●学園長のひとり言  

平成14年3月6日

*(毎週月曜日更新)
いつも遅れてすみません

   

  宿題奨励の是非!

「上田先生、新聞お読みになりました?先生はどう思われましたか?」電話の向こうである学校の教師だという方からお電話を頂戴した。

「文部科学相『宿題のすすめ』学校・現場どうする?」こんな見出しが今朝の朝刊の教育欄に大きく出ていた。要するに四月からの新しい学習指導要領実施を前に、遠山文部科学相が緊急アピール「学びのすすめ」の中で奨励した
「学生一人一人に応じた宿題を出そう」という要請に対する教育関係者や教育現場の反応が、記事としてとりあげられていた。

「この記事に上田先生はどう考えますか」という意見を聞かれたのだ。

電話の先生は、自分達はこんなに仕事をし、こんなに苦労をし、決していい環境ではないところで働いている。それなのに、それ以上に学生の能力に合わせた宿題をしろというのは、要求過多ではないだろうか、というご意見であった。

私はその新聞を読んでいないので、その新聞を読んで必ずこちらからお電話致しますという言葉に「いえ、午後の授業があるので、こちらからお電話を致します」と電話が切れた。

昼休みを待って、急いでキオスクに新聞を買いに走り、記事を読んだ。

「宿題についてか・・・・」記事を読み進めるうちに「宿題って何のために出すんだっけ?」と考えてしまった。

確かに上田学園の生徒達も宿題をしてこない。してこないことに全く後ろめたさがない。忘れたことを何とも思わないようだ。いや、思っているのかな?時々休む生徒のことを他の生徒が「宿題が出てたからな。多分来ないと思ったよ!」等と言うところをみると、宿題をやっていないことが後ろめたいのかもしれない。(最近は結構楽しそうに調べ物などをしてくるようにはなったが)

宿題をするということより、家に帰って勉強をするという習慣が身についていないようだ。試験があったから家で勉強したけど、試験を無視している子供には家で勉強するという習慣は全くないのと同じだ。宿題だけでなく、家で本を読んだり、何かを書くという習慣がないのだろう。確かにコンピュータを操作している時間は長いようだが・・・・。

「宿題?」 私が考える宿題とは、宿題でする勉強とは、先生や友達がいなければ出来ない勉強をする所が学校であり、先生に教えてもらったり気付かせてもらったり、友達との共同作業の過程で学ぶ勉強や友達が気付かせてくれて学ぶ勉強が、学校の勉強。

自分一人で出来る勉強が、家でする勉強。宿題はその中に入り、小学生の低学年の場合は、宿題を通して机に向かう習慣をつけること。高学年になるにつれて、何回か繰り返し練習したり、じっくり考えたり、自分で調べたりしながら、学校の授業から派生した勉強を自分一人でする。但しこれらは、勉強が自分のためにするのだということを、しっかり理解させておくか、何となく理解出来るようにしておくことを条件として。

宿題のテーマは、あくまでも本人達のための勉強なのだから、なるべく押し付けられたと思わないように身近な内容にし、短時間で出来るようなものにする。また短時間で出来ないものは、シリーズのようにして一見短時間で出来るようにを心がけている。

有難い事に教師が宿題の無理強いをしなくても、興味のあることであれば、繰り返してやる単純作業を嫌う子供でも、知らず知らずに夢中になるし、夢中になると自分から時間をかけてやってくるようになる。自分から宿題を提出しようとするようになる。

電話の先生のお怒りを考えながら新聞を読み直すと、他の紙面に「『ゆとり』に逆行?反発も」とある。そして、中央教育審議会(文科相の諮問機関)の委員、日本教職員組合の代表者、PTA全国組織の代表者と、立場の違う3人の方のコメントが載っていた。

「多くの先生達は多様なものの考えか方が苦手だ。日本の教育界は画一的。子供一人一人に応じて宿題を出すことなど出来るわけがない」ときっぱり。

「宿題を出すからには、教師は評価を行い、未提出の子供にも必ずやらせる指導が欠かせない」「教師は朝から放課後まで四苦八苦しており、30分のゆとりの時間もとれないのが実態。文科省は個別対応した宿題をだせというなら、教師へのなんらかの支援処置を打ち出すべきだ」

「詰め込み教育の反省から、自ら学び考える力をはぐくむという『ゆとり教育』を推し進められてきたが、宿題奨励はこの路線に逆行するもの、と受け止める教師、親たちも多い。『何のためのゆとりなのか分からなくなる。文科省は姿勢が定まらない』と不信感をつのらすPTA全国組織の幹部もいる。」

ほんの数日前に二十歳になった学生がお酒をのんだ勢いで「全部とは言わないけれど、ホームページで自分の自慢話ばかりするなよ!」と抗議された。ここのところ、自分の思うように事が進まないことにイライラしているのを「頑張れ、今自分に勝てたら、絶対前進出来るから!」と無言の声援を送りながら、じっと見守っていることしか出来なかった私は「チャンス!」とばかり、その場で出来る議論をしっかりさせてもらった。そして、終電の関係で最後までその場にいられなかった先生からの質問に答えながら、「いいか悪いかわからない。でも学生達とは、彼等から嫌われてもいい。本音で付きあおう。本音の意見を言おう。考えをぶつけよう。いいことも悪いことも全部見せよう」と決めて学生達と付き合っているが、言うことやること話すことが全部「上田先生の自慢話」と思われるのではまずいかな?ちょっと表現の仕方に気をつけないといけないな?と自分に言い聞かせたばかりだったが、私はこの記事を読んで思わず、誤解されてもいいから言いたくなった。

宿題に関しては"宿題"の定義を各教師が明確にしてあれば、意味が理解できていれば、人数が多くても同じテーマの宿題をさせても、その子供は自分にあったレベルでそれをやることが出来ると思うし、一人でやることも“学べる”と思っている。しかし、それ以上に立場の違う方々のコメントが気になった。

文部科学省の指導で養成された教師のことを、「多くの教師が多様化された物の考え方が苦手。だから日本の教育は画一的。」等という発言は、自分達で天に向かってつばを吐いているのと同じではないのか。自分達の育てた先生のことをどうしてそんな風に言えるのか理解に苦しむ。大切な子供達の一人一人を無視して、画一的な指導しか出来ないような教師を育て、採用したのは誰なのか。本当に、多くの今の先生には“出来ない”と信じているなら、それに気がついているなら、子供達のために、何故一日も早く改善をしないのか理解に苦しむ。この発言には何とも説明出来ない違和感を覚えた。

また、「文科省は、個別対応した宿題を出せというなら、教師へのなんらかの支援処置を打ち出すべきだ」というご意見だが、確かに今の先生達は大変な仕事量のようだが、それでもやってもみないで、どうして自分達に「何か支援をしてくれ」と言えるのだろうか。支援されなければ出来ないような、すごい労働になるほどの量を宿題として出そうと考えているのだろうか。

宿題奨励が「ゆとり教育路線」に逆行するものととらえ、「何のためのゆとりか分からなくなる」とう意見のようだが、心にゆとりも持てなくなるほど時間に忙殺されるような量の宿題が出されると本気で現場の先生も親も考えているのだろうか。

宿題とは何なのか。「ゆとり教育」とは何なのか。生徒達に自由時間をたくさんあげることが「ゆとり教育」なのか。宿題を出さないと「ゆとり」が出来、そのゆとりが何を“生む”と言うのだろうか。

新聞の紙面上を色々な言葉が飛び跳ねている。そして、立場の違う人間は立場の違いを誇示するように、お互いを責めているように読めるのは、私だけなのだろうか。

宿題を出す意義をもう一度しっかり考えてみたい。教師としての仕事についてもう一度考えてみたい。悪いことは悪い。いいことはいいと認めながら、ないものの工夫。あるものへの感謝。そんな気持ちでもう一度自分達の立場を考えてみたい。私達教師や教育に関係した者達は、大切な大切な子供達をお預かりしているのだから。

自分達の立場だけを主張し、反論をしている間にでも子供達のために、黙々と努力や工夫を重ねながら、楽しい授業を目指し、楽しい宿題をめざし、「勉強は君達のものだよ」と教えようと頑張っている先生達がたくさんいることを紙面が伝えている。そんな先生達のことを考えよう。そんな先生達がいることを子供達の為に感謝しよう。議論はそれからしても遅くない!

子供達のために、立場を超えた現実的な議論をして欲しい。古い時代の古い体質の歯のかみ合わない自分達擁護のみの議論ではない現実の理論をめざして、頑張って欲しい。期待している。期待したい。それが私の意見だ。

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