●学園長のひとり言  

平成15年3月18日*

(毎週火曜日)

 
  子供を一番に!

「改革の切り札」に重圧
「民間人校長」の自殺
周囲の支援なく「理想と現実落差」

父の世話に夜中起こされることもなくグッスリ眠れた所為か、久しぶりに気持ちよく起きることの出来た朝、お茶をいただきながら広げた朝刊から飛び込んできたこんな悲しいニュース。「どうして?」と思わず吐いた言葉が空しくかえってくる。

大きなため息をつきながら、「子供を可愛いと思うのはどなたも同じ。どんな思いで校長先生になられ、どんなお気持でご自分の命を絶っていかれたのか。」と考えると、その悲惨さに胸がつぶされてしまいそうになる。

こんなに可愛い子供達の将来にかかわる「教育」とう仕事に携わらせていただける親、教師、その関係者。どうして「子供が第一」と考えて、お互いに協力したり、励ましあったり、勉強しあったり出来ないのだろうかと思う。

確かに子供を挟んで親と教師、一般教師と校長や教頭、校長対教育委員会。それぞれの利害関係が、お互いを素直に認めない原因になっているのだろうことは何となく推測出来る。

親は「今の先生には威厳が無い」「子供を任せられない」「信用できない」と言い、教師は親が親としての「自覚がない」 「だらしが無い」「しつけが出来ない」等と言い、校長は「先生が指示したとおりに動かない」とか、教育委員会は「学校は文部科学省の言うことを聞きたがらない」とか言い、それぞれが「私だけは一生懸命やっているんです」と、それぞれの立場を無意識のうちに主張し、擁護している。

自分のことも含めて、立場の違うどの意見も、当たっている。しかし、どんなに自分の立場を擁護しても、現実一生懸命育てている子供に問題があり、一生懸命教育している子供に問題が出ているのだ。

非難することは簡単だ。難癖をつけるだけだからだ。しかし「だから、こうやってみたらどうだろうか。自分達もこうやって協力するから」という意見があってはじめて成立する批判をしている人がいない事実に、誰も気付いていない。

「先生に子供をまかせられない!」と言っている親の子供をみて「こんな親に育てられたからこんな子供になっちゃったのね」と教師達は言い、「俺達が現場を運営しているんだ。外の人間に口出しはしてもらいたくない!」と言い張る先生のクラスの生徒達を見て「こんな先生にクラスは任せられない!」と校長が嘆く。そんな校長の学校を見て「管理能力がないからこんな問題をたくさん抱えた学校になるんだ!」と教育委員会が文句を言い、「自分達の作ったマニアルをきちんと守らせないから、問題がおこる!」と文部科学省から教育委員会に苦情がいく。そして社会面を賑わす若年者が起こす事件で「今の教育が悪いから。先生もまともに教育できないからこんな問題が起こるんだ!」と国民から政府が文句を言われる。その文句を言っている人たちの子供を見て、先生方が「かわいそうに、あんな親だから家庭教育もきちんとされないのね。将来の日本を背負っていかなければいけない子供達なのに」と嘆いている。

こんな悠長な時間を過ごすのはやめよう。子供達のもっている問題はもっと切羽詰っており、もっと痛みを伴う"現実"なのだ。

もうやめよう。「私は一生懸命やっているんですが」と言いながら自分を擁護することにだけ精力を注ぐのは。いまこそ自分を捨てて子供のために一番よかれと思うことをしよう。そのために、皆で協力しながら色々な角度から教育を考え、子供の問題に取り組もう。

子供達の個性は色々だ。一つの答えだけが「正解」と言いきれないことが多くなっている。そのためにも、色々な年齢の、色々な経験を積んだ方達の協力を仰ぎながら、子供達のためだけを考えていこう。

私達人間は万能ではない。万能ではない人間でも、色々な方達の英知を頂いて「教育」は出来る。そのために、お互いがお互いの英知を出し合い効果的に教育をすすめていくために、自分の分をわきまえ、自分がしなければいけないことからしっかり始めよう。家庭の教育は家庭で。学校の教育は学校で。社会の教育は社会で。

分をわきまえ、自分が担わなければいけない役目をしっかり果たす。それが他の役目を担っている人達の信頼を勝ち取ることになり、その信頼関係が相乗効果になって子供達の教育の上に結果として出てくるのだと思う。

使い上手の使われ上手。育ち上手の育て上手。
子供が本当に大切だと思うのなら、子供に必要なものは、自分を捨ててでも他人からお知恵を拝借する。そのときに学歴も年齢も経験も性別も国籍も関係なくなる。あるのは謙虚で素直な気持と、感謝の気持のみだ。

私も上田学園を運営していて、どれだけ先生方から助けられたか。どれだけ先生方のお知恵を拝借して、生徒の問題を解決したか。

自分1人の経験や、体験や、知識や知恵はほんの少しだ。でも、色々な方々の英知を集めた意見は、長い間苦しんでいた子供の問題を解決する大きな糸口になる。

子供達がもっている問題は大きくなるばかりだ。子供の問題を先送りにすればするほど、解決が難しくなる。子供達のために、無駄な面子を捨てよう。無駄な不安を捨てよう。

親を育てるのは子供であり、先生を育てるのは父兄であり、校長を育てるのは先生方であり、教育委員会を育てるのは校長であり、文部科学省を育てるのは教育委員会であり、政府を育てるのは国民であり、国民を育てるのは私達の個人であることを忘れずにいよう。

「子供は神様からの授かりもの」と昔の人達は言った。神様からお預かりした子供を社会に役立つ人間として社会にお返しするのが親の役目。その親の役目をフォローするのが学校の役目。その学校を組織する教師たちや、子供を社会に役立つ人間としてお返しする役目を担っている親が、たった一人の校長先生をも育てられない。そんな人間達に子供が育てられるとは思えない。

私も含めてもう一度考えてみたい。人間を育てるとは何なのか。教育するとはどういうことなのか。そして子供達の役に立ちたいと考え、大きな夢を持って校長を引き受けて下さる方達が同じような絶望感を持ち、長い間かかって出来上がった英知を無駄にこの世の中から消し去ることのないよう、子供達のために大切に使わせて頂こう。それが、亡くなられた校長先生に対する残された者が出来るたった一つの礼儀だと思う。

 

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