●学園長のひとり言 |
平成14年5月14日 *(毎週月曜日更新)
母の日 「先生、母の日おめでとう!」ほんの1週間前に長年の夢を叶えて国分寺にペレニアルというお花屋さんをひらいた日本語の先生に頼んで素敵な花束を作ってもらい、それを抱えて武蔵境にある養老院を訪ねた私に、「早苗ちゃん、元気でやっているようね」と車椅子にのった木村秀子先生が迎えて下さった。 戦後満洲から引き揚げてきた我が家は、両親が朝早くから夜遅くまで働いて私達兄妹を育ててくれた。当時の我が家は、満洲から引き揚げてきてゼロからスタートをするという経験が、どんな時代になっても、どんな社会になっても私達が一人で生きて行けるようにと、当時としては珍しいくらい男女同権を実践する家庭だった。また何でも話し合って決めるという、プチ民主主義が浸透していた。 ここからは大人の話。ここからは大人の時間。兄達と同じことをしたがる私に母が「貴女も中学生になったら許可します」とか、「この問題はお父様に伺ってから」とか、厳しくしっかり線引きはされてはいたが、その他のことに関しては、何でも話し合いで決められ、何でも話をきいてもらった。そのかわり、家の手伝いでも年齢にあった仕事と責任、例えばお料理当番とか掃除当番とか、お買い物当番とか、会計係とかが年齢順に兄妹に振り分けられ、それに関してはきちんと責任をとらされた。またそれと同じように、お稽古事も男、女に関係なく兄達と一緒に習わされた。 木村先生はそんな両親の考えで兄妹3人で習わされた茶道と華道の先生として、小学校の低学年のころに出会った先生だ。 茶道の先生というイメージと程遠く、気取ったところの全くないしかし、出るところに出ると、男物の布地で仕立てた着物をシャッキット着て、その着こなしと、威厳のあるその振舞いに小さかった私でも思わず見とれるほど素敵な先生だった。 先生がお茶の合間に話して下さる千利休の話でも、お茶の歴史の話でも、御茶ノ水女子大に通っているときに東大生だったご主人と学生結婚したとか、高校の国語教師をしていたときの生徒達との思い出とか、教育映画のシナリオを書いていたときのこととか、おでんを作るのに前日から玉葱の皮など、材料を水にひたしておいて、それから煮ると美味しいおでんができるとか、社交ダンスの楽しさだとか、本を読む楽しさ、俳句を詠むときの注意とか、何気なく話してくださる先生の話は何でも面白く、小さかった私はその先生の話などから、人をおもてなしするのは、心。おもてなし出来ることを喜べる心があれば、高価な着物や茶器はいらないとか、いかに“場”を楽しくするためにどのような心遣いをしなければならないかなど、まだまだ実践は出来ていないが、本当に山盛りの知恵と、色々なことを学ばせて頂いた。 その中で一番心に残っているのは、韓国や中国等の台所で使っていた何でもない庶民の食器が、茶器として珍重され、高い値段になるその価値は、人間が決めていく。人が決めた価値はもろい。しかしそのものが、人の心をうつことで価値が決められたら、それは強い。 人間、人に自分の価値を決められるのではなく、自分が自分の中に自分の価値をつくり、人がそれに思わず、納得してしまう人間になれということを木村先生から学んだ。そして、先生に連れられてお茶会に行くたびに、4畳半の茶室の中で、誰それはお医者様の奥様だとか、高価なお着物を着ているとか、有名女子大卒だとかというような話で、"閥"を作って競っている様子に、「女はくだらないね・・」と呟く木村先生の一言で、世界が何だか全く理解していなかった私だったが、派閥争いするなら「世界相手にしよう!」と心に決めた。
18歳位から24歳くらいまでは、毎週土曜日になるのが楽しく、土曜日になるといそいそとお茶のお稽古に通い、他のお弟子さん達と未来の夢を何時間も何時間も語り合ったものだ。 仕事で疲れ、神経がピリピリしてくると時間のやりくりをして、先生をお訪ねし、先生の茶室で音のない音に耳を傾けながら一服のお茶を頂き、先生と話をし、心にいっぱいのエネルギーをもらって帰った。 木村先生のお弟子さん達は皆誰もやめず、結婚して他の土地に住んでも実家に帰ってくると、必ず先生のところに顔を出す。それが未だに続いている。 昨年自宅でひざを痛めた先生は、ひざが治るまでと武蔵境の養老院に入った。 それまでの先生は、95歳とは到底見えないような夏は、白いコットンパンツにピンクのブラウスと小さなリュック。冬は作衣のような上下を若々しく着こなして、ボランティアで俳句の指導に行ったり、お茶の指導をしたりと朝から晩まで大忙しだった。そして、子育ても終わり、今まで以上に毎日のように先生のところに遊びに行って話しこむお弟子さんのお相手をして、本の話しをしたり、ニュースに憤慨したりと、先生が95歳になっているということが信じられないくらいお元気に活躍していらした。 今お弟子さん達は、先生のいないことで手持ち無沙汰になり、私も先生がご自宅を離れたことで何となく淋しくなった。そして、5分、10分と時間をつくっては養老院に「先生、お元気ですか?」と訪ねている。 母の日の先生は相変わらずお元気でしっかりと話をしてくださった。そしてフット気がついた。先生の年齢になるのにあと40年もあることを。そして思わず「先生、私も頑張らなくちゃいけませんね」と先生に言った。 先生との思い出は、私の宝物だ。そして、今上田学園の基礎になっているように思う。 「茶室」という特殊な場所。そこには、年齢の上下も、身分の上下、学歴、経歴の上下もない。あるのは、一歩でも先にお弟子になった方が先輩というルールだ。そのルールに支えられ、お茶会の後、お客様のいなくなった茶室に皆で作った食事を並べ、夜遅くまで色々な話をし、あるときは茶室の炉にお鍋をかけて、鍋物をつつきながら、色々な話も聞いた。そして、その時皆で話したこと、皆で夢見たこと、それが若かったお弟子さん全員の財産として、今だに皆の生き方の指針であったり、心の支えになったりしている。そんな体験が、上田学園の考え方にも反映されていると思う。 あれから46年。木村先生は私達兄妹にとっても他のお弟子さん達にとっても、親以上に大切な方になり心の支えとして尊敬し、「先生のような人になりたい」と思うようになっている。その先生に出来る感謝は、各お弟子さんによってちがうだろう。そして、私に出来る感謝は、上田学園をしっかり築いていくことだろう。 毎日毎日押し寄せてくる色々な問題を、人生の先輩、教師の先輩としての木村先生の生き様をサンプルに、その時その時最善と思えることで解決しながら頑張っていかなければと、先生の笑顔を見ながら改めて心に誓った。そして、こんな先生に会えたことで、私の人生、どれだけ得をしたことかと感謝せずにはいられなかった。 |