●学園長のひとり言  

平成14年6月5日

*(毎週月曜日更新)

95歳の100マス計算

あらゆることを親や学校に管理され、自分で管理する経験がなかった学生達が、上田学園に入学してきて一番始めに困惑することは、自分の時間の管理が上手にできず時間に追われ、その上、ずっと受身の授業の中でしか生きてこなかった彼らの授業が、どちらかというと、自分で考えて出した答えを要求される能動的な授業になり、「何故?」「どうして?」と先生や、ちょっと先輩の生徒達から連呼されることのようだ。

「もし貴方が吉祥寺に自分のお店を持つなら、どんなお店を持ちたいですか?」という授業の中で今日も「どうしてそれが売れると思うの?」「ターゲットは?」「値段は?」「どんな広告を打つの?」等という質問に「僕が好きだから売れると思います」等と答え、「貴方が好きなものは、他の人も好きなはずと、どういう根拠でそう思うの?」などと徹底的に質問された学生は、答えに窮して来ると、その場限りの思いつきの答え、あくまでも自分の考えを正当化しようと、まるで先生や他の生徒の質問に抵抗を試みているように"ああ言えば、こう言う。こう言えば、ああ言う。"の"誰かさん"みたいであった。そして、授業が終わった後で、ケチョン!と落ち込んでいた。

「生まれてはじめてでしょう?今日みたいなのは。」という私の問いかけに、彼は「この授業が一番難しいです。なんと答えていいか分からないんです。」と困惑していた。

「一度、素直に皆の意見に耳を傾けてみたら?誰も貴方のアイディアが悪いと言っているのではなく、貴方の言っていることから考えると、その結論は貴方の理屈に全く合わないではないかと、質問していただけなのよ。非難と批判は違うのよ。それを混同するから、理屈にならないことを言い募ったり、自分を正当化させることに気をとられてしまったりするのじゃないかしら。私もなかなか出来ないんだけれど、人を説得するということは、相手の言うことをしっかり聞き、理解し、それにきちんと反論出来るだけの自分の意見を持つということでしょう?その訓練をさせてもらっているのよ。今までの受験校みたいに、正解か不正解かで貴方を"出来る学生"、"出来ない学生"というレッテルを貼るために、貴方の意見を判定しようとしているのではないのよ。」

上田学園の学生にも、ここに遊びに来る大学生達にも、テレビの中の若者達にも共通していると思えることがある。それは、自由と、わがまま。個性と身勝手。意見と言い訳。批判と非難を混同し、「出来ないこと」や、「理解出来ないこと」を、素直に言葉にして出すことを恥じているように思えることだ。だから何か自分の手におえなくなると「今の時間さえ何とか無事に過ごせばいいと思っているの?」と質問したくなるほど、言い訳にならない「言い訳」にしがみつこうとするのだ。

意見の交換は言い訳の交換ではない。その違いをしっかり理解してくれたらいいと思う。どうしても理解出来ないことが出てきたら、「解らないからじっくり考えさせて欲しい。」とか、「どうしても理解出来ないので、もう一度説明して下さい。」とか言う言葉が出ると授業も先に進んで行ける。

今は、何に対しても「納得しないことは絶対したくない!」と言う人達が多くなったように思う。それは、きちんと物を考えられる人が言うのなら、その意見に大賛成だ。しかし、この風潮が、しっかり理解されないまま世の中を支配し、自分で物も考えられない人の「出来ないこと」や、「したくないこと」を誤魔化す言い訳の、理屈をこねる材料になっているような気がして仕方がない。

私が言う「自分で物を考えられる人」とは、決して年齢や学歴や地位には関係ないのだ。その年齢で一生懸命考えられる人。考えると一生懸命自分の考えたことを実践していく人のことだ。

現在沖縄から来た上田学園の学生が「先生、色々なことが、どうしても自分の頭で考えられないんです。自分の意見を言いたいと思っても、それが口に出ないんです。少し時間を下さい。」と言って1週間の休暇をとっている。

彼と話していて、彼の4月からの生活態度を見ていて、彼の言わんとしていることが少し理解出来、納得出来た。何しろ彼の言葉の中の、どこにも「言い訳」の屁理屈がなかったからだ。

「自分の口から各先生に、お休みを頂く理由を言った方がいいでしょうか?」という彼の言葉に「私から各先生方にお話しておくから、今から1週間ゆっくり休んで、考えてきなさい!」と休暇の許可を出した。

19歳の彼は、今時珍しい位「律儀」だ。そして何でもしっかり納得してからやろうとする。納得すると「もう少し、気楽に考えてもいいのよ!」と言ってあげたくなるほど、一生懸命になる。自分の言葉に責任をとろうとする。そんな彼だから、どんな納得の仕方をして戻ってくるか、楽しみだ。

上田学園が、「基礎学習」にも力を注ぎたいと考えだしてから、随分生徒達の抵抗を受けた。それは「基礎学習」することに納得しなかったからだ。小学校でするよな足し算・引き算・掛け算・割り算や国語の音読。それに中学1年生の英語。世間では一応、一流とみなされていた大学や高校に行っていたプライドが「基礎学習」をすることに"納得"しなかったのだ。

納得できないことを納得させるために、本当に何回も話し合い、ぶつかり、抵抗されながら、妥協点を捜したり説得をこころみながら何とかやってきた。そして今学期は「良いか、無駄かは、わからないけれど、21世紀の熱血先生(上田が勝手に銘銘)の陰山先生も、実際にご自分の生徒さんに実践して『成果がある』と断言してらしたし、私も貴方達を見ていて「基礎学習」の必要性を感じるし。インドでもITの普及は20×20の掛け算にあると、専門家(?)の話しの中にも出てくる位だから、自分達で体験してみたらどうだろうか。駄目なら止めればいいし」という提案も、入れてみた。そして「やりたい人がやる」ということで、「基礎学習」が始まった。

その結果、実践した学生達は今「先生基礎学習した後、頭がスッキリします。不思議ですね」等と言い出し、10時から始まる授業の前に百マス計算を終わらせようと、学校に来る時間も日一日と早くなり、おまけに「宿題が終わらない、時間が足りない!」とこぼすのを聞きつけた私が何気なく、「百マス計算のついでに、繰り返してやることでしか成果のあがらないタイ語や、まだ始めていない20までの掛け算も一緒にやったら?」と提案したことを、「たった5分のタイ語。たった5分の20×20の掛け算。一人でやるのは退屈だし、大変だけど、皆でやると簡単だ!」とか言いながら、なんの抵抗もなく実行し始めた。

まだまだ始めて2・3日だがタイ語が楽しいのだ。20×20までの掛け算が百マス計算をしていたせいか、簡単に答えが出てくるのだ。これには、私自身も驚いている。まるで、性能のいい車のように頭がよく回転してくれるのだ。

私には95歳になる父がいる。
社会的な地位は全くなかった人だが、子供の口から言うのもおかしいが、本当に毎日を丁寧に一生懸命生きてきた人だ。しかし、そんな父も最近、とみにボケてきている。自分の人生が終焉に来ているせいか、ちょっと疲れた日や、具合の悪い日の夜など時々「怖い怖い、死んじゃう!」等と言って、子供のようになる。その度に父の世話でくたびれきって寝ている90歳の母に代わり、「そういう人に限って死にはしないのよ!」等と変な慰めと一緒に、背中を一晩中なでたり、側にすわって朝まで手を握っていたりする。そして、世話に疲れてイライラしてくると「まだトイレも一人でして下さるし、ご飯も一人で『美味しい!』と言って召し上がって下さるのだから、『よし!』としましょう。何しろ、死ぬまでしっかり元気で居て頂かないとね。」と言う母の言葉に、頷きながら「まだらボケのうちになんとかしないと?」と考えたりしていたが、前から「子供に良いというのだから、絶対年寄りにもいいんじゃないかしら?」と考えていた100マス計算を、最近父にも始めた。

朝5時半。「今日も仕事に行くのかな?」と言う父の言葉に、「お父様も私も100歳に近いので、『お仕事に来ないで下さい、ゆっくりお家ですごして下さい。』と毎日が日曜日なんですよ。だから、お食事は8時からにしましょうね。あまり早く頂くと9時頃に、また『朝ご飯は?』とお聞きになるでしょう。病院の先生がおっしゃったでしょ。『上田さん、食べ過ぎてはいけませんよ、腹も身のうちですよ!』って」こんな会話で始まる我が家の一日。

子供に返っている父は、6時半に朝食をとる私の隣にすわって、「僕の食事は?」と言いながら恨めしそうに私の食事をじっと眺めていたが、今は私が食事をしながら100マス計算の紙を前に、
私:「お父さん、7たす5は?」
父:「12…、何処に書くのかな?」
私:「ここ」
「お父さん、9たす7は?」
私:「うう・・・、9タス7は・・・16!」「どこに書くのかな?」
が日課になってきた。

最初の日は、全くわからないようだったが、足し算が出来ないのではなく、字が見えないのだと分かり、現在は古いカレンダーにマジックで書いた百マス用紙や、A4の紙に黒いペンで線を書き、赤いペンで数字を書いて見やすいように工夫をしたりして、毎日やっている。おかげで食事の間中、今までのように恨めしそうな目で見られなくなり快適な食事をしながら、爆笑している。

私:「10たす9は?」
父:「18」
私:「そうじゃなくて、10たす9よ」
父:「18」
私:「?」
父:「9たす9でしょ?」
私:「違う。10たす9は?」
父:「18」
私:「違うの。10たす9よ。」
母:「あら、早苗ちゃんの発音が悪いのね。お父様、10たす9ですよ」
父:「19」
私:「・・・・?」

陰山先生のお勧めの音読も2・3日前から始めた。教材は、新聞やチラシ。
私:「お父さん、これは何ですか?」
父:「夏の健康に生野菜!」
私:「凄い、天才! 上田学園の生徒より漢字を良く知っているみたい!」
父:「そうかい。でも学生さんの方が頭がいいんじゃないか?お父さんはチョッとボケてますよ!」
私:「いや、ボケているお父さんより、上田学園の生徒の方が漢字、知らないわ。」
父:「そうかい、どうしてかな?」
私:「この字はなんでしょう?」
父:「エヌ、テー、テー。(NTT)ダブリュ、イー、ビー(Web)」
私:「凄い、天才!、ちょっと発音は悪いけど。」
父:「入れ歯のいいのがあると、上手なんだけど。」
母:「違いますよ、親子で似ているんですよ。お父様と早苗ちゃんは。」
父と私:「・・・・・?!・・・」爆笑。

こんな会話が朝30分ばかり続く。

父には、納得してから何かをするということは出来なくなっている。だから時々「おかしいな?・・・、おかしいな?・・・」と言いながら首をひねっているのだろう。でも、たまには納得をしなくてもやってみるのも「いいかな?」と思う。やっているうちに、その結果が出て、納得出来ることもあると思う。父には、死ぬまで生きていて欲しいので、出来る限り毎朝百マス計算(正確には時々、60.時々70)と音読は実行していくつもりだ。

上田学園の学生達には、何でも意見を言い、話し合い、納得してから、何でもしたらいいとは思う。でも、それもせず、「めんどくせえ!」だけで、納得出来ない理由が、「納得できない」のではなく「出来ない!」ことの言い訳には、して欲しくないと思っている。何しろ、学生達の人生はこれからなのだから。



 

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