●学園長のひとり言 |
平成16年3月3日* (毎週火曜日) 春学期は、時間と本! 忙しい日が続いている。成チェリンではないが、じっくり考える時間が欲しい。じっくり本を読んで、感激したところにいっぱい赤線をひっぱったり、ノートに書き写し、書き写したところをまたじっくり読み直して、感激のアンコールもしたい。 そういえば、大学受験が終った日、受験のための暗記暗記で来た毎日に終止符が打たれた日、暗記のために巻きに巻かれた頭のゼンマイのばねが「ピン!」という音とともに切れ、ビュンと巻き戻され、馬鹿になったようにブランブランになったゼンマイが目に浮かんだ日。それと同時に受験勉強用に暗記した暗記物が、頭から全部吹っ飛んでいったように感じたあの不思議な感覚と空しさ。 空っぽになってポーっとしたままで大学生になった私のクリーン?な頭に、「俺は直木賞を狙うぞ!」、「俺の作風は芥川賞だ!」等と言い、ワザと汚い格好をして作家風?を気取りながら作家になることを夢見ている、18歳の私には単に「汚いおじさん」のようにしか見えなかった3・4年の部活の先輩達。 彼らがシャワーのように浴びせ掛ける「生きるとは?」「愛とは?」「仕事とは?」「政治とは?」「幸福とは?」等という疑問に、時には部室で、時には嫌がられながらもコーヒー一杯で占拠した喫茶店の片隅で、4時間も5時間も口角泡を飛ばしながら論じられる先輩達についていくために、芥川だ、太宰だ、漱石だなど等、色々な作家の本を手当たり次第山のように読みあさり、感激した言葉や文に赤線や青線を引き、ノートに書き写し、一生懸命自分の意見を先輩たちにぶつけ、いっぱしの大人になった気分を謳歌したあの頃が懐かしく思い出される。 時の経つのは早い。そんなことをフット考えていたら「こんちわッス!」と大ちゃんが入って来た。そして念願の「一人住まい」をするための不動産巡りの結果を報告してくれる。相変わらず「面倒ッチイ!」というポーズをとりながら。その様子があまりに可愛いので思わず話の腰を折るようにして「ねえ、大ちゃんって17歳だっけ?」「いや、16歳ッス!」「えゝ、この間生まれたばかりなんだ!」「いや、もう16年も生きているんです。充分ス!」 久しぶりにほんの少し雪がちらついた今日、大ちゃんは不動産巡りで冷えた体をもてあまし気味に、でも大人がするように不動産屋さんと二人で行動していることが誇らしいのか、「こんな授業は俺には必要ないんだ!」と、参加しないから前進しない授業の言い訳をするかのように授業に無関心を装ったり、「メンドッチイ!」「欲しい!」「買いたい!」「つまらねー!」の省エネ四語を用い、彼のただ一つの逃げ場所、ゲームに一見没頭しているかのように装う退廃的な顔から、久しぶりに見せる若者らしいキリットした顔つきで、もう16年も生きているとい言葉の可愛らしさに、明日の授業の準備に来ていた20年前に生まれたチーチーと思わず顔を見合わせて笑ってしまった。そこへ19年前に生まれた成チェリン、「自動車の実地試験に合格しました!」と言いながら入って来た。そして一寸前に届いたネットで買った本を見せてくれる。鍵山秀三郎の「凡事徹底」。 「その本、私も読んだわ。どこかそこの本棚に入って入るわよ!」。ひとしきり本の話になる。話ながら、フット思った、時代が変わったと。 私達の学生時代、何か悩みがあったり、知りたいことがあると本を読んだ。それも文学書を。そして小説の主人公たちの発した言葉や、生き方や生活の仕方から、何かを学び、それを糧にして一番多感な時期、いわゆる青春時代を生きてきたような気がする。 現代はほとんどが「ハウトウ本」だ。「どうやったらいい会社に入れるか」「どうやったらいい女になれるか」「どうやったら金持ちになれるか」等など、本当にハウトウ本が多い。それもほんの少し前なら、親や兄弟や友人や先生や先輩達が話してくれたような。 本から学ぶようなことではないことが、今は本として売れている。それも生きる上で当たり前のこと、社会を構成する一員として、幼少時から社会人になるまでに当然教育されていなければならない最低限の基礎的なことまでも、本から学んでいる。 学ぶことはいいことだ。家族からだろうが、先生からだろうが、社会からだろうが、本からだろうが、「学ぶ」という謙虚な気持ちを持ち続けることは大切なことだ。 上田学園の学生達は、リサーチの授業などで図書館に入り浸ったりしなければならないので、他の学校の学生よりは色々な本を手にしていると思うが、私生活では成チェリンのように本を乱読するか、攻略本または漫画しか読まない3タイプ学生に分かれる。人数も少ないせいかシンプルでまことに分かりやすい。 時間の流れが速い。ゆったりと考えたり本を読めるようにしたいとは考えているのだが…。学生達からも「もう少し自由な時間が欲しい!」と言われるが、その割には寝ている時間やゲームに費やされる時間が多いように思うのだが。 若者の特権は眠いことだろう。何しろ色々なことに一番興味がもてる時期だから色々なことに興味を持ち、それを全部したいだろうから、時間が足りないのはある意味当たり前だと思う。しかし、上田学園の学生達が言う「もう少し時間が欲しい!」という言葉には、同意できないものがある。 「もっとゆったりした時間割を組もうかな・・・?」等と私も考えることはある。しかしゆったりした時間割にすると、もっとゆったりと過ごすことを希望してくることは目に見えている。事実、年に1・2回日曜日に授業が入ることもあるし、図書館に行かなければいけない宿題も多いのでと、単発的に授業が入ることを条件に月曜日を研修日として自習学習日にしたが、そのいきさつを知らない学生達は「研修日=休み」と考え、先生のお仕事の関係で月曜日に授業を入れことに異議を唱える。 「時間がない。忙しすぎ!」という彼らの意見は、決して「時間割がこんでいる」というだけの問題ではないように思う。まして私のように老化からくる頭の回転の“鈍さ”とは違い、自分達の生活をマネージメントするのが下手なことが大きな要因でその結果、時間に追いかけられているのだ。 この学校を開校したころ一番初めに驚いたことは、学生達に時間の概念がないことだった。 1時間は60分ということは頭で知っている。でも1時間の長さがどの位なのか体では学んでいないため、普通の人たちが「そろそろ1時間くらい経つんじゃないかしら?」と言って時計を確認するが、それが出来ず常に時計を見ていなければ時間に遅れるのだ。20歳に近い学生が「もうかな・・・?」と5分おきくらいに時計を確認する様子は、まるで時間を覚えた小学生の頃の私のようだった。「もう12時?」、「ねえ、もう12時?」と何回も食事の時間に遅れないようにと、広場にあった時計の針が重なるのを見に行っては、時間の読める子に質問していた5歳頃の私に。 小さい時から親がマネージャーのように「今からお稽古」「今からお昼ご飯」「今から~」と、勉強時間を無駄にしないためにスケジュール管理をしていたことが、体に時間の概念を植付けず、時間をマネージすることが出来ない子供に育ってしまったのだろう。そのうえ、決まった場所に決まった時間に行かないでいい、自分の時間に合わせた生活を長い間したことも、それに拍車をかけたように思う。 現在の上田学園の学生達はあの頃の学生ほどではないが、時間のマネージメントが不得手だということは、共通している。おまけに手際が悪い。マニュアルのないものは何をやっても時間がかかる。その上、自分の好きゲームだ漫画だというものを優先する。やらなければいけないことが最後になる。だから宿題に追われる。だから時間が無いような気分におちいる。そして必ず言う「もっと時間が欲しいです」と。 学生達には時間の使い方を学んで欲しい。上手に時間が使いこなせると、一生の得だと思う。そのために毎年新入生たちには学生達が管理するお金で、システム手帳を持たせているのだ。 4月からの上田学園は、16歳の学生から31歳までの学生で構成されていくだろう。そしてその一人一人に授業とは別の春学期(4月から9月まで)の課題が話し合いで決められていくが、またそれとは別に、時間のマネージのしかたを学ぶことと同時に、攻略本や漫画ではない、感動し、感激し、心に残る本。悲しいこと、やりきれないことなどがあったとき、フッと読み返したくなる、そんな本に出会えるように、本をたくさん読んで欲しいと考えている。 「先生、お先に!」「さようなら!」 一人暮らしを熱望し、不動産巡りでチョッと社会と接点が出来、なんとなく前と違ってきた大ちゃんが、チーチー手作りのカレーライスを食べに、チーチーの家に成チェリンと出かけて行った。 3人を見送り静かになった教室。古くなった脳みそをまたまたフル回転させながら、新学期の打ち合わせのアポイントをとったり、タイへの書類を作ったり、請求書を書いたりと、私の帰りを待っている母の夕食時間に間に合わせようと、時間に追われながら仕事をしている「もう少しじっくり仕事をする時間が欲しい・・・」とつぶやきながら。 |