●学園長のひとり言  

平成15年11月25日*

(毎週火曜日)

気が滅入った一日


上田学園は12月20日が忘年会、21日が大掃除。そして今年の授業が終わる。それを考えると何となく気持ちがあせる。「ああ、あとひと月で今年が終わるのか」と、ため息交じりの言葉が出てしまう。学生達には「反省は大いにしなさい。後悔はしないように。起こってもいないことを心配して足踏みしないで、心配しながら前進しなさい!」などと偉そうに言っているが、結構足踏みしているのは自分かもしれない。心配しながら前進しようと努力しているつもりだが、子供達に言っている言葉は、本当は全部自分に言っている言葉かもしれない。親御さん達もきっと私と同じようなものだろう。

今日は何だか気が滅入る。祝日だというのに。

昨日テレビで「リストカット」を繰り返している子供達についての番組を見た。
離婚した父親に似ているからと、小さいときから母親から虐待されていた子。受験の重圧に耐え切れず不登校になり、家にも外にも自分の居場所がないと感じている子。色々な理由でリストカットを繰り返している子供達。そんな彼らに共通しているのは愛してもらえないという思い。自分の存在価値が確認できないという苦しさ。そのことからくる淋しさ、孤独感。

確かに離婚した父親に似ているからという理由だけで、子供を虐待する母親に自分が愛されているとは、子供が感じられないのは当たり前だ。しかし、不登校をする子供達や居場所がないと思っている子供達の親御さんの中には、本当に一生懸命子供を愛している親御さんもいるはずだ。その親の子供を思う気持ちと子供が親に思ってもらいたい気持ちに大きなずれがあり、親が子供を思ってする行為と、子供が親にしてもらいたい行為にも、大きなずれがあるということを、番組を通して今まで以上に、改めて痛いほど感じた。

親が子供を思い、する行為。子供が親にして欲しいと期待する思い。先生が生徒を思い、する行為。生徒が先生にして欲しいと期待する思い。自分達の小さいときの親子関係や、先生との関係を思い出しても、いつの世もいつの時代も、これらにずれがあるのは当たり前のことだと思うのだが、現代の「ずれ」には今までにない背景があると思うのだ。それは豊かさに慣れていなかった大多数の日本人が、豊かさに振り回された結果のなれの果ての現実ではないのだろうか。

「お父さんは山に芝刈り!」ならぬ、会社に行ってお金を稼いでくる。お母さんは大家族の中で、火をおこしてご飯を炊き、タライに水を汲み洗濯をし、布地を買って夜なべしなが次から次へと育っていく子供達の洋服を縫う。そんな忙しい日常生活をおくる親の背中を見て育つ子供達には、学校に行くことのほかに、家庭の中に子供達なりの親と一緒に生きるための「お役目」、即ち親を助けて家の手伝いをする小さな労働者としてのお役目があった。それが家庭の中に存在する生活の知恵をつけるための学校でもあった。そして動物としての人間の営みの原点として、馴れ合いではない親と子供の役目がきっちり果たされていた。

そんな時代から、「大変だ、大変だ!」と言いながら便利な生活がおくれるようになり、時間も出来、子供の数も減り、ホームドラマのような男女平等で、自由な友達家族を家族中で演じながら、高等教育を受けた親が頭で考え、模索した、子供のための「幸福」という目標に合理的に効率よく到達出来るようにと、挫折や寄り道などしないように計算されたレールを敷き、そのレールの上に子供を乗せようと子供のお尻をたたく。それもいい学校に行き、いい成績を取るだけが子供の「お役目」であり、親が考えた子供の幸福というレールに乗ることだけを考えればいいとばかりに。

子供達の「教育」を受け持つ学校も、子供達の受け入れ方が変わった。
勉強以外でも、親の仕事を手伝うことや兄弟の世話をすること。運動会で活躍したり、給食の時間に給食当番で活躍すること等、勉強以外でも評価する姿勢から、勉強でしか評価しない学校になり、子供達の住む家庭と学校の両方の世界が一本化してしまったこと。それが子供を逃げ道のない生活に追い込み、苦しませている。それもお乳をくれる人=親という動物的感覚しかない幼い子供の、母親を自分の命綱だと思いこんで一番必要とし、頼りにしている年齢のときから「ママのために頑張ってね。頼むわよ!」などと、無意識に子供の思いを利用し、圧力をかけ続ける。

自分の生きていく上で一番頼りにしている人から頼まれたのだ。子供達は一生懸命喜んでもらおうと頑張る。その頑張りがいつの間にか、勉強は自分のためではなく、親のためにするものという意識に摩り替わる。そして大好きな親の期待、それも母親の期待にそえなくなると、学校でいい成績を取るお役目しかない自分の存在価値がどこにもなくなり、自分を傷つけることで自分の存在価値を確認しようとするかのように、自分を傷つける。

食べ物をくれる人は母親だが、その食べ物を買うために父親が会社で苦労していることなどを認識するチャンスのなかった子供達は、自分を傷つけ、自分の存在確認をしながらもお金、即ち生活に関しては無頓着で、お金はどこからか湧いてくると思うのか、自分の存在価値を生活に求めようとはしない。働こうとは、しない。

私達は子供達に教えなければいけない。お父さんが一生懸命働いてくれるから物が買えることを。お母さんが一生懸命ご飯を作って自分達を育ててくれていることを。

お母さんは一生懸命自分達のために働いてくれているお父さんに感謝し、お父さんも、一生懸命家族の面倒を見てくれるお母さんに感謝していることを。そして、両親が協力して自分達を育ててくれていることを。

子供のお役目は兄弟やお友達と仲良くすることであり、家庭の一員としてお父さんやお母さんを助けるお役目もあることを。そして学校は大人になって一人で生きて行くときに不便でないように色々なことを、自分のために学びに行くところであることを。

勉強をする必要がないと感じたら進学をしない選択もあり、進学をしないことが「社会の落ちこぼれ」ではないことを。社会に出て、働きながら社会という学校で学び続けることが出来ることを。

お父さんとお母さんが、お互いを必要として大切にし合っているように、子供達も両親にとって大切な子供達であり、必要な子供達であることを。

人に迷惑をかけたり、罪をおかすようなことをするのは容認できないが、大切な子供が一生懸命選んで生きている人生は、親にとっても幸福なことだということを。

この世の中に色々な価値観があり、年上、年下。背の高い人、低い人。太っている人、やせている人。頭のいい人、悪い人。器用な人、不器用な人等がデコボコに存在し、そんなデコボコな人達の存在で構成されているのが、私達が生きている社会であり、それぞれが自分にないもの、あるものを認識してはじめて助けたり、助けあったりすることが出来、お互いを必要とし合うことが出来、必要としあうことこそが、社会の一員として生きる上で必要なことであり、自分と違う人達、色々な人間が存在するからこそ、この世の中が面白いのであり、面白いからこそ生きていく価値がこの世にあるので、どんな人間にもこの世に存在する価値があるという事実を、小さいときからしっかり伝えていかなければならないと、思うのだ。

リストカットの子供達の話を聞いていて、日常的にリストカットをしている彼らに腹が立ったが、それ以上にそれをさせてしまう自分も含めた彼らを取り巻く大人達に腹が立つと同時に、日本の社会が抱えている問題の深さに寒気がした。そして離婚した父親に似ているという理由で小さいときから虐待を受けていたという彼女が、見てくれが汚くなる30歳までには死にたいと言い、重なるリストカットで健康もあぶなくなっているという彼女が、ほんの最近、ネットで知り合った人と友達になり、その人が自分のために泣いてくれたと言い「生きていて良かった!」ともらした言葉に、ニコニコ笑いながらリストカットの傷跡を見せていた彼女の心の奥底に広がっている淋しさと孤独感に、彼女が可哀想でせつなくて、眠れなくなってしまった。

今日は本当に落ちこんだ。
私に何が出来るのだろうかと思うと、もっと落ち込む。でも「宿題をしに来ました!」とヌーと現れた大ちゃんと二人で駄菓子を食べてながら雑談していたら、ちょっと元気になってきた。

そう、今私がやらなければいけないことは、後悔しないように反省しながら、自分が出来ることから精一杯やっていくこと。

上田学園の学生達が一人一人しっかり自立していくためのレールを敷くのではなく、彼らのための「踏み台」に徹しながら、彼らがどんな挫折にもめげずに一人で這い上がっていく知恵と勇気がもてるよう、また学園に在籍している間に色々なことを体験することで、自分が自分で、自分の未来のレールを自分でコツコツと敷いていける第一歩が踏み出せるようサポートすること。そして、リストカットをするしか自分の存在を確認できない彼女達の話から色々考えさせられたことを忘れずに、上田学園の学生達を上田学園の先生達や世間の皆様に助けていただきながら、一生懸命大切にお預かりしていきたいと、改めて思わされた一日だった。

 

 

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