●学園長のひとり言  


平成13年12月29日

*(毎週月曜日更新)
いつも遅れてすみません

                  来年はいい年でありますように!


父の言葉を借りれば、我が家でただ一人の「大切な娘!」と可愛がられた私には、10歳と5歳年の離れた兄がいる。そして、その兄達の間に2人の兄と一人の弟がいた。

2人の兄は満州から引き上げてくる途中と、引き上げて来てから亡くなった。そして弟は母のお腹の中で亡くなった。

両親が自分達の人生の中で一番悲しかったことはと言われたら、可愛い子供達を死なせたことだという。

我が家では父が一番偉い人で、一番上の兄は何時も「僕は大きくなったらお父様のようになるんだ!」と言って育ち、2番目の兄は「僕はお兄ちゃんのようになるんだ!」と言って育ち、3番目の兄は2番目の兄のようになりたいと言い、何でも上を見習って放っておいても元気に育っていったという。

「お母さん、いいちゃん(2番目の兄)は凄く頭がいいんだよ。何でも教えてくれるんだよ!」と言って靴を履くたびに「いいちゃん、これであってる?」と右足の靴か左足の靴か混乱すると弟に教えてもらっていた長兄は、そのたびに感心していたそうだ。そして、一番偉いお兄ちゃんに尊敬される2番目の兄を3番目の兄は羨望の眼で見ていたそうだ。

そんな彼等は、満鉄の築港の測量技師だった父が久しぶりで帰宅するときは、兄弟皆で学校や幼稚園で習ったお遊戯や歌を食事している父の前で披露して、父を喜ばせていたという。そして終戦。

丁度イギリスに留学していた伯父は、ベルリンオリンピックでヒットラーを遠くから見、その印象で「千代さん、この戦争は負けますよ。日本は科学者を大切にしないし、ヒットラーと手を組んでいますからね。どんな状況になってもいいように、覚悟はしていた方がいいですね」と言い、母はずっと敗戦の覚悟は出来ていたという。しかし実際に敗戦になり、満州の奥地で爆破された鉄橋の工事をしに行っていた父の安否が全く分からず、そのうえロシア兵が来るというので兄達を集め状況を説明し、「この缶詰を食べたら、皆で死にましょう」と、皆で最後の晩餐をしたそうだ。

死ぬことに同意し取って置きの缶詰を食べていた小学校2年生だった長兄は「おかあさん、お父様が生きているか死んでいるか分かってから死んだほうがいいと思うけど。もしお父様が生きていたら、僕たちが死んだのが分かったらキット悲しむと思うから」と父の安否が確認出来るまで死ぬのをやめようと母に言い、その言葉で死ぬのを延期してまもなく、父が元気でいることが分かり、父の帰宅を待って苦労して苦労して日本に引き上げて来たその船上で一人、そして引き上げて来てから一人。戦後の貧乏の最中に一人と、3人の子供を亡くしたのだ。本当に悲しかったと母は言う。

着の身着のままでの引き上げの中、わずかに持ってきた上着等を持って1日かけて奥多摩や川越に出かけて行き、お願いしてお願いしてやっと卵一つ、お芋1本と取り替えて入院先の日赤病院に持って行っても、死ぬことを悟っていた2番目の兄は「お母さん、僕は戦争がなかったら死ななくてもよかったんだね。お兄ちゃんにあげて!」と言って母がどんなに言っても絶対口にしようとしなかったそうだ。

こんな悲しい経験をした両親は、生き残った私達に「本を沢山読みなさい!」「人の幸せを考えられないような人間には育てていない!」とか結構厳しいことを沢山言っていたが、一番私達が言われたのが「亡くなった兄弟の分まで一生懸命生きるのが、残された兄弟のお役目」と言い、自分の人生と亡くなった兄弟達の分の、二人分の人生を生きて欲しいと願っていた。

泣いても笑ってもあと2日で今年も終わる。2001年がどんな年になるのか本当に楽しみだった。しかし、今年ほど公私ともに大変な時期は珍しいと思うほど、大変だった。

お世話になった方の死。親友の死。伯母の死。遅々として進まないビジネス。大切な先生の病気退職。別れが沢山あった。学生達との葛藤が沢山あった。誤解も沢山あった。一人で生きていかなければならないという思いも沢山あった。

自分の主義主張のために、意識して人を傷つけなければならないときもある。だから無意識で人を傷つけるようなことは、なるべくしないようにと願っていたはずの私が、一番人を傷つけていたといこともあった。

どの問題もどの問題も一人で対処しなければならない問題だった。だから今まで見えていなかったものも見えてきた。魂のこもった心で語ってくれる言葉と、そうでない言葉の区別がやたらに出来るようになった。厳しい叱責が宝石箱の中で輝いている宝石のように感じた。そんな問題を通して自分が一人ではないということを、皆が知らせてくれた。

今年の1年をもう一回やれと言われたら、ちょっと躊躇する。でもそんな大変な中で学生達が見せてくれた笑顔や、励まし。そして自分らしく生きようと葛藤する様。それは私に何度も「この仕事をしていてよかった。」と思わせてくれた。

この世に生かされている理由は誰にでもある。そこにその人が存在するだけでいいのだ。それがどんな人間にもこの世に存在する意味だと信じている。そして今年ほど私は「2人分の人生を一生懸命生きて欲しい。」と願った両親の言葉を実感した年はなかった。本当にこれからが、私の第二の人生なのだということも。

一番大切な学生達と一緒に、今起っている問題を一つ一つ自分達の目と耳と手と足で解決しながら学んでいこうと思っている。「今までのことも含めて、これからの自分達の行動を見てもらっていくしかないね」とふっともらした北海道から来ている学生の言葉のように。

この1年間本当にありがとうございました。苦しかった分、誰にでも感謝の出来る今を本当に有り難く思っています。

昨日より今日。今日より明日と素敵になっていく学生達。こんな素敵な学生達を上田学園に預けて下さったご家族の皆さんに感謝しています。まだまだ発展途上中の彼等や私ですが、彼等はきっと彼等の人生を通してご家族の皆様に感謝していくと思います。私がそうしたいと思うように。

ハイリスク、ハイリターン。ノーリスク、ノーリターン。
2002年が皆様にとって良い年でありますよう、心から願っております。

「無事実家に戻ってきました。上田先生聞こえる? 昨日は私のこと忘れていて警戒していたのに、今朝になったら思い出したらしく私の手にのっかって鳴いているんだけど…」と。普段は理路整然と話し、厳しく生徒達と対話するが「本当に同一人物?」と思わず聞きたくなるほど授業を離れると可愛い人になる先生から電話が入った。電話の向こうで可愛らしい電話の主のノンビリした声と一緒に、これまた可愛い小鳥のさえずりが聞こえてきた。電話の向こうは一足先に春が来たようだ。


  

 

  

 

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