●学園長のひとり言  

平成14年6月18日

*(毎週月曜日更新)

素敵な大人になるために。

いつの頃からか、子供らしい子供に会わなくなり、たまあに子供らしい子供達に会うと、何故かホットするようになった。そして、「子供は子供らしく」という言葉も聞かなくなって、久しくなるような気がする。

子供が子供らしくいるより、大人を負かすような理屈をこね、自分の意見があるほうが「利口な子供」と評価され、いつのまにか「子供は子供らしく」という言葉に、「子供だって人格があるんですよ」と言い、何となく反発をする方が多くなったように思う。

しかし、上田学園をやって「子供は子供らしく」という言葉は、子供時代は短いのだから、子供でいられる子供の時代を大切にしてあげようという意味であり、子供時代を大切に過ごさせた結果、子供が自然と子供の身の丈にあった意見や考えをする。それを見た大人達は、自分達の過ぎてしまった"時"をダブらせて、「可愛いらしい!」と思うのだということに、改めて気付かされた。

子供の時代。それは本当に大切だ時代だと思う。

上田学園では今、基礎学習が大切だからと、16歳から21歳までの学生達が学校に来ると、まず足し算、引き算、掛け算を始めるが、どんな素晴らしい授業も読み・書き・そろばんが出来ないと何もできない。読み・書き・そろばんは学びたいことを学ぶときの大切な"道具"なのだ。それと同じに子供時代をしっかり過ごすことは、"自分の為りたい大人になる"ための"基礎時代"なのだ。

それでは、子供時代とはなんなのだろうか。

子供は何故、あんなに可愛い顔しているのだろうか。手も足も何でも小さくて、何かを見る目もキラキラしていて、生まれたばかりでも、じっと見上げる瞳はすでに何かを考えているような。毎日毎日変化していく彼らに驚かされたり、感動したり。

子供時代。その子供時代の中にも時代がある。その時代は年齢とともに変化していく。生まれたばかりの子供はお母さんのお腹の中での体験しか、経験をしていない。子供として生まれ、親に感謝され可愛がられることを通して、体験しながら学んでいく。お乳をたくさん飲んだといって喜ばれ。泣いたといって喜ばれ。ウンチがたくさん出たといって喜ばれ、笑ったといって喜ばれる。

そのうち、泣き過ぎだといっては怒られ、迷惑がられ、笑いすぎたといっては「うちの子供の就職口は『吉本興業』かしら?」等といわれ、一人遊びするといっては「本当に親思いのいい子供です」と、勝手に評価される。

子供達は親の表情や、声の強弱・高低等を通して、何かを体験し、体得して学び始めていく。

"親業"という職業を選択した親にとって、子供が過ごす子供時代の前半は子供達から"親業"を委託され、"プロの親"として一人前に働くための"職業訓練期間"であると同時に、"親業"の報酬として、子供達から支払われる最高に楽しい時代。最高にうれしい時代。最高に自分を誇らしく思い、感謝する時代。

その最高に嬉しくて、楽しくて、感謝出来る時代を作ってくれる子供達を、誰が粗末に出来ようか。"親業"という期間限定の職業を選択した親にとって、お客様は子供なのだ。「お客様は神様です」と言った演歌歌手がいたが、子供は神様なのだ。お客様は神様。神様である粗末に出来ない対象の子供に、自分達が出来る「お返し」は、無償の奉仕と大きな愛情、それも頭で考えた愛情ではない、心で感じた愛情で、自分では何もできない子供達を、大切に育てて行くということだろう。

その無償の奉仕と、心で感じた大きな愛情で返す「お返し」が、子供が大人に育つために必要な"栄養剤"であり、その"栄養剤"がたっぷり振り掛けられた"子供時代"が、大人になる原動力になり、困難としっかり向き合うことの出来る一人の人間として、世間という世界で、逞しく生きていくときの基盤になるのではないだろうか。

誰かがいつも無償で自分達の存在に感謝し、自分達を見守っていてくれるという安心感は、子供の人生の基盤や土台を子供の心にしっかり根付かせる。子供が「貴方の子供」として存在することで親を、親として生きる基礎を、親に学ばせる子供からの贈り物。

心の中に無心に湧き出る愛情を基盤にして、親は子供から学ばせて頂いたことを基礎に、子供が独りで生きていけるように、時間とともに、年月とともに、少しずつ親は子供から、子供は親から独立し、独り立ち出来るように導いていくことが次のステップなのだろう。それだけに、「親業」を選択する以前から、親は自分の生き方をしっかり考えておく必要があり、選択したときから親は真剣に、しっかりと自分と向き合う必要があるのではないだろうか。

「子供は親の言うとおりに育つものじゃない。親のするとおりに育つんだ」と職人さんの言葉を集めた永六輔さんの本にもあったが、本当にそれを私は今、実感している。

親も子供もお互いから独り立ちする。そう、誰もが絵本や童話で学んだように、砂漠や荒野で独りで生きていく為に、親は子供に餌の捕らえ方を見せる。それを子供達は"遊び"ととらえ、遊びの延長のように遊びながら親とおなじようにして餌をとるようになる。

親離れ子離れの時期が近づくと、親が子供を突き放しだす。そして、遠くで眺めている。子供が心の中にある親の愛情を充分確認でき、親が遠くにいることにも普通になったころ、親離れ子離れが完了していく。

動物の仲間である人間はここを間違えて、今苦労しているように思う。ここを間違えると上手な親離れ子離れが出来ず、ずっと苦労する。

子供を一人の人間として、彼らの人格を尊重し何でも彼らに決めさせているつもりでも、本当は親の理想の範疇で決めさせているということに、親は気付いていない。が、子供達は気付いている。自分達がいつまでたっても"紐付き"だということを。けっして独立した一人の人間ではないことを。そして、それを上手に利用して、暢気に問題を先送りにする子供もいる。

子供の、その時代その時代をしっかり過ごさせずに過ごすと、土台のバランスが悪く、そのバランスの悪い土台や基盤の上に何かを積み重ねても、必ず何処かで崩れてくる。それが、今子供達の上に不登校や、登校拒否や引きこもりや、いじめ、何歳になっても親から独立せず寄生する"寄生虫症候群"等の問題を引き起こしているのではないだろうか。

子供達の大切な時間が過ぎていく中で、しっかり自分が選択した"親業"という職業をまっとうしていくのは、大変なことだ。それと同じように、経験の浅い、想像しても理解出来ない世界に踏み出すには、大きな勇気のいることだ。それをしようとしている子供達にエールを送りたい。だが、そのエールに砂糖や蜜の味をつけてエールを送るのではなく、同じ地球にいる人間としてエールが送れるように、親には"親業"を、子供には"子供業"が当たり前に専念出来るような、自然に物を考え、実践出来る社会を皆で築いていきたいものだ。

「やれ!」「すすめ!」「馬鹿、バカ、ばか、バカ、馬鹿!」「駄目駄目!」「後ろ後ろ!」「お前は男かぁ!」「やった、やった、やった!」私は絶叫している。

「俺達に言われているみたいで、止めて欲しいよな。」「これって、テープにとっておきたくねえか?」「これで、日本語の教師かよ?」「生徒に聞かせたいよな。」「すげー、語彙が少なくねえか?」と学生達。

私も生徒も今「先生業・学生業」を時々休業する。何しろサッカーが始まると落ち着かないのだ。「俺もモヒカンにしようかな?」と言う学生に「やってみたら?自分に似合うか似合わないか。人を傷つけたり、悪いことをするのでなければ、何でもやってみたらいいのに。今しか出来ないこともあるからね。」と私はすすめる。

「そうだよ、俺なんか、いよいよ茶髪におさらばだぜ。タイの大学の先生やTA(ティーチング・アシスタント)は、茶髪禁止だからな。俺も散々茶髪にしたからな。」と卒業生。

上田学園の子供達、しっかり子供時代を楽しんだのかな?愛情過多だったのかな?愛情不足だったのかな?どんな子供時代だったとしても、貴方達を心から心配している親や、家族がいることを忘れずに、独りで生きていくために、今という"時"と"学生業"をしっかり充実させながら生きてくれることを、願わずにはいられない。



 

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