●学園長のひとり言  

平成15年9月2日*

(毎週火曜日)

成熟しよう!

 

来春から大学に行くのに大検に合格していなくても、大学が志願者の学習暦を個別に審査することで、大学に入れるように制度が改正され、大検が今後高校卒業認定試験に衣替えされる見通しのようだ。しかし大検免除は、学力低下に拍車がかかるのではとの懸念から、学識者の間では問題になっているようだ。

上田学園では、大検や資格取得のための勉強は一切していない。ただ、学生同士お互いに助け合う精神を育んでもらいたいという願いと、何かを学ぶということにたいし、同級生も後輩も年上、年下、学歴のあるなしは関係ない。あるのは「この人から学びたい」と思う“何か”をその人が持っているかであり、また学ばせて頂くことにたいし、教えて頂く方にきちんと礼をつくすべきだという考えだけだ。

「大検を受けたい」という学生がいると、「受験に強いシーシーや成ちぇりんに勉強をみてもらったら」と薦めたりするだけだがその結果、授業の前後に学生達が受験生の勉強を見てあげるということが、何となく上田学園の慣例になり、この8月も二人の学生が「大学入学資格検定試験」を受験した。

現在のように一部の高校以外は、高等学校という名前のついた場所で“国語”や“英語”等という名前のついた時間を、まるで我慢比べのようにじっと、でも友達同士メールのやりとりをしながら教師が何を話しているかには注意をはらうことも無く、ただ時間だけが頭の上を過ぎていくのを待つだけの学生を対象にしているか、中途半端に受験だけをターゲットに授業をしている高校だ。また、大学もそんな高校から送り込まれてくる学生を対象にしている大学がほとんどだ。

自分で考え工夫することも出来ないリストラ予備軍の“指示待ち社員”。社会に出て使いものにならない“高卒”“大卒”という名前の人たちを量産するだけの学校。

私はずっと大学入学資格検定試験はきっとなくなると確信していた。そして大学へは誰でも入学できるようになるとも思っている。また、それに何も疑問を持たない学校や教師、そして学生なら“いらっしゃい大学”でいいと考えている。

「大検免除懸念の声」などという新聞の見出しとともに、「大検がなし崩しになくなるのはよくない」とか、「大学が学習歴を審査出来ないと、大検の役割は変わらないだろう」等というような大学教授達の意見を読むと「日本の大学はそんなに高度だったかしら?」と、現場の先生方のご意見に「それって、本音?」と質問したくなる。

上田学園が大検や高卒や大卒という“資格”のための勉強をしないのは、資格の前に学力をつけ、生きるための実力を身に付けるために学んで欲しいと考えているからだ。日本の教育は本末転倒だと考えるから、日本の教育システムに無理に子供達をはめ込みたくないのだ。

大検大検というが「大検の実力は?」と考えたことがあるのだろうか。

現在上田学園の子供達はタイ旅行の企画のほかに、教師を対象にしたイギリス旅行を考えている。それも、イギリスの教育システムを学ぶ旅行だ。

どれだけ多くの方々が留学で渡英しているか、その数は知れないが、どれだけの人達が本当のイギリスの教育システムを熟知しているのかは、疑問に思うほど日本の教育システムとは違う。だから、留学しても失敗する学生が多いのだ。

英国の教育システムは学生達が調べてそのうちホームページに載せると思うので、特別にここには書かないが、イタリア在住の作家塩野七生さんの本によると、イタリアの教育システムもイギリス同様日本と全く違うようだ。

イタリアの高校は技能別専門高校と、大学に進むことを前提にした理科系文科系の普通高校に分かれ、普通高校卒業と大学入学資格検定を兼ねた試験は「成熟試験」といわれ、例えば文科系普通高校生が受験しなければいけない筆記試験には国語とラテン文の翻訳があり、その試験で最重要科目とされる国語の筆記試験は、時間も6時間与えられる論文試験で、書く分量には制限はないそうだが、一般的にその時間内に400字づめ原稿用紙になおすと2・30枚の論文を書くようだ。

量も凄いが、国語の試験なので内容が問われるだけでなく、文章構成、表現力、使用言語の適切さも問われるそうだが、出題される問題は日本の高校3年生どころか、大学生にも絶対書けないだろうと思われる内容に驚かされた。

4つの問題の中から一つを選んで答えていくようだが、ちなみに1番目の出題は

1. 人間世界において連体と平和裡での共存には、文明のたまものであるところの個人間並びに民族間の違いを認め尊重し合うことが必要である。ならば、国別民族別にしばしば生まれる深い嫌悪や拒絶意識の源泉は、どこにあると思うか。それについて述べよ。

この問題からでも他の3問のレベルが想像できるが、大人でもきちんと答えるには難しいと思えるほど普段の授業の中でしっかり考えていないと書けない内容だ。ちなみに日本の大検の国語の問題の1番目は

1. 次の文章を読んで、後の問1〜問4に答えよ。

(小学校4年生の津村祐一と姉の綾は隣人の伊藤さんに釣堀に連れて行ってもらった。この場面は、祐一が釣り上げた大きな鯉を川に逃がしてやろうと、翌日、伊藤さん夫婦を誘い、家族みんなで出かけたところである)

       本文 (省略)

問1:傍線部(ア)〜(オ)に当たる漢字を,次の各郡の@〜Dのうちからそれぞれ一つ選べ

問2:傍線部A 蚊帳ひとつで部屋が宇宙船になったり、海賊船になったりする。とあるが、次に掲げた文に傍線部を説明したものである。空欄[a]〜[c]に入る語句の組み合わせとして最も適当なものを、次の@〜Dのうちからひとつ選べ。

傍線部は、子供の持つ豊かな[a]が見慣れた部屋を[b]に変えることが出来るということを[c]を用いて表している。

       解答  (省略)

問3:傍線部B 津村の胸が痛む。とあるが、この時「津村の胸が痛」んだのはなぜか。最も適当なものを、次の@〜Dのうちから一つ選べ。

問4:傍線部C 「とんでもない。かえってわたしは罪作りなことをしたようですな」とあるが、伊藤さんが言う「罪作りなこと」とはどういうことをさしているのか。最も適当なものを次の@〜Dのうちから一つ選べ。
   
       解答 (省略)

日本の教育レベルと海外の教育レベルの違いは、このテスト問題でも歴然としている。まるで、小学校のテストと大学院の試験のような差だ。

「学ぶ」ということの意味。「大学で学ぶ」ということの意味。本当に今日本全部が大人にならないと、どんな教育システムにかえようと、大検がどうの、高卒の資格がどうのと議論しても、日本の教育は全く変わらないだろう。例え、表面的に変わったように見えたとしても。

「成熟試験」、凄い言葉だ。
イタリアでは大学での高度な専門教育を受ける必要とされる基礎、つまり一般教養を与える機関として、イタリアの普通高校が、きちんと位置付けされているから、それに見合った授業内容と、それに見合った試験内容になっているのだろう。

なんでもかんでも海外が一番いいとは決して思わないが、たとえ色々細かい問題があったとしても、教育システムに関してはイギリスにしても、イタリアにしても本当に見習いたいと思う。

義務教育で基礎学力をしっかり身に付け、高校で一般教養をしっかり身に付けることが出来たら、「お前らの意見なんか興味ない。俺の意見だけでいい!」と言い、300人も入るような大講堂で黒板に向かって一人で喋る教授から学ぼうと思わなくなるだろうし、自分が入っている学部が何だかよく分からず「でもとりあえず、うちの大学の就職率は90%に近いから、どこかの会社に入れるんじゃないか?」などと勉強に全く関心のないノーテンキな学生もいなくなるのではないだろうか。

「成熟試験」。私は今この言葉にあこがれている。日本中の高校生がこんな試験を通って大学に行くようになると、日本もずっとかわるだろうと思うのだが。しかし、現実の教育システムでは育たない教育だし、現在の教師達に課すには、困難な教育システムだし、このシステムが機能するには時間もかかるだろう。まして機能するまで待ってはいられない。

上田学園の子供達には上田学園を卒業するとき、自分の意見を自分の言葉できちんと言える学生。自分の進路は自分でしっかり選択できる力と、例え発展途上中の若年でも、自分をアピールする何かを持てるように努力することと、どんな困難からもどんな問題からも逃げずに、困難や問題から生還する学生に育ってくれと、願っている。

現実の教育問題を考えるとき、教育関係者も含め、日本の大人達が成熟するまで待っているより、手探りではあるが、迷いながらでも子供達をしっかりした大人に育てるほうが近道に思える。

「成熟試験」。本当に素敵なことばだ。日本中が成熟する大人の卵たちのために美味しい教育ができたら、どんなに素晴らしいか。そのためにも上田学園は努力を惜しまず、工夫に工夫を重ね、研究し実践し反省し、発展するつもりだ。

 

 

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