●学園長のひとり言 |
平成14年9月4日 親の思惑、子の思惑 親は子供に夢をもつ。子供は親に夢をもつ。しかしその夢は同じものではない。ましてそれは「夢」であっても、純粋な夢ではない。 親が子供に持つ夢は、「親の期待」という夢だ。これは厄介なものだ。何しろ、親の期待は親の技量を飛び越え、子供が親の遺伝子を持って生まれていることも忘れ、しっかりシビアに要求する。子供の人格を無視し、理解したつもりの生半可な判断で判断された「世間の思惑」を全部取り入れるべく、子供をコントロールしようとする。 親の要求から比べると、子供が親に要求するものは可愛いものだ。 最近私は色々なところで講演を頼まれてお話をしに伺う。その度に親が子供に託す夢もいいけれど、親にどれだけ自分の夢があり、それにどう邁進しているか。そして、それをどれだけ子供に自分の言葉で語っているかが、子供に大きく影響し、子供の自信につながり、「自分も頑張らなければ」と思う要因になることをお話させてもらっている。 上田学園を通してつくづく思うことは、どれだけの親が、「私たちの子供だもの、人に迷惑をかけず、私たちのように一生懸命生きて、人生を楽しんでくれたらいいわ!」と言える親になっているか。 自分は毎日の生活に追われているからと、夢がないからと、自分たちの総てを子供に託す。「そのためなら何でもしてあげます」と言う。一見格好いい夢の委託者。そんなことを子供の許可なく委託される子供は、たまったものじゃない。「そのためなら、何でもしてあげます」と言う「何でも」とは、何を指して言っているのかも明確に提示出来ず、何かが起こると、「親ですから何でもする覚悟は出来ていますが」と言う。しかし、そういう親にかぎって、実際に何か問題が起こると「いや、じつは・・・・」と言う。 親だから何でもしなければいけないのではなく、親だって出来ないことがあることを、しっかり教えるべきだ。親としての覚悟があっても出来ないことは、出来ないということを、親の生の言葉でしっかり理解させる。それをしないと、大人になって自分の意に添わないことや、思った通りにならないとストーカーしてみたり、ドメスティック・バイオレンスの原因になったりする。 「親だから何でもする」のであるならば、子供がどうやって一人で生きていけるのか。そのために、自分の子供の性格は。技量は。知識は。クールにそれをしっかり見ながら、世間の言葉に惑わされるのではなく、自分の言葉で自分の考えで子供を諭し、自分たちの正直な生き様を通して、子供を導いて欲しいと思う。 自分で潔く自分を演じて、自分の人生を楽しんでいる人たちは、自分の言葉で自分の考えを子供に話しているように思える。「運命」に甘んじて世間や時代に流されているのではなく、自分の運命を自分の手で切り開いている人は、自分の人生を子供の前に提示し、子供の年齢にあった子供の目線まで自分が降りて行って、子供を一人の「個」としてとらえ、正確な情報即ち、現実的なメリットとデメリット。その方法等も含め、親としての白・黒ハッキリした意見をきちんと理解させているように思える。そこには、「個」をしっかり押さえしかし、年齢的に選択がまだ不可能な場合は、親としての明確な考えに裏打ちされた「強要」も存在している。 選択する準備も情報も方法も全く「無知」な子供に、選択させることが「自由」でも「尊重」でもないことを、大人は知るべきだ。 学歴はないよりあったほうがいい。ただ、自分たちが生きて来た過去のような学歴があれば、すべて希望することが適う時代は過ぎた。まして内容の全く存在しない「時間だけ4年間」を証明するような「卒業証書」は、入口だけは人を信用させるが、すぐリストラの対象、又は自分で自然にやめていく方向にもっていかれる対象になるだけで、何も役立たないだろう。今からは、自分の運は自分で切り開いていける人間だけが、生き残っていくだろう。そのための「学びの場」を「世間」に求めるのか「学校」に求めるのかは、個々によって違ってくるはずだ。 親も世間も、今まで経験したことのない時代や、問題に対処していかなければならない。そのために正確な情報を集めることが必要になってくるが、不要な情報を捨てることも重要になってくる。しかし、集めた情報を自分たちにとって本当に必要なのか、不必要なのかを見極めることは大変な作業だ。それ以上に大変なことは、集めた情報を捨てる勇気だ。他の人には必要なことでも自分の子供には不必要なこともあるからだ。自分と他人が違うこと。自分の子供と他人の子供が違うことがしっかり認識できれば、不要な情報を捨て、他人と比較することなく、自分達の言葉で自分達の素直な考えを子供にぶつけることができるだろう。 親が子供に託す夢と子供が親に託す夢は違う。立場が違うのだから違って当たり前だ。しかし、その違うということをお互いに素直に認め合うことは、家族として大切だと思う。なぜなら、それが家族の「優しさ」に繋がるからだ。そのためにも、親は「子供に残したい明日」をしっかり作って欲しい。「子供に伝えたい明日」をしっかり生きて欲しい。それを畏怖の念も、遠慮も押し付けも、おもねる気持ちもない真摯な自分たち夫婦の言葉で、子供達に理解出来るよう子供たちに語って欲しい。 親は子供達の顔色をうかがい、子供達は親の顔色をうかがう。そして、自分たちが無意識に抱くお互いへの思惑に翻弄され、傷つき、悩み、時計を止める。時計を止めたことであたかも問題が解決したように思い込もうとする。しかし、時計の時間は止められても、人生という、生きるという時間は誰にも止められない。だから、止めたつもりの時間が動き出すと、その問題が時間を止めた以前よりもっと悪い状態で問題が再墳する。 上田学園も同じだ。先生は生徒達に夢を持つ。生徒達は上田学園や先生達に夢をもつ。教師の思惑、生徒の思惑がある。その思惑は時としてずれる。そのずれを私たち教師はストレートに生徒にぶつける。生徒達は戸惑い、恐る恐る反応する。それをチャンスとして本音で話し合う。本音の生き様を見せる「寝る時間も、海外旅行に行く時間もないけど、こんな楽しい仕事していていいんだろうか?これ以上望んだら罰が当たると思っちゃう」とか「これ以上は出来ない。だってこれからは私の時間だからね」とか、「生きるって大変だけど、面白いよ。自分で面白くすればね。そのためにこんなことをしている」とか言いながら、「納得した人生を送って。知っていることは何でも話すし、気がついたことは何でも教えるから」と。 私たちはいつも学生達に夢をもっている。彼らがどんな人生をおくるのか、どんな選択をしていくのかは分らないが、自分らしい人生を送ってくれることを願って、上田学園にいる間に、色々なものを見て聞いて考えて悩んで欲しいと。そして、自分で自分の人生を開いていくための何かを身につけてくれることを。
自分で考え、答えを出し、そこから学び前進することを。そのために、自分たち教師がここにいることを理解して欲しい。自分たち教師を、しっかり踏み台にして伸びてくれることを、いつも心から願っているのだ。
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