●学園長のひとり言  

平成15年11月5日*

(毎週火曜日)

言葉の境界線で

学生達と一緒にいると、「子供に愛情を注ぐということはどういうことなのだろうか」とか、「子供を可愛がるとはどういうことなのだろうか」とか、言葉一つ一つの意味を自問自答させられることが、たくさんある。そして、最後に悩むのが、親が子供に出来ることと、教師が学生達に出来ることは「何なのだろうか」ということだ。

先日も、早朝学校に飛んで来て先生方に連絡、その日の授業を全部キャンセルし、そして子供達と色々話し合った。

ある学生が「授業が多すぎてじっくり考えられない。上田学園の授業は自分にプラスになるとは思えない」という問題提示があったからだ。そしてじっくり話し合った結果、彼の説明するために使う言葉と、私達大人が使う言葉にギャップがあること。それが原因で、お互いが大いなる誤解をしていることに気が付いた。しかし、自分の不満を口に出してくれた彼のことを、内心私は買った。

口に出してくれたことは、お互いが考えるきっかけになる。もっといい状況を生み出す原動力にもなる。また、本人も何とかしたいと考えている証拠だろう。そして私にとっては、自分を振り返り、反省し、先生方からご意見を頂戴しながら、自分の考えを再度確認するきっかけにもなる。

上田学園の子供達もふくめ、学校に行かなくなった子供達の中には、問題を口に出さず、そこから遠のくことを選択した結果、不登校になった子供も多いはずだ。

確かに何が起こっているのか説明できない程、子供が幼い低学年のときに問題が発生する場合もある。起こっている問題を説明できる年齢になっても、彼らを取り巻く周りの人間に聞く耳がなく、自分を生かし続ける方法として学校に行かないことを、子供が選択する場合もあるだろう。勿論、親が選択をさせる場合もあるだろう。

しかしどんなことが原因であっても、一度学校に行かないことを選択してしまうと、何か問題が起こる度に「行かない」ということを安易に選択する“癖”がついてしまうような気がする。それは「行かない」ということで確かに問題が解決出来る場合もあるが、「だからこうしよう」というしっかりした考えがあってはじめて「行かない」を選択しないと、その時だけは問題が無事解決出来たように見えるが、実際的には、根本的な問題解決が出来ていないことの方が多いからだろう。

恐いことに「行かない」という癖は、問題の大小に関係なく、いつの間にか何がおきても問題を解決する前に“途中放棄する癖”につながり、理屈が捏ねられる年齢になると一見正当な意見のように理屈を捏ねることで上手に煙幕を張り、楽なことのみを選択する単なる「怠け者」になっている自分の根本的問題に目を向けられることも無く、周りに何もやらないことを容認させてしまう。その結果、それがその後の学生生活をスムーズに過ごせない原因になっているのではないだろうか。

相手がいなければ問題が起きないように、解決も一人では出来ない。一人で頑張っても「一人相撲」になってしまうだけだ。

「問題を解決したい!」「何とかしたい!」と考えている教師たちにとって、生徒が学校に出て来てくれなければ、問題の解決方法が全くみつけられないし、みつけられてもそれを生徒たちに伝えられず、解決できない。だから、教師としては絶対「不登校」になるような状況は作りたくないと考えるのだが、これがなかなか難しい。

居心地のいい雰囲気も、生徒が興味を持って「面白い!」と、積極的に取り組んでくれるようになる授業も、教え方も、教師たちがどんなに努力しても100人が100人全員、計算通りの満足を得てくれないのが現状だ。それは満足の度合いが各自で違うし、理解度が違うからだろう。それだからこそ、受身ではない各自がどんなことにも負けずに戦っていける知恵と力。自分が満足できるように他人を導ける力と、何がおこってもプラスにとらえ、知らないことを「知らない」と言え、教えてもらう“勇気”と“好奇心”を持ち続けられるように、常に頭を柔らかくしておく訓練をしたらいいと考えるのだ。

言葉を表面的にしか解釈出来ない子供達。ものを深く追求できない子供達。我慢すること、努力すること、感謝すること、感動すること、丁寧にすること、他人を思いやること、人に迷惑をかけること等など、頭の柔らかい今だから学べることを全て「メンドクサイ!」の一言で片付けたがる子供達。そんな子供になることを許してしまった大人達。愛情を注ぐことと、可愛がることを取り違えてしまったのだろうか。

終わってしまったことを言っても詮方ない。せめて後戻りしないよう、ほんの少しでも前進することを教え、前進することで体験する「知る喜び」や「成長する喜び」「期待される喜び」を教えていきたいと思う。

育てることは難しい、それに対する責任があるからだ。育てることは難しい、大人の生き方が子供を育てるからだ。そして、責任を持って愛情を注ぐ役目と、理屈ではなくただただ可愛がる役目の境界線。子供なりの正当な理由と、怠け癖の境界線。私達はそれをしっかり見極めて、子供達と一緒に子供達の苦手なことを乗り越えていくことを、身に付けさせていかなければいけないと考えている。

「俺は満足している。確かに大変だけれど、それは時間と共に大丈夫になると思うから」「自分は甘えているので、このぐらい厳しくないとダメになるから、だから上田学園を選んだんだし、俺はこれでいい」「人の顔色ばかり見て自分がないから辛いんで、マイペースにやればいいんじゃんか!」等など。

「上田学園の授業が自分にはプラスにならないのでは」と問題提示をしてくれた学生のおかげで、「5歳児みたいね!」と言ってしまうほど、友達同士でじゃれあっているよな幼い行動をする彼らが、私が考えていた以上にしっかりと自分の考えを披露してくれたことへの驚きと、嬉しさ。「学校が学生達に良かれと考えてしていることが全部正しいとは思わない。勘違いしていたり、間違えたりしたらゼロに戻して、もう一度きちんと考えたいと思う」と私の意見を言いながら、私は生徒たち一人一人が本当に可愛いと思った。

私は生徒たちが可愛い。しかし私は教師。彼らの祖父母ではない。教師としてしっかりした愛情は注いでいきたい。そのために、生徒たちから恨まれても、嫌われてもいい。今大切だと思うこと。今伝えたいと思うことは、しっかり口に出して言うつもりだ。

上田学園は学生達のための学校、学生達の踏み台。しっかりとした丈夫で役に立つ踏み台になるため、間違いは間違いとして学生達に訂正し、いいと思うことはどしどし取り入れながら、自由・権利・義務・主張等という言葉が持つそれぞれの意味の境界線で、間違った解釈をし、結果的に自分達を追い詰めることのないよう、私は学生達の「頑固な先生」に徹していくつもりだ。そのために、例え私の美貌(?)がどんなにくずれても。

 

 

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