●学園長のひとり言  

平成14年7月30日
*(毎週月曜日更新)

  頑張れ努力!

日本のニュースも世界のニュースも「殺し」「誘拐」「虐待」「不正融資」「テロの報復」等、読むと気がめいる話題がてんこ盛の最近の新聞。読んでいても途中から文章を飛ばして読みたくなる内容ばかりだが、そんな状況の中でもいつも楽しく目を通すのが「読者の投稿欄」だ。

先日も、嫌な気分にさせられる記事がてんこ盛りの中、ふっと目にとまった「人生の達人 義姉の留学計画」というタイトルの投稿。読んで嬉しくなった。

この「義姉さん」は数年前から「洋画を字幕なしで見られるようになりたい」と、米国へ語学留学を計画なさっていたという。しかし同居していたお母様が倒れられ、介護のため留学が中止になったそうだ。そんな義姉さんは最近、車椅子で生活する環境は日本よりも米国のほうが進んでいるだろうからと「おばちゃんがいるから家から出られない、と考えるのはやめた。米国留学に一緒に連れて行こうと思う」と言い出したそうだ。そして、「本当に行くの?」とう投稿者の問いに「機会があれば行こうと思う。でも、考えるだけで楽しくて疲れを感じないものね」と答えたそうだ。

投稿者は47歳。その方の兄嫁である「義姉さん」の年齢はもっと上だろう。そんなことを考えながら新聞を読んでいて思わず、「この義姉さんに、お目にかかりたい」と思うと同時に、自分のことを振り返って恥ずかしくなった。

私には95歳の父と90歳の母がいる。母は時々父の世話でグッタリしてしまうが、まだまだ元気でシャキシャキと号令をかけている。しかし95歳の父は、食事もトイレも自分でしてくれるが、元気でも95歳は95歳。最近は、やはり少しボケが始まっている。

昼夜逆転し、時々何がなんだかわからなくなる父のために、昼間の世話係りの母と交代して、私はほんの少し「夜の世話係り」として介護の真似事のようなことをしている。しかし、この真似事のような「世話係り」が今の私には大変な重労働で、それが気持に余裕を無くさせ、その結果が、仕事の上にも時々出てしまう。そして「父の介護が大変なので」と、仕事の遅れの言い訳にしてしまう。1日2・3時間しか睡眠が取れない日が続くと、実際問題として仕事をするのが辛くなるのは事実なのだが・・・。

親のことや介護の問題は、誰もがいつかはしなければならないことだろう。しなければならないことを、もっと自然体で受け入れるようにしなければ、介護をしている自分を追い詰めてしまうだろう。している自分がつらければ、されている方も、嬉しくないだろう。事実、私の気持にも時間にも余裕があるときは、父の機嫌がとてもいい。しかし、余裕のないときは必ずといっていいほど、病気になったり転んで怪我をして母や私を慌てさせる。

両親の「老い」との付き合いは長くなるはずだ。そのためにも、仕事をしながらこの新聞の「義姉さん」のように肩肘を張らず、最後までリラックスして前向きに付き合っていけるよう、私の方法で何とか努力していかなければならないと思う。

上田学園にも今、大検受験の準備のため毎日彼なりに努力している学生がいる。
彼は、平凡を嫌い、人と違う生き方がしたいと願っていた。しかし、普通の人が知らないことを知っていても、普通の人が「常識」として知っていることや出来ることが出来ないために、不便な生活をしていることに気が付いた私は、そのことで随分話し合い、喧嘩もし、議論もした。そして嫌がる彼を納得させ100マス計算の基礎学習からやり直した。

いくら納得したからといって19歳でやり直す基礎学習は侮辱的だったと思う。しかし、基礎基本がわからなければ、何も出来ないことは、彼が一番知っていた。それを克服するのには「努力」するしか方法がなかった。

努力することは簡単ではない。特に日々の努力は、単純なことの繰り返しが殆どだ。単純なことを繰り返すことが楽しくなるには、自分で楽しくする工夫をするか、ある一定のレベルになるまで「我慢一筋」で乗り越える努力をする、その二通りしかない。どちらも「他力本願」ではなく「自力本願」でしか出来ないことだ。

彼は基礎学習をする間、イライラするとロッカーを蹴飛ばしたり、色々鬱憤晴らしをしていた。しかし、そのうち計算が速くなり、基礎学習が色々なところに役立ってくると、あまりイライラしなくなり基礎学習に抵抗をみせなくなった。そしてあんなに嫌がっていた大学検定を受験すると言い出した。

勿論、大検受験を言い出すには個人的な理由もある。しかし、それをしようと思えたのは、やはり基礎学習をしてほんの少し何か気持を満足させることを体験したからだろう。

他の学生達に助けられながら「大検」の受験準備が始まった。しかし「日々是単純な努力あるのみ」をすることに慣れていない彼は、夜5時半から他の学生から教えてもらうという時間の約束を簡単に破った。また、先生役の学生達も時々彼との約束を破って、時間にいなかった。

そんな他の学生達とのすれ違いを繰り返しながら、それでも約束時間をオーバーしても教えてくれる「世界史」が少し理解でき、「世界史って面白いや」等と言うようになり、それをきっかけに少しずつ自分でも勉強をするという努力をし出している様子が、少し垣間見えるようになってきた。

約束をすっぽかしたり、チョッと教えてもらうとさっさと帰宅してしまう彼をずっとはらはらして見ていた私は、彼の顔から精彩がなくなるのに気がついた。小さく縮んでいくのが分った。しかし、自分で決めた大検。自分で決めたことを最後までやって欲しいと願った。

彼の持っている問題は、大検を受験することではなく、日常生活を不便にしないための基礎学習と、何かを最後までやりとげるということを学ぶことだ。それを学ぶチャンスとして「大検」を使うだけだ。頭が悪いわけではない。一度その部分が満たされれば、次のステップが見えてくるだろう。そうすれば、きっと彼は彼しか出来ない彼らしい人生を歩むだろう。私にはそれが信じられた。

彼をサポートして一生懸命教えてくれる学生達に感謝しながら、私は何も言わないことにした。ほっておくことにした。それでも心配になると黒板に「生きていますか?」と書いた。

「先生不思議なんだよね。大検の勉強を始めたころのノートの字、凄く汚いのに、今すごくていねいに書くようになっている。自分でびっくりした」そう言って久しぶりに会った彼が見せてくれた彼のノート。あののったくって、何が書いてあるか全く理解不可能なノートが見事に変身し、算数ではない「数学」をしっかり自分で解いている。

質問してくる内容も、今までのようなその場限りの質問ではない本当にやっていることが分る質問に変わってきている。数学を解くのが面白くて仕方がないと言う。解けないと眠れないという。その言葉には今までのような単なるポーズでない本物を感じる。「山が動いた!」という思いと、「大丈夫だ!」という思いで、ずっと痛かったお腹の痛みと胸の上にずっしりと陣取っていた重石が少しずつ軽くなっていくのが分った。

昨年の彼、先月の彼、そして昨日の彼。見事少しずつ前進を始めた。その歩みは、ほんの少し。でもこれがきっと彼の将来の基盤になるだろう。

努力することは大変だ。「どうせ駄目でしょう」と言っていた数学、「合格して〜え!」と言う。勿論彼の希望がかなうことを願っている。しかしそれ以上に最後まで頑張ろうと努力する今の彼が、私はとても嬉しい。

これからの彼には、成功も挫折も色々なことが待っているだろう。それは彼しか受け止められないものだ。どんなに周りが心配しても彼にずっとついて行くわけにはいかない。しかし、結果のいかんに関係なく最後までやるという努力が出来るということは、どんな問題に遭遇しても、何とか解決していけるだろうと信じている。そして今の彼からは、それが信じられる。


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