●学園長のひとり言  

平成16年2月17日*

(毎週火曜日)

親子の関係はアナログで!

上田学園の学生達は週2回外国人に日本語を教えている。その外国人学生の間で、ちょっと高いが便利な電子辞書が流行し、お互いの電子辞書をみせあっていた。先日も授業後の雑談中、学生の一人が日本語の勉強をするのに電子辞書と旅行用の通訳機とどちらが便利だろうかという質問をしてきた。

計算機と同じで、勉強している間は何でもアナログが不便なようだけれども、勉強の内容によってはその方が力がつくこと。語学もその一つで、辞書をひいていると色々なことが分かりいい勉強になるので、是非辞書を使うことを勧める等と、普段から考えていた私の考えを述べたが、日本語の勉強することを省いて簡単に携帯用通訳機を日本人の鼻先にさしだし、日本人が話している言葉を瞬時に翻訳機械が翻訳している様子が目に浮かんで、なんだか犬の翻訳機を使って外国人が日本人を理解しているようで可笑しくなった。しかし日本語の教師としては、もしそんなことが実際に起こったら由由しきことだと無理やり笑いをこらえながら、アナログ的な勉強方法について反論したがる学生と、辞書を使うメリットやデメリット等を話しあった。

そして昨日、見上先生に「イタリア語の辞書をもう1・2冊買って下さい」との注文にフット思った。普通に中学や高校や大学等に行っていたら、殆どの学校ではイタリア語の辞書等が必要な授業を受けるチャンスはないし、異文化コミュニケーションを日本国憲法原文など、普通の語学の先生では思いもつかない材料を使って学べ、上田学園の学生達は本当に果報者だと。

学生達は見上先生の授業を通し、中学や高校の音楽鑑賞の時間にいやいや聞かされていたオペラの歌詞の意味に「音楽の担任、この意味知っていたら『クラッシクは高尚な音楽です』等と難しい薀蓄を並べながら俺達に聞かせたかな?」とか、アニメの主人公につけられていた横文字の名前の意味を知った時点で、作者の意図が理解出来、ストーリー展開も納得出来、面白がったりしているが、これが翻訳機械で簡単に文章が翻訳されていたら、こんな楽しみも味わわずにいただろう。今月の経理担当の成チェリンにイタリア語の辞書を買うよう頼みながら、何だか学生達のためにイタリア語の辞書を買うことが嬉しくなった。

上田学園の授業は語学が多いと学生達が言う。まるで語学学校のようだとも言う。確かに英語で数学だとかゲームだとか中国語だとか日本語だとかやっているので表面的には語学学校のようだと感じても仕方がないのだが、私が上田学園の授業として採用している教科は、例えば英語ならば話せたほうがいいし、これからの社会では今以上に必要となると思うが、イタリアの公立高校が、語学などは高校の授業でやるものではないと考えているのと同意見で、語学は個人的にもできるので別に学校の教科にする必要はないと考えている。上田学園が考え採用する教科は表面的な意図ではない意図で、授業に取り入れているのだ。

例えば「語学」は単なるコミュニケーション道具で、コミュニケーションは訴えたいもの、話したいことがなければ「英語」という道具を持っていても役に立たないことを学生達に知らせたいし、相手の話している言葉が理解出来ないで何かを理解するためには「恥ずかしさ」等はかなぐり捨てて話さなければならないということも、この授業を通して理解させたいのだ。

上田学園の語学は恥じを掻く訓練であり、相手を理解するために目・耳等全ての五感を研ぎ澄ませながら相手の表情から相手の言いたいことを読み取り、想像し、手振り身振り、使えるものは全部使って会話することで、会話の出来ない相手と会話をすることを学びならが、会話をするために自分も発話したいと思える自分の意見、相手も思わず耳を傾けたくなる内容の会話が出来るようになるために、色々な勉強が必要になること。そんなことに気づくための授業なのだ。

例えば「株」の授業は、お金を儲けるために勉強するのではなく、人から「騙された!」等という言葉を吐かないでいい人生を送るための授業だと考えている。つまりお金を出すか出さないかの最終決断は自分でするのだから、その為の「自己責任」の取り方を学ぶものであり、後悔しない自己責任は、正確な情報を収集し、判断しなければならない。そのためには歴史・経済・世界史・地理等、あらゆる事に目を配り、分析する力をつける必要があることを学ぶ。そのための授業である。

学生達に気づいて欲しいのは、社会人として生きるためには正確な情報を読みこなす力と、それを伝える力が必要になり、そのための勉強のあらゆるベースになるものは「国語力」と「コミュニケーション力」であり、その重要性を自覚することで、しっかり国語力をつけ、コミュニケーション能力を磨いて欲しいと考えている。

しかし残念なことに、現実の日本は日本を国際的な社会にするために国語力より外国語力。そのために子供を小さいときから英語で教育するとか、インターナショナルスクールに入れるとか、留学させるとかに躍起になる。この方法が国際人を育てる一番の近道という安易な考えが、急速に親の間に広まっている。

おまけに受験の功罪を説きながら、受験勉強を成功させるために「合理的な勉強法」としてアナログでの勉強方法は、依然と否定され続けている。

買い求めた英単語帳をただ暗記するより、教科書から自分で抜粋し、辞書を引いて自分用の英単語帳を作り学ぶことや、買い求めた受験参考書をただ暗記するより、教科書から自分で重要と考えた部分を書き出して「まとめノート」を作ることや、塾で夜遅くまで過ごすことより親と雑談をすることを否定することは、学生時代に学ばせたい一見無駄に見える目的達成までの過程や工程の中にたくさんつまっている「学び」を無視し「結果追求」のみを重要視する。そんな風潮は、例え国際人にするためにでも重要な、国語力や日本語でのコミュニケーション能力を育むチャンスを逃すばかりではなく、社会に出て仕事をするときに使う能力まで萎えさせてしまう原因になっている。

上田学園は今4月の授業内容を検討し、在校生に不足している知識や、学ばせたいと思う教科の選択に入っているが、今学期も一番重要視しているのは国語とコミュニケーションだ。そんな中フット目にした新聞に「ここにもコミュニケーションの取れない悲しい子供を育てようとしている親がいるわ・・・」と愕然とした記事が載っていた。

赤ちゃんの「泣き声翻訳機」が出来ているということは、何となく知ってはいたが、それを本気で使って自分の子供の泣き声に、一喜一憂している若いお母さんがいるということを、その記事は伝えていた。

世の中、本当に便利になった。知りたいことはネットで簡単に調べられるようにもなった。海外にも短時間で行けるようになり、食事も簡単に時間をかけずに「チン!」とやれば美味しいものが出来るようになった。

あらゆることが便利になったと思える分だけ、不便を感じていると思えるものがある。それがコミュニケーションを取ることではないだろうか。

コミュニケーションをとることは、時間もかかるし頭も気も使い、簡単ではない。電子レンジのように「チン!」とやれば瞬時にこちらの言いたいことが理解出来、簡単に良い人間関係が築けるようになる。味気ないがそれを希望する人が多いようだ。

親や先生達を悩ませるリストカットする子供達や、不登校をする子供達。引きこもる子供達だけではなく、受験勉強をこなし毎日学校に問題なく通っていると思われている多くの子供達の中にも、人間関係を作るのは「メンドクサイ!」と言い「うざったい」と横を向き、シンプルな関係即ち、時間をもてあますと話すこともないのに「元気?なにしているの。さようなら!」と次から次へと意味もない携帯電話を掛けまくる関係しか、つくろうとしない。

上田学園開校前だったら、彼らの言葉を鵜呑みにして「本当は友達なんか欲しくないんだ」と考え、私は引き下がっていたと思うが、上田学園を通して多くの子供達が使う日本語と、大人の私達が使っている日本語が共通していないこと。小さいときから年齢にそぐわないような大人っぽい意見を、年齢以上の言い回し等で披露し、一見頭のいい子供を演じ、また周りもそれを信じ込んで賞賛してしまう。

その賞賛に一時的に酔う子供達も、信じ込まれるということは、それに見合った期待がかけられるということに気づき、考えたこともないような期待に重荷を感じ、期待されるようなコミュニケーションが取れないことで内心苦しみ、それを見抜かれないうちにと、何だカンダと理屈を捏ねて逃げ出そうとする。

「計算の仕方が分からない」ということを言いたいだけなのに、とういう訳だか「1+1=2の答えを、どうして2にしなければいけないのか、理解出来ない」という言葉を用い、それを聞いた大人たちは「1+1の計算は出来るが、2にしなければいけない理由なんて考えたこともない。この子は簡単な足し算も『どうして?』という考えで説こうとしている。『素晴らしい!』末は博士になるかもしれない?」などと、誤解する。

子供達の多くは、小さいときに大人の言葉をコピーし覚えただけであり。その後の国語力不足から、言葉の本当の意味も使い方も理解しないままに何となく使っているということに、誰も気づいてあげない。

問題が起きる度に、子供達の訴える言葉を真剣に受け取り「こういう意味?」とか「ああいう意味?」とか色々言葉を添えて何とか彼らを理解したいと頑張る大人たち。子供達は自分の立場が一番正当化されそうなところで、自分の言いたいこととはチョッと違うかなと考えながらも、その場を和やかに終わらせようと、それを選択する。その結果、自分のことを分かってくれている、または分かってくれると都合よく考えられる相手にしか、言葉を発しなくなる。そして年齢だけが成長していく。それも国語力と年齢と身体と知識とのギャップに困惑しながら。

私は、上田学園の学生達には共通日本語を通して、きっちりコミュニケーションがとれる人間にしたいと考え、努力しているつもりだ。しかし学校や教師ではやれることに限界がありすぎて、それが大きな悩みになっている。何故ならば、コミュニケーション能力のベースは家庭で培われるからだろう。

人生の最初に学ぶ「基礎コミュニケーション初級1」は親からである。それを土台にして学ぶ「基礎コミュニケーション初級U」は、子供を取り巻く大人達からであり、「初級V」が兄弟や友達、そして最後に学ぶのは先生や知らない人たちからだ。

そうやって学んだコミュニケーション力を膨らませていくのが国語力であり、それが外国語を学ぶときの基礎にも社会人になって一人で生きていくときの基礎にもなるのだと思うのだが、それに気づかず、それを疎かにした結果、通じない日本語、コミュニケーションをとる手段にならない日本語が誕生しているのではないのだろうか。

子供達が人生最初のコミュニケーションの取り方の基礎を学ぶ段階で、親が自分の子供の泣き声、即ち子供のコミュニケーション手段の「泣く」ということを自分の心で感じ、目で確かめ、音で確認しながら赤ちゃんが何を言いたいのか判断することをせず、「ママに自由の時間を頂戴ね」とか「ゆっくり寝かせて!」とか、「家事をするのをさまたげないで」とか、自分の要求のみを押し付けてしまったら、子供達とのコミュニケーション手段はゼロになる。

親が、子供と会話する手段の五感を全く使用せず、赤ちゃんの泣き声を通訳する機会を採用した時点で、親としての最初の重要な仕事である子供のコミュニケーショントレーニング役を放棄し、単に子供を産んだけの人になるだけではなく、人生の上に何回もこない最高に幸福な役目である「可愛い子供の教師」という楽しいい役職を、そこらへんの道端に捨ててしまったことにもなる。

その結果、大きな可能性のある人生に向かって立ち向かうチャンスを逃がしたコミュニケーションをとることが苦手で、コミュニケーションをとる相手を必要としないために他人にアピールする必要もなく、自分のことにしか興味がもてない、無表情で、人間として生きることのへたくそなそして、しなくてもいい苦労を背負って生きる子供が誕生してしまう。

全ての大人は考えて欲しい。コミュニケーション手段とは言葉だけではないことを。その年齢や状況や状態によっては、コミュニケーション手段が言葉以外の目の表情であったり、お化粧であったり、服装であったり、身に付けているものであったり、絵であったり文章であったり、行動であったりすることを。そしてコミュニケーションの取り方を教えるのは、全てキャッチボールのように大人が子供に投げかける言葉と行動でありことを。

子供が学校で問題がないからといって、安心しないで欲しい。子供が何も語らないからと言って、自分の行き方を見せることを忘れないで欲しい。子供は語らなくても問題を持ち、親の生き方をじっと見つめているのだから。

いつの頃からか、子供を一人の人格をもった人間として対等に付き合おうという風潮が、自分の考えや選択力など全く育っていない年齢の子供にたいしても起こった。

その結果、子供が子供として存在していることを親や大人たちは無意識に許さず、問題がおこるたびに、知恵をつけ反抗をしようとするたびに、大人の考えを理解させようと説得をし、納得させようと言葉だけを重ね、子供では理解出来ない理屈でねじ伏せようとする。でも子供が欲しがっているのは、年齢にあった話し合いであり、理屈ではない親の毎日の生き様から感じる説得なのだ。

年齢にあった段階を経ないで子供を育てると、大人の考えに合わせようと背伸びばかりをしていた子供たちは、生きることに「金属疲労」を起こし始め、それに誰も気づいてくれないことが分かると、人間の誰もが持っている「治癒力」が始動をはじめ、金属疲労から自分を解放し、自分を生かし続けるために自分の世界に入りこんで、自分の世界でしか生きようとしなくなり、自分の世界から出てこようとしなくなる。それでも世間を無視できない彼らは、世間に言い訳する正当な理由として、身近な世間である「親」を責めることで、自分の立場を存続させようと努力する。

どんな問題をもった子供でも親は可愛くてしかたがないだろうことは、他人の私でも、こんなに上田学園の学生たちが可愛くてしかたがないのだからと、想像できる。おまけに可愛い子供には、彼らが望む人生を送ってもらいたいと願ってしまう。

他人でもこうなのだから、親が可愛い子供達に何かをしてあげたいと思うのも良く理解出来るし、親が子供に親の理想を期待することも良く分かるが、子供も親に自分の理想を期待している。その期待がコミュニケーション不足によって「悲しい誤解」を引き起こすことが多いようだが、そんな誤解を生まないためにも、コミュニケーションをとる癖を小さいときからしっかりつけておくべきだ。

親と子の関係はアナログを基準にして、親が自分の目と耳と皮膚と心を全開にして、正面からしっかり子供と向き合い、きちんとコミュニケーションをとっていきたいものだ。そしてそんなアナログ的な親子の人間関係が、他人である友人や仲間達と、いい人間関係がつくれる大きな要因になると思うから。


 

 

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