●学園長のひとり言 |
平成14年3月19日 *(毎週月曜日更新) いつも遅れてすみません
親の上手な手抜きは、子供の嬉しい学びの場 新聞を読むと今一番話題になっているのは、北海道の鈴木議員のことと、この4月から実施される「完全学校週五日制」と「新学習指導要領」のことだ。 「完全学校週五日制」は学校にとってもご家庭にとっても大変な負担になるようだ。 まだ日本が土曜日は"半ドン"といって午後1時まで働いていた時代に学校を出て、当時としては珍しい週休2日制の外資系の企業で働き出した私は、土曜日は掃除・洗濯・お稽古事の日、日曜日は親や兄弟とゆっくり「休みを満喫する日」と大いに週休2日を楽しんだ。その後、週休2日が当たり前の海外で生活を始め、「ヨーロッパに住んでいる日本の子供達は幸せですね。週休二日制ですものね。日本はまだまだ旧いですから当分週休二日になどなりませんよ。週休二日制になったら日本も先進国の仲間入りですね」と日本人補習学校の教師をしていた私は散々羨ましがられたものだ。 「月曜日から金曜日までは宿題がたくさん出されるようですけれど、週末や夏休み・冬休みには全く宿題が出ないですし、休みの間はカバンなども自宅に持って帰らないですね。勿論「塾」はないですし、こんなに休みがあって勉強する時間は日本の方が断然多いのですが、でもノーベル賞をとるような優秀な人材が日本よりたくさん出るのは、どうしてでしょうかね?」等と訪ねてみえた日本の先生達ともよく話し合ったものだ。そのときのことを考えると、現在の議論のされ方は嘘のようだ。 「完全週休二日制」になると、そんなに学力が落ちてしまうのだろうか。学力はもう十分落ちているではないか。その証拠に高校生でも"新宿"を"しんじく"と書き、"わかった"を"わかた"と書く学生がいるという。まるで外国人が日本語を勉強し始めて2・3ヶ月目位の日本語力だ。15・6年間"日本人をやっている学生"の解答とは思えない。これは問題のある学校だけの問題ではないだろう。大学生でもこの程度の学生は多いそうだ。 人気のある学校では4月から実施される「新指導要領」に関係なく、教える内容をカットせず、現在の内容と質を維持する方向でいるというが、今までその内容と質を維持するために、子供達の成長の過程で大切な友達との交流を止めさせ、大切な家族の団欒の時間、食事時間をとりあげ、色々な犠牲の上で、「塾」や「特別授業」や「補習」によって守られ、受験に照準が合わされた質や内容であるのであれば、それは「暗記競争コンテスト一位」をめざすことで、本当の意味での学問をするための学力をつける勉強ではないと思うのだが。まして、色々な物を犠牲にし、「塾」や「特別授業」や「補習」という支え棒を使って維持してきたはずの質も内容も、現実的には低下しているという事実。これをどう解釈したらいいのだろうか。 教育関係者も父兄もそこを見落として「完全週休二日制」を考えてはいけない。「どうしてそうなったのか?」という原因も考えず「あんなにやってもこんなに教育レベルが落ちているのだから、勉強時間がなくなったらもっと落ちる」と恐れているのは、いかにも滑稽な話だ。 教育には時間が必要だ。しかし、教育を教室の中だけ、先生が居るところだけと考える考え方は間違っている。そんな考え方が、結局時間が必要な教育=学校完全六日制という短絡的な図を作る原因になっていると思う。そこから考え方を変える必要がある。 海外の子供達は週末を楽しみ、長い夏休みや冬休みを楽しんでいる。でも、彼等は勉強するときは、する。遊ぶときは、しっかり遊ぶ。出来ないものは時間をかけて学ぶ。そのための落第は何とも思わない。そんな環境の中、自分のペースでやっている。彼等の教育レベルは決して悪くはない。何が日本と違うのだろうか。 まず第一に私達が今考えなければいけないのは「完全週休二日制」ではなく、本当に「何を教えなければいけないのか」を分析すること。「学力」とは「基礎学習」とはを、しっかり確認することだと思う。 教師は、最初から最後まで先生が側にいて教えなければ、自分では何も勉強できないような学生を育てるのではなく、生徒達が自分1人できちんと勉強出来るように「指導」することだ。そのために教師はどうやって授業を理解させるかの「教授法」を再考するといい。「自立して一人で勉強できる」そんな指導を「義務教育」の中ですることが一番重要な義務教育の「課題」であることに気付くべきだ。それが本当の意味での「考える道具箱」としての「教育」だ。それが出来ないと、批判されてもされても「指示待ち症候群」から脱皮できない、自立することも学べない哀れな学生ばかりを育てる原因になる。プロの教師として、こんなナサケナイことはない。教師を職業に選択した以上、こんなかわいそうな学生を育てることを「恥ずべきだ!」 次に考えなければいけないのは、週休2日制を「どうやってすごさせるか?」だろうが、本来こんなことを他人が考えることじたい「お節介なことだ」と私は思っている。しかしあえて言わせてもらうなら、 せっかく週休2日になったのだ。週末の2日間は、学校の勉強を忘れさせ、子供達を完全に家庭に返したい。ゆっくり家族とすごしたらいい。ゆっくり近所のお友達や気の会ったお友達と遊んだらいい。「お母さんデー」にして、お母さんに一日ゆっくりくつろいでもらい、お母さんの代わりを「子供とお父さんの一日家庭科教室」としてやったらいい。親子のコミュニケーションをとる時間にしたらいい。そのバリエーションは各家族が自分達で話し合って決めたらいい。決して他の家庭や他の人のアイディアではない、自分達の家庭の内情にあった内容で。 計画の無いことも素敵な"計画"だ。 家庭は第一の教育現場だ。学校は第二の教育現場にすぎない。学校以上に学べることが家庭にはたくさんあり、それを学ばさないで家庭という「学校」を卒業させると、それが後年、子供達の築いた家庭の崩壊原因になりうることを忘れてはいけない。 親は子供を塾や先生にお任せしないで、忙しくて「大変な日」「わずらわしい日」等とネガティブに考えずに、じっくり子供と過ごせる「楽しい日」とプラスに考えたらいいと思う。 子供が親を必要とするのは、ほんの少しの間だけだ。親が必要とされているときに、思い切って子供を可愛がっておくといい。それが本当に出来てはじめて、すんなり親離れ子離れが出来、その後の親子関係が、どんな親子関係になるのかにも大きな影響を与えると思う。 毎回新聞記事を賑わす「完全週休二日制」の問題をはじめとする「教育問題」についての色々な議論があるが、どんなに議論が重ねられても全く問題解決する糸口が見えてこず、ことある毎に壊れたテープレコーダーよろしく、同じ議論が繰り返されるのは、あらゆる議論が各立場の利害をもとに、問題の表面だけを取り上げて議論されるからだろう。 今回の「完全週休二日制」の議論を聞くたびに、甥や姪が小さかったとき姉達に母が話していた言葉を思い出す。 「ご近所の皆さんにはいつも感謝していなくてはいけませんよ。頭を低くしていないといけませんよ。子供が小さいときは親の知らないところで、どんなご迷惑をおかけしているかも知れないし・・・。私も子供達が小さいときは一回お辞儀をすればいいことでも、何回も丁寧にお辞儀をしましたよ。家の子供達が私達の知らないところで、どんなにお世話になっているか分かりませんからね。大変だと思ってもどこでお世話になっているか分からないだけに、子供達が小さいときは、ご近所のことでも自分の出来る限りのことを率先してやらせていただきなさい。頭はいつも低くですよ!」と。 貧しかった我が家では、夜8時15分に仕事から足を引きずるようにクタクタになって帰宅する母を皆で待って、夕飯が始まった。小学校の低学年だった私は食事をしながら兄達に負けじと「うるさい、うるさい!」と兄達を静止しながら競争で1日の出来事を両親に話していた。そして、父も母もいつも「何か頂いたり、ご親切にして頂いたら必ず報告してね。お礼を言わなければいけないから」と言い、私達の話を一生懸命聞いてくれたものだ。そして、夜遅くに当番でもないのにアパートの周りを掃除したりしていた母の姿を思い出す。 「親から独立して自由に生活したい。」「家族だけで生活したい。」と核家族を望み、仕事もしたいし、お金も欲しいし、子供も他の家に負けないような子供にしたいと、夢を全部手の中にいれたくて100%を目指して頑張ってしまうことが多いが、「親の手抜き」は時には子供にとっての「生き抜き」や「自力で問題を解決しようとする学びの場」になることを"昔子供だった親"には是非思い出してもらいたいと思う。特に、上手な親の手抜きは。 「週休完全2日制」子供が転ぶ前に「安心」をお金で買い、「塾だ!」「お稽古事だ!」と親が決めたスケジュールで子供を追い回すことはやめよう。もっとゆったり時間を楽しむことを親も子供も学ぼう。それが月曜日から金曜日までの活力になるように。 親も教育者ももっとゆったりと構えていこう。もう子供を親の都合だけで考えた「スケジュール」という名前の時間で追い回すのではなく、子供の悲鳴にちょっと耳をすまして聞いてあげよう。そして本当に生活のために小さな子供を1人残して"せつない気持ち"で働きに行く近所のお母さんにチョッと親切にしよう。その心こそ親が子供に見せられる心からの「ボランティア教育」だ。そして、それが「週休2日制」になった親子で最初にしたい、家で出来る教育だ。
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