●学園長のひとり言  

平成16年2月6日*

(毎週火曜日)

時代を超えて


                            
私には、生き方にも考え方にもピンと芯を通し「子供の人生は子供のもの。私達の子供にしては一生懸命頑張っている子供達に迷惑をかけないように、子孝行する」と言って、何でも一人でやり、死ぬまで元気でボケないようにするためにと、新聞を読んでも、テレビを見ても、人の話を聞いても知らないこと理解できないことがあるとメモをとり、辞書を引いたり、私や兄達に質問したりと、私が持っている「明治生まれの女」のイメージを地でいき、子供全員から「しょうがないな・・・」と言われながらも、心底尊敬されている90歳をとっくに過ぎた母がいる。

彼女は北海道の片田舎で育ち、女子師範を出て教師になったが、親の仕事の関係で朝鮮に行き、その後満鉄で仕事をし、結婚。私を含めて6人の子供に恵まれ、出張の多い父を可哀想がって「男の方はお気の毒、こんな可愛い子供達の成長をゆっくり見ていられなくて!」と母親業を楽しんでいたが、終戦。

満州から引き揚げてくる途中で一人、引き揚げ後に二人子供を亡くし、戦後の混乱の中で生きていくのに、今までのように三つ指ついて大和撫子などをやっていたら子供達を育てていけないとの思いで生き方を変え、父を助け、私をおぶってあらゆる仕事をしたと言う。

寡黙だけれどいつもニコニコとして楽しそうに子供達の話を聞き、私達と一緒に家事を手伝いながら母のことを誉めていた父と、子供に優しかった父の代わりをするかのように、お箸の上げ下げに至るまで厳しく叱責し、時には手が飛んできた母だったが、「お父様に感謝しましょうね。お父様が一生懸命働いて下さるから我が家が元気でやっていけるのだから」と父に感謝し、どんなに疲れているときでもでも父と一緒に私達の話に耳を傾け、喜んでくれた。

色々なことが理解出来るようになった今、自分達の子供時代をふりかえってみると大人と子供、親と子という絶対的な境界線を無視して大人の話にずかずかと入りこむことは許されなかったが、我が家はどこの家庭よりも民主的で、男女に関係なく皆で手分けして家事をし、子供達を一人前として扱い、子供達の話もきちんと聞き、自分達の意見もしっかり話してくれ、言行一致のすごい親だったなと感心するほどだ。

黄色い電球に照らされた4畳半と6畳の二間の部屋。夜遅くまで起きていることを許されていた休みの前日などは、早々と6畳に布団を敷き、4畳半でちゃぶ台を囲み、深夜近くまで政治の話、歴史の話、本の話、友達の話、子供のときの話など、その両親の面白い話を、まるで食後のデザート感覚で夜のふけるのも忘れるほど夢中になって聞き入っていた。

我が家は本当に楽しい笑いの耐えない家庭だった。お陰で勉強が出来ないことでいじめられても、家が貧しいことでいじめられても、それをずっと引きずる必要がなかった。

勉強が出来ないうえに、ぼんやりしていた私は、自分がいじめられているとか疎外されているということを余り感じなかったが、お友達の誕生日会などプレゼントが持っていかれないということで仲間はずれになったり、遠足にたくさんお菓子を持ってこないとか、洋服が新しくないとかでいじめられると、さすがの暢気な私も何かを感ぜずにはいられず、家族に訴えた。そんな私に「人のふり見て我が振りなおせ。お父さんは早苗ちゃんのこと大好きだよ」とか「やられて嫌なことは人に絶対やってはいけませんよ。天に向かって唾をはくと、自分の顔に落ちてくるだけですからね」とか、「誰だ、そんなことする奴。俺がぶん殴ってやる!」等と言いながら、でもそんなバカなことをする人を笑い飛ばしてしまう家族の雰囲気と、他に面白い話題がたくさんあり、その話で盛り上がれ、涙を流し、お腹を抱えて笑っているうちに、外での嫌なことはどうでもいいことになり、自分でも「そうだよね。勉強できないし頭わるいから」等と変に納得が出来、学校での嫌な事など「たいしたことではないわ」と思え、元気に学校に通えた。

日本中が貧しかったので我が家の貧しさを暢気に受け止め、また両親もそんなことを感じさせないように私達を育ててくれた我が家ではあったが、「奥さんお米貸して!」とか「お金貸して!」とか「お客さんが来たので掛け布団貸して!」とか色々な物を借りにくるご近所の方に、「どうぞ、どうぞ!」と貸してあげた母。我が家が本当に貧しく、それでも人に物を借りにくるのは辛いもの。困ったときはお互い様という思いで貸してあげていたことや、その為に家にある洋服という洋服を掛け布団代わりにして寝たこともあったことを知ったのは、二十歳もずっと過ぎた後のことだった。

「達夫のところの子供達は皆素直でいい子供達だ。トンビが鷹を生んだんだな!」等と、私には意味が良く理解出来ない言葉を口癖に、両親が夜遅くまで働いている我が家を心配した伯父や伯母達が時間があると訪ねてくれ「お留守番が出来ていい子だね」と私達を応援し、いつも誉めてくれていた。

そして横浜国立大学工学部教授だった伯父は、大学の話や技術顧問をしていた技術研究所の話をしてくれ、会社を経営していた伯父は入社試験の話などをしてくれ、画家の伯父は画家が考える世の中に発表した自分の作品に対する考え方や、画家仲間の交流など、今なら画家仲間という方々がどんな方々かも分かり、伯父の話がもっと理解でき面白かったのにと残念に思える程、興味のある話を小さな私達相手にしてくれていた。そして身体の弱かった本家の伯父にいたっては、私達に分かるようにある程度噛み砕いて話してはくれたが、世界の歴史、我が家の歴史、骨董の話、本の話、歌舞伎の話、謡曲の話等など、まるで「気分は大人」と思えるほど何だか誇らし気に「伯父様のお話は面白いね」と兄達が感心して聞いている横に私もちょこんと座り、一生懸命分かった振りをしながらうなずいて聞いていた。

そんな伯父や伯母に助けられながら両親はいつも前向きに子供の幸福をしっかり考え、今思い出しても「納得!」と思えるほど、正論を正論として助言してくれた。

「学校は就職の為に行くところではない。自分の人生を豊かにするために行くところ。だからこそ、有名無名に関係なく自分の勉強したいことが出来る学校に行きなさい」とか、「人間は“何々大学卒業”と履歴書を額につけて歩けない。世の中の人は、貴方達の行動を見て、貴方達の人間としての価値や教養を見る。だから礼を重んじ、言葉遣いや態度には気をつけること」とか、「人が幸福になることを自分の喜びと思える人間になれるように、たくさん本を読み、人の話を素直に聞ける人間になりなさい」とか。

「就職が決定する日までは、相手が社長でも対等。その会社に入りたいからと卑屈になってはいけない。質問があればきちんと質問しなさい。その代わり聞かれたことには誠意を持って答えなさい」とか、年頃になった兄達に「学歴や親御さんの社会的地位は、伴侶を選ぶうえでは大きな問題ではない。この子供を授かって本当に幸福だと思い、授かったことを感謝して大切に、でも厳しくご両親から育てられた方と結婚をし、親御さんに代わって大切にしてあげなさい。勉強がしたいと思っている方なら、大学でもなんでも貴方が行かせてあげたらいいだけのこと」とか。

年頃になってきた私には「結婚だけを待っている人間になってはいけない。結婚は貴女が生きていく上でおこる出来事の一つ。“一生懸命生きて行く”ということは、結婚をしてもしなくても変わらないことなのだから。ご縁があれば幾つで結婚してもいいことで、適齢期は人それぞれ違うもの」とか、「親の社会的地位が高いとか、親がお金持ちだとか、会社の跡取だとかで『将来が約束されている』などと言う方もいるが、子供が努力して親がえらくなったのではないのだから、そんなことを重要視することは、大きな勘違い。幸福な結婚とは二人で協力して作り上げていくもの」とか、「結婚したからといって夢を捨てる必要も捨てさせる必要も本当はないはず。そのために、お互いが支えあえるように力のある人間になりなさい。そうすれば例え相手の方が病気になっても『今度は私が働くからゆっくり静養して』と安心して言えるから」など等、本当に色々な助言をしてくれた。

決して社会的に成功し名声を博した両親ではないが、両親の言葉と、その言葉どおりに何でもポジティブに考え実践してみせる両親の生き方は、その後の私達兄妹の生き方に大きな影響を及ぼした。

長兄は両親の言う通り、自分の行きたい大学に行き、人の何倍も学生生活を謳歌。そして入社した会社では一番レベルの低い大学卒であり、おまけに両親の考えで「戦争で勉強していないから」と、3年生だったのを1年生からやり直しをさせられ、おまけに一浪をした分、同期生より5歳も年長の最悪条件。しかし入社したときは中堅の会社だった会社も一流企業と呼ばれる会社に成長し、気が付いたら社長、会長と呼ばれて会社のトップを歴任。「お袋や親父の言ってくれた通りだった。大変なこともあるが、面白い人生を送っているよ」と、退職した今も張り切って仕事をしている。


「俺は勉強が嫌いだから」と、高校卒業後に大学の代わりにと4年間の約束で自衛隊に行き、その後、機会いじりが好きで何時間でも飽きずに何にでも取り組んで、器用に作る次兄だから当然選ぶと家族中の誰もが思った自動車会社の内定を断り「こんな人がいる会社で働きたいんだ」と、面接試験で会った人事課の方の人柄に惚れ込み塗装会社に入社。歴史的建造物の色調合を担当したり、新車のカラー開発を担当したりしながら活躍。そして定年を3年後に控えたころ大病。バブルでどこの会社もリストラを断行する時代、会社に迷惑をかけるからと退職を希望したが会社に断られ(?)、退職までの3年間自宅療養をさせてくれ、おまけに退職後も、身体にあわせて働いてくれればいいからと、子会社で働くことを要請されていたが、今は静養を続けながら海のある側に引越し、釣り三昧の生活を楽しんでいる。

4月の新学期に向けてここ1・2週間、入学を希望する方やその親御さん、また学校の先生達とお話する機会が多くなっている。本人・親・教師、それぞれの立場で語られるそれぞれの問題。16歳から33歳までの彼らは、高校に在学している者から大学・専門学校・高校を卒業している者、中退している者等、そんな彼らと話をした在校生は何の偏見もなく彼らを歓迎しようとしている。そんな彼らを見ていると、今までよりもっとクラスに“社会”が存在する面白い学校になりそうな予感がしている。

年齢がどうの学歴がどうの、長い間引きこもっていたとかどうか、そんなことはどうでもいい。「勉強してみたい!」と思った今が勉強をする時期。自分が選んだ人生、どんな人生をおくろうとも自分の人生を終えるとき、「一生懸命やった。満足だった!」と言って自分の人生を終えてくれたらいいと願うのみだが、ふっと母に質問してみた。

「私達小さいとき、思いやりとか礼儀のことについてビシビシ躾られたけれど、学校の勉強のことは『本をたくさん読みなさい』とは言っても、成績のことで注意を受けたことがなかったように思うけど。まして世間体なんていう言葉、一度もお母さんから聞いたこともないけれど」という質問に、「親はいつまでも子供の側にいてやれない。子供は親を通り越して一人で生きていかなければならないし、生活していかなければならない。世間と戦うのは子供。自分で自分の人生と戦い、人と調和し、そして自分の行き方を貫いていく力をつけさせることだけを考えていたから、その中に“世間体”などという言葉の入る隙はなかった。人様に迷惑をかけず、一生懸命生きて行く道を自分で探せるようにするのが教育だと考えて、夢中で子育てしていたわ。でももし、自分の中に“世間体”という言葉があったとしたら、人様にご迷惑をかけるような子供には絶対育てまいという気持ち。子供達が小さいときはいつも覚悟していたのよ、もし人を傷つけたり悪いことをしたり犯罪に手を染めるような子供に育ってしまったら、私は親の責任として世間に申し訳ないので、その子と一緒に死のうと。だから子育ては真剣だったわ。今は分からないけれど、昔の人たちは皆そんな気持ちで子育てをしていたのよ」と。

大きな未来と、大きな可能性をたくさん持った上田学園の学生達。人様から見れば「くだらない!」と言われそうな小さな進歩も、「すごいね、すごいね」と喜んであげ、どんな小さな痛みも「痛かったでしょう。でも、痛いことが分かってよかったね。ほんのちょっと人の痛みが理解できたからね」と喜んであげ、一日も早く一人歩き出来るような彼らに成長出来るよう、また私達の親が私達を応援しながら「自分の命に代えても」と一生懸命育ててくれ、未だに私達の前を歩きながら「真摯に生きる」という意味を実践して見せてくれている。そんな親達の思いを大切にしながら、学生達の応援団を今まで通り続けるつもりだ。

「はじめから悪くなろうとか失敗しようと思って行動する奴はいない。親も教師も子供が困ったときに手を貸してあげればいいんだよ。それまでじっと見守ってあげるように心がけていればいいんじゃないのかな」と、アタフタとお客さまの応対で大汗かきながら研修旅行の間中頑張ていた学生達を見ながら、旅行担当の先生がフットもらした言葉のように。

 

 

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