●学園長のひとり言  


平成14年6月25日

*(毎週月曜日更新)

自分の人生は、自分のもの。
       だから自分でしか切り開けない。

「俺さ、可能性がありすぎてさ、困ってるんだよんな!」

有名私立大学付属中学校を1年生の後半から不登校し、一つ目の高校を一ヶ月(?)、二つ目の高校は1週間(?)で退学。その後ずっと家で昼夜逆転の生活をしていた彼に、上田学園に入学した直後の4年半前、私達教師が発した「将来、何になりたいの?」と言う質問に間髪をいれず返してきた彼の答えだ。

下から私達を見上げる彼の目は、まるで狼のように鋭く、少しでも教師の落ち度をみつけると辞書を片手に徹底的に言い募る様は、まさに狼を彷彿させた。

5歳のときの彼は、女の子のように可愛くてご両親の彼を見ているときの眼差しは"幸福"を絵に描いたような、あたかも彼が「星の王子様」か何かのような、誇らし気な様子が、彼が持ってきた写真から伺えた。本当に幸せ一杯の写真だ。

遅くに生まれた、たった一人の子供として、御両親やおじいちゃま、おばあちゃまに可愛がられた彼は、小さいときから親や周りの者を一度も困らせたことがないと言う。小学生のころは、学校の勉強も出来、ピアノのお稽古にも楽しそうに通い、有名進学塾の"特組"の中でも"出来る組"にいたとか。「どうしてこんなになってしまったんでしょうか?理解出来ません!いい子で、いい子で本当に親が言うのもおかしいのですが、いい子供で、全く手のかからない子供でした。」と御両親を嘆かせた。

あれから4年半。色々なことがあった。ロックバンド。エックス・ジャパンの亡くなった"hide"に憧れ、彼と同じように長髪にしていた髪を、考えていた以上に短く切られたとパリのホテルの廊下で大声で号泣した彼。自分の思い通りにならないと、急にギターをひきだしたり、宿題が出来ないと休んでしまったり、本当に色々なことがあった。

そんな彼も、少しずつ変化を始めていった。何が変化を始めるきっかけになったかわからない。だか、日一日と大人になり、日一日と顔つきが変わっていった。そして、日一日と本来の優しさやが目立って外に現れるようになった。そして、他の学生が大学に行きたいとか、仕事をするとか、色々な話をしだした頃、彼は「コンピュータの仕事がしたいので、大学は一応コンピュター関係に行こうかと思っている。」等と言い出していた。そして、国立大学の受験を目指しながら、コンピュータの専門学校にも、行くかもしれないと言うようになった。

本気でやれば、2ヶ月弱、夜週3回、上田学園の先生にアドバイスされて勉強し、平均点90くらいで大検に合格できるほど勉強の仕方の分る学生ではある。だから大学の入試はあまり心配していなかった。自分で「やる!」と決めたら絶対出来ると、信じていた。勉強よりむしろ、経験のないこと、体験のないこと等をやることに"恐怖"さえ感じてしまう彼の弱さ。その恐怖が、お腹を押さえて七転八倒するほどストレスになること。石橋を鉄の杖で叩いても、叩いても、なかなか怖くて渡れないという、彼の性格が理解出来るだけに、前進したいのに前進出来ない彼に、心を痛めた。

彼の場合、どこまで手をさしのべたら良いのか、どこで手を引っ込めたら良いのか、本当に悩んだ。悩んで悩んだ結果、彼が自分一人で生きていくために、彼が彼の持っている力を発揮出来る場所を探そう。大学に行きたいと言いながら、「その大学が、もし自分にあわなかったらどうしよう?」などといって、入学も決まっていない大学の入試を受けることに躊躇する彼を見ていて、最後の「お節介小母さん」に徹することに決めた。が、何をしていいのか、どうやって彼を世の中に押し出すか、決まってはいなかった。

泳げる自分に目をつむり、「泳げない!」、「心配!」、「怖い!」と、岸にしがみ付いて泳ぎだそうとしない彼。「本当にいい子だったんですが…、あの子の同級生は大学4年生で就職に走り回っているというのに、あの子はどうせ一人ではやっていけませんよね。」というお母さんの言葉を聞くにつけ、後ろからお尻を蹴飛ばしてでも独りで泳がせないといけないという思いと、泳ぎ出せば彼ならやっていけるという思いで、泳ぎださせるきっかけを捜しながら「君なら独りでもやっていけるよ。」という会話を、彼に会うたびに何となくしていった。

そんなころ、彼の母親が仕事を始めるようになった。そして、そんな母親を「うちの母親、仕事を始めたんだけど結構評判がいいらしくて、なんか頑張っているみたいです」と嬉しそうに、誇らしそうに、教師達に報告をはじめた。それを聞きながら、「そうそう、親も子も、親離れ子離れの時期だよね。」と心の中で呟きながら、彼をどうやって上田学園にパラサイトさせず、自分の道を一日でも早く見つけさせるか、そればかりを考えていた。そして思いがけず、まったく考えもしなかった「海外」という道に出くわした。

「先生、少しプラスすればタイ経由でヨーロッパまで行かれます。これを利用して修学旅行をしたいんですが」と海外の修学旅行の計画を立てる時期になっていた昨年の6月、旅行の授業の中で飛行機のチケットの勉強をしていた彼らが急に私に言ってきた。「自分達の責任で自分達の計画でする修学旅行なのだから、自分達の予算に合えばどこでもいいんじゃないかしら?」と言いながら、「タイ語の練習にもなるから面白いかも知れない」と、学生達の計画を聞きながら考えていた。そして、彼の親御さんにお願いして「海外なんかメンドクサイし、もう2回も行ったからいいよ!」と嫌がる彼を無理やりメンバーに入れて修学旅行に出かけた。

彼の"行きたがらない意思"に反して、タイに居る彼は、本当に楽しそうだった。大学の日本語科の学生達との交流。高校生達との交流。彼の見せる笑顔や、彼が生徒達と話し、世話をする様は日本にいる彼とは全く違っていた。そんな彼を見ていて私は考え込んでしまった。「どうしようか?」と。

私は個人的には、日本で上手いかない学生が海外に行っても上手くやっていけないと考えている。それは、色々な年齢の色々な理由で留学する日本人留学生にイギリスやフランス等で会い、話し、その彼らを通して持った私の意見だった。しかし、上田学園の学生は私の基本的な"留学"に持つ私の意見の中には入らない学生だった。

これは、ひょっとして何かが起こるかもしれないという気持ちで、彼が他の上田学園の学生達と一緒に、タイ人の学生達と交流するのをじっと見ていた。そして、「俺、タイの大学に留学しようかな?」と何気なく言った彼の言葉をしっかり聞き留めた。

帰国後、どの生徒もどの生徒も楽しかったタイの話を夢中でする中、彼だけは、時々無意識か意識か「タイの大学もいいよな!」と連呼していた。

「じゃ、タイの大学に行ったら。」
「でも、タイに行っても何の勉強していいか分らないし、でもいいよな、タイの大学は。」
「いいと思ったら、行動してみたら。タイ語勉強するだけでもいいじゃない。」
「でも、就職は?」
「今だって就職はだめでしょう。そんなことより、やりたいと思っているなら行動してみる。考えもしなかったことが見えてくることもあるしね。自分に力がついたら、就職は何とかなるし、駄目なら自分で仕事を作ったら?」
「そうだな…。俺は親から離れたほうがいいと思うしね…。」
「じゃ、レッツから日本語の先生を送って欲しいと言っているのだから、お金は頂戴しないで、ボランティアで日本語を教えながらタイ語を勉強してみたら。それから、何かしたいことが出てきたら、そっちに行けばいいのだから。」
「じゃ、そうしようかな。出来るかな?」
「出来るか、出来ないかではなく、やるかやらないかでしょう?本気でするなら、例えボランティアでも、きちんと教えなければいけないから、「日本語教師」として一人前に教えられるように私が特訓するけど?」

こんな話し合いを何回も重ね、そして「日本語教師養成コース」の授業料は、学生が自分で私に払うことを約束して、特訓が始まった。が、最初の頃は誰かに「お前、タイに日本語を教えに行くんだって?」と質問されると「いつのまにか、知らないうちに、行かされることになっちゃったんだよ。」等と説明し、相変わらず、ぐうたらぐうたらしていた。しかし、そのぐうたらをする中でも緊張で、腹痛を何度も起こし、七転八倒する彼を病院に連れて行ったり、精密検査を受けさせたりした。

「何も悪い原因は見当たりません。きっとストレスでしょう?」と言う病院の先生の言葉を受けて「行くの?やめるの?どっちでもいいんだけど。」と言って、すこしずつクールに突き放して、自分で結論を出させるようにした。また、今まで以上に、何でも問題にし、ストレートに意見をぶつけた。

「仕事をするということは、10円のお金をもらうのに、10万円くらいの仕事をして初めてもらえると思って丁度なのよ。出来ないからと言って努力もせず、弱音をはいたり、同情をひいて、なぐさめてもらおうとして、甘えても駄目よ。貴方のお父さんだって、上田学園の先生達だって、『その仕事をします』と約束したら、どんなことをしても絶対仕事をするのよ。だから信頼されるようになるし、何かあって休む時でも、大目に見てくれるようになるのよ。」等と説明しながら、バンバン本音で注意をし、教える準備の指導もしていった。

教える内容がシリアスになるほど、彼は授業に一生懸命になり、たまあに弱音をはくと、「やめてもいいけど?」と言う私に「いや、やります。」と今まで間違っても絶対言わなかった「僕やります!」という言葉が返ってくるようになった。そして外国人の学生に教える実習がはじまると、緊張で真っ青になり、ストレスで痛くなったお腹を押さえながら時間に間に合うように出てきて、実習をしっかりやった。

彼は私がにらんだように、教え方が上手だ。話し方も、外国人の生徒が自分は理解出来ないという思いで、不安そうに小さな声で練習すると、彼はそれをなんとも素敵な声とテンポで、外国人の生徒の不安をほぐしながら上手に時には、おろおろしながらでも、一生懸命教えた。そして外国人の学生から「先生から教えてもらうのも、もうほんのチョッとですね。残念です!」という本音の意見が出だした。そして「タイとシンガポール、近いです。シンガポールに来たら、私の家に泊まって下さい。」と住所と電話番号の書いてある"サンキューカード"が贈られて、実習が無事終わった。

外国人の学生を帰し、「先生、ありがとうございました。」と頭を下げる学生の嬉しそうな顔に、ホットすると同時に、天井がぐるぐる回りだした。

「私は貴方はいい先生になれると信じている。初心者としては、本当に上手。ボランティアで教えようとも、明日から貴方は生徒にとってはプロの先生。どんなに上手な先生にも"初めの一歩"の新人時代があったことを忘れず、何も怖がらずに一生懸命教えなさい。もし新人の、貴方の教え方を見て、プロの教師として何年も日本語を教えている先生から『まだ40%位しか教える力はないわね。』と言われても、40%の力は今の貴方にとって100%。だから一生懸命教えなさい。100%の力を持った先生が70%の力で教えたら、その授業は『手抜き授業』。でも40%の力を全部出して一生懸命教えたらそれは正真正銘『100%の授業』。生徒達はきっと理解してくれるから。生徒のためになる先生でいられるように、先輩の先生の言葉は素直に伺い、学べる物は何でも学ばせて頂いて、一日も早く、生徒に役立つ先生になって欲しいと思う。それと、自分の人生は自分のもの。自分で一生懸命やればいい。もしやってそれが駄目だと分ったら、それは次に行くステップ。駄目だと分ったら、潔く方向転換できる。前進しなさい。一生懸命やっても出来ないことや困ったことがあったら、いつでも応援するから。先生方がいつでも貴方の後ろにいるから。気楽に振り向いて、質問してきなさい。これからやることは、全部貴方のものだから。誰に遠慮することも、心配することもない。いつも自分と向き合って、思った通りにねやってごらんなさい。絶対大丈夫だから。」

明日6月25日。彼はタイに出発する。そして7月1日から彼は1年間日本語のボランティア教師としてタイの大学生に日本語を教えながら、タイ語の勉強もし、タイ語が出来るようになったらコンピュータも教える予定だ。

「頑張ってね!」
「分った。」
「行くからね!」
「分った。」
そんな学生達の言葉に送られて明日の準備をするために彼は帰宅した。今までにない"いい顔"をした彼が。

また一人無事上田学園の学生が巣立って行った。静かになった教室で、疲れがひたひたと押し寄せ、くるくる目が回る中、チェット・ベーカーのジャズを聞きながら、今ほんの少し"開放感"に浸っている。もう午後10時25分。私も帰ろう。誰も送ってはくれないが、何とも静かな気分で、私も家に帰ろう。




 

 

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