●学園長のひとり言  

平成15年9月30日*

(毎週火曜日)

友達に歩み寄ろう!

 

上田学園をスタートした当初、学園に訪ねてみえる学生さんの多くが「友達が出来ないんです」とか「友達が一人もいないんです」とか言っていた。そのたびに私は「友達が出来ないとか、友達がつくれないという他力本願的なことではなく、あなたはどんな友達になりたいの?」と質問を繰り返した。

「本当に気が小さくて優しくて、でも小学校のとき勉強はとても出来ました。勉強で苦労することは全然ありませんでした。身体は弱いですね。持続力がなくて、昼夜逆転してしまっております。ゲームをやりだすととまりません!」殆どの親御さんたちは口を揃えて言った。

「友達が欲しい」と言っていた学生の殆どが、他人に無関心だった。興味を示さなかった。自分の必要なとき意外は。そのため他人とどう交流していいか分からないようだった。そして、殆どの学生の基礎学力は私達が想像していた以上に劣っていた。暗記することを除いては。

一見難しそうなことを言いたがった。私達教師達も「こんなに鋭い感性を持っているのだし・・・、頭がいいし・・・」と考え、一生懸命彼らの会話に答えようと正面から向き合った。正面から向き合うと、いつのまにか学生達は遅刻したり休んだりし始めた。そして先生達は悩んだ「フリースクールを不登校するの?」と。

どうでもいいプライドはとても高かった。親が何をしているとか、先祖は何だとか、親戚の人間にこんな凄い人がいるとかをとても重要視し、また先生の期待通りの答えが出せないと思うと、先生の顔色を伺いながら一生懸命言い訳をし、先生が満足するだろうと思える答えに、いつの間にか宗旨が変えして平気でその場を取り繕うとした。しかし自分達の考えが一番と思っていない上田学園の先生方の前では、その場だけ取り繕っても評価されないことに戸惑い、不登校気味になったりした。

悩んだ。理由がわからなくて悩んだ。そして、色々なことに気が付いた。一つ一つ問題を解決しながら、一人一人と話しあった。ある時には学校の存続をかけて正直に意見をいい、正直に感想をいい、自分を丸ごとさらけ出して一生懸命話し合った。まるで戦いのようだった。

嫌がられても、嫌われても、格好悪いと思われても、押し付けの愛情と言われても「やることをやろう、選択するのは学生個々の権利!」という思いで、伝えておきたいと思うことは言い続けた。

上田学園は学生達の成長と共に成長して来た。毎日毎日、自由、平等、自主性、有名、未来への切符、成功への近道、天才教育、優秀な人材育成など等、色々な美名の下に若さを歪められ、おしつぶされたため、無意識のうちに必要以上に自分を擁護し、恐れ、おののき、目や耳をふさぎ、世の中から距離をおき、問題の先送りをしたがる学生達に、彼らの耳に入らない、彼らにとって意味の通じない日本語を意味の通じる日本語に変換しながら、少しずつコミュニケーション方法をみつけ、理解しあい、歩みより、そして変化をとげてきた。

6年の時が過ぎる中、学生達は大学に進んだり、仕事についたり、留学をしたりと自分の道を歩み出し、そして上田学園には上田学園を不登校するより毎日学校に来ることが当たり前という当たり前の意識が当たり前に育ち、個々の学生の変化が毎日のようにみられるようになった。それに比例するように、上田学園で本来やりたかった授業が出来るようになってきた。それを受けて、先生方が学生達に伝えたいことや、ぶつけたいことを伝える道具として選択する教科に幅が出てき、授業の進め方も変わってきた。

教育は生きる道具であり、生きる道具の使い方を教える学校は、時とともに変化をする生き物であり、健康的な生き物であるために毎日きちんと呼吸をし、生き続けるべきと考えている私にとって、上田学園は正に自分の考えている通り成長してきた。毎日健康に呼吸をし、変化し、成長し、時代をつくる基になる今日より明日、明日より明後日と、1日1日を大切に生き続けている。

毎日何気なく深呼吸し、変化し、成長するために、教師も学生も大変なエネルギーを費やし努力しているが、それでもいつも心にひっかかり「何とかしたい!」と考えていることが一つある。それは、協力して皆で何かをするこが苦手な彼らに協力することの大切さと、「自己満足」のみの追求と、「納得」の追及は違うということを分かってもらいたいということだ。

日本人はもともと農耕民族だ。一人で狩をして野山を駆け回っていた人種ではない。家族で村で皆が協力して季節に追われるように農業に勤しんだはずだ。

時代が変わっても長い間隣近所で助け合い、暮れになれば共同で大掃除をしたり、冠婚葬祭のお手伝いをしたりと、お互いに助け合えることは助け合ってきたはずだ。

団体生活より個人生活に重きがおかれるようになっても、その名残が此処かしこに残っていたが、今は隣近所のことはも勿論だが、へたをすると祖父母や親戚のことも分からないくらい人に疎遠になり、おまけに受験戦争が「人の世話をやくくらいなら、勉強しなさい!」とたしなめ続けている。

子供達の起こす色々な問題はコミュニケーション不足からきているのだからと、「コミュニケーションを大切にしましょう!」と言いながら学校でも家庭でも、一方通行のコミュニケーションとコミュニケーション手段の一つでしかないはずの英会話の勉強にばかりに力が注がれる、変な風潮だけがはびこっているだけだ。

これでは、いつになっても今起こっている子供達を巻き込んだ社会問題は解決されないだろう。

子供達は「淋しい!」と言いながら、友達の作り方もわからない。団体生活が苦手。チームを組んで何かが出来ない。彼らは今の今まで、友達を作ったり団体生活をしたり、チームを組んで何かをするという実体験が根本的に欠落しているのだろう。他人と協力しながらでしか生きていかれないこの世で生きていくための訓練。その訓練の場であり、その実体験の第一歩を踏み出し、トレーニングされてきたは家庭という存在があったはずなのに。

団体生活というと、外で他人と一緒に過ごし何かを共同ですることだと考えられがちだが、家庭も団体生活であり、外で団体生活をするためにどうしたらいいかを学ぶ大切な場だ。

お父さんおかあさんという家庭の中心を担う二人が組んだチームのルールで、団体生活が営まれる。その中で親子チーム、兄弟チーム、姉妹チームが協力しながら、やっていいこと、いけないこと、やらなければいけないこと、チームを組み助け合うことの意義など等、団体生活をスムーズに楽しいものにするために、努力したり、我慢したり、自分から折れたりすることを学ぶ。それを通して人間として社会人として生きる基礎基本を自然に身につけていく。そして大人になって独り立ちするために必要な知識と、家庭で身につけた団体生活を補いながら、実践練習する場が学校なのだ。

今は家庭という団体生活の場で、両親チームがしっかりしたルールもつくらず、チームワークの力強さも発揮せず、世間体に振り回され、子供のマネージャーとして「ママの言うことを聞いていれば間違いはないの!」とか「パパのようになっちゃダメ!」等と、一方的な会話に終始する。おまけに兄弟、姉妹、家族がチームを組み、素晴らしいチーム力を発揮するためにどう協力したらいいのかを体験させる前に「お兄ちゃんは出来るのに、貴方が出来ないのはどうしてなの?」などといって、個の競争に終始させる。一番家庭で学ばなければいけないことが、学べていないのが現実ではないだろうか。

子供が小さいときは、両親チーム対子供チーム。子供チーム対他の家の子供チーム。成長すると共に両親と子供達で協力して作る家族チームに変化しながら、家庭の中で身に付けた団体生活方法を、子供にとっての社会。即ち学校という場で、同級生という名前の他人と協力しながら実践していく。その実践を通して環境の全く違う他人と協力することの大変さなどを学び、問題を解決する方法を学び、いろいろなことを体験しながら実社会に巣立つ準備をしていく。

上田学園の子供達は、実社会に巣立つ寸前の発展途上中。自分だけが無事通過すればいいとか、「俺はやっているが、あいつがやらないから悪いんだ!」ではなく、自分から友達の方に歩みより、自分から手を差し伸べ、自分から心を開き、相手に答えてもらうことを学んで欲しいと考えている。成ちぇりんではないが、好きになった女の人に愛していただけるように。

上田学園は明日から秋学期。上田学園も設立7年目に入る。
6年間の反省も含め、今学期の授業から国語・数学・英語の基礎学力がもっとしっかり身につくよう、また上田学園を2年制から3年制にすることで上田学園を卒業するとき、偏差値の消去法で大学や学部を選択するのではなく、時間つぶしと、就職に有利に思えて選択する資格習得の専門学校ではなく、この仕事をしたいが、今の自分にこの知識が不足しているので、この大学のこの学部でこの教授から学ぶために「この大学を受験する!」とか、この専門知識が欲しいから「この専門学校に行く!」とか、どうしてもこの会社で仕事をしたいから、上田学園の3年間の勉強の成果を持って、自分でこの会社の門を叩いて「就職の交渉にいく!」とか、そんなことがしっかり言えて、実践できる人間になれるよう子供達を育てていきたいと考えている。

今日の上田学園はまるで嵐の前の静けさ。どこからとなく金木犀の香りが風に乗って教室の中を駆け抜けていく。その中で私は今日だけの「静けさ」を思う存分楽しみながら、全員の顔が元気に揃うことを楽しみにしているところだ。

 

 

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