。その中から子供達自身が自分に必要なものを見つけ出し、自分のものとして発展していく原材料にしてくれることを願って。
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