●学園長のひとり言 |
平成16年5月13日* (毎週火曜日) 心のふるさと ♪ウサギ 追いし かの山 60名近いお年寄り達が歌っている。懐かしい“故郷”の歌。お年寄りに混じって私も唱和する。久しぶりの小学唱歌、心が和む。母の日の養老院のプレールーム。 私には93歳になる母がいる。その母以外にもう2人の母がいる。 「早苗、目も悪くなってテレビも見られなくなったし、本も読めなくなったし…、政治も本当に悪くなっているし…。生きるのに飽きたわ!」転勤先のアメリカから仕事の打ち合わせで4日間だけ飛んだスイスで、打ち合わせの合間を縫って久しぶりに会いに行った私を抱きしめ泣かんばかりに喜んでくれた彼女の第一声。彼女の名前は、Mrs.Ella Dinkel-Otto。 私が「スイスのお母さん」と呼んで大切に大切にお付き合いしていた方だ。 インドネシアでホテル経営のビジネスを成功させていた一回り以上年の離れたスイス人のご主人と出会い、29歳のときに結婚した彼女は、第二次世界大戦前にご主人についてインドネシアに渡り1960年位までインドネシアに住んでいたようだ。そして帰国後、一人で会社を設立したり、軌道に乗った会社を大きな会社に乗っ取られたりと、彼女の言葉を借りれば「本当に楽しい、そして興味のある人生だったわよ」という人生を歩んでいた。 そんな彼女と私が出会ったときは、すでに未亡人となり、子供のいない彼女は彼女の双子のお兄さん家族や、家族の中で一番仲良かったというすぐ下の弟家族や友人達に大切に見守られながら、一人で“悠悠自適”の生活をしていた。 たくさんの本とたくさんの植木と、高価だが、でも必要最低限の家具で飾られた不思議な空間の居心地のいい2DKの彼女のアパート。大きな肘掛椅子にゆったり座った彼女の胸のポケットから、スイス製の綺麗なレースのポッケトチーフがエレガントな彼女を象徴するかのように、いつも顔を覗かせていた。 拙い英語と、時には習いたてのドイツ語を交えて話し合う私達だったが、出会ったときから不思議に言葉を超越したところで分かりあえ、意気投合し、会えば時間を忘れて彼女が話してくれるインドネシアの話に引き込まれ、お料理の好きな私のためにインドネシア料理を手ほどきしてくれ、テレビを見ながらシュミット首相(当時のドイツの首相)の政治的見解は支持出来るとか、出来ないとか論争し、インドネシア時代からの友人達というオランダ人やスイス人やドイツ人などの友人やそのご家族に紹介されたり、そのご自宅に招待されたりと、彼女を含む彼女の回りの方々からも本当に可愛がっていただくようになり、いつしか「スイスのおかあさん」「私の日本の娘」と呼び合うようになった。 仕事のない火曜日の午後、予定や用事のない日曜日。昼食をとりながら彼女と過ごすのが慣例になり、日本にいる両親がご近所の方々に大切にして頂いて過ごしていることに感謝する意味でもと、帰国するまでEllaに親孝行の真似をさせてもらったが、それ以上に私の海外生活を楽しいものにしてくれた彼女の存在を、絶対忘れることは出来ない。 そんな彼女から「生きるのが厭きた!」という思いがけない言葉が吐かれたときは、胸が潰されるような思いと、自分の生活に追われている現実と、遠くに住んでいる現実とで、彼女に何もしてあげられないことが申し訳なく、言葉がなかった。そんな私の気持ちを払拭してくれるかのように、彼女は私がアメリカで頑張っていることを喜んでくれ「早苗はゼッタイ凄くなると思っていた。本当に嬉しいわ。私は私の日本の娘を誇りに思っているのよ」と喜んでくれた。 帰国のためにスイスを離れた直後、本と植木に囲まれたあの素敵なアパートの前に建てられた養老院に移っていた彼女は、養老院の昼食で出たサンドイッチに「食欲がないのよ。インドネシアの食事がしたいけれど、私がいくら説明しても私が食べたいインドネシア料理を作ってもらえないのよ」と、丁度訪ねて来ていた双子のお兄さんの、ずっと年下の奥さんの方を見ながら訴えるように言っていた。 それから1年後。イギリスに仕事で飛んだ私はスイスに足を伸ばし、友人の家の台所を借り、スイスのお母さんから教わった私の得意料理、インドネシア・カレーとタラの魚で作ったお料理、そして炊きたてのご飯を持って彼女の昼食時間に間に合うように彼女のいる養老院を訪ねた。 街中が若葉におおわれ、どこまでも青い空が続く気持ちのいい初夏の日差しに、彼女と会える嬉しさと、きっと久しぶりの彼女の味のインドネシア料理。彼女の喜んでくれる笑顔を想像しウキウキしていた。しかし、彼女は93歳の人生を私が訪ねる4ヶ月前に終えていた。 「スイスのお母さん」と呼ばせてもらっていた彼女は今、チューリッヒの街を見下ろす高台に埋葬されている。何歳になってもエレガントに潔く生きていた彼女の生き様を、私の心にたっぷり刻み込んで。 彼女は全財産を街に寄付し、そして自分は大きく空いっぱいに枝を伸ばした大木をとり囲むように作られている60センチくらいの高さの塀に書き込まれた名簿の中に、名前を残すだけの共同墓地を“終の棲家”として選んでいた。 私はスイスに行くと必ずタクシーを飛ばして彼女の終の棲家を訪ねている。彼女が元気だった頃と同じように、彼女との食事のときには絶対欠かせなかった赤いローソクを彼女の名前の前に灯しながら「早苗が会いに来ましたよ。日本でEllaに負けないように頑張って生きています、ご安心ください!」と報告するために。 私が母以上に大切に思っているもう一人の「私の母」は、木村秀子先生。私のお茶とお花の先生だ。 彼女は今年で99歳になるはずだが、先生ご自身は「私はもう100歳よ!」とおっしゃり、「男や嫌だね、過去にどんなに偉かったかとそんな話ばかりする。過去の話ばかりして、くだらないね!」と言い、「失敗しましたよ。ここに来てから車椅子で移動する癖がついて、足腰が弱ってしまいましって、駄目ですね」等と言いながらほんの5・6年前まで、夏になるとサンローランのサングラスに、白の膝までのコットンパンツにピンクの袖なしのコットンシャツの襟を立てて、颯爽と買物に出かけていたあの頃のように、年を感じさせないほど元気な笑顔と、はきはきとした爽快な意見をぶつけてくれる。 先生は養老院に入居する3年くらい前に同じ年のご主人を亡くされた。 後年「早苗さんは偉い!よく頑張っている。秀子のお弟子の中では一番!」とお目にかかるたびに激励してくださり、ドイツ留学の話など面白い話をたくさん聞かせて頂くようになったが、そんな日が来るとは想像も出来なかったほど、ビシットした方だった。 木村先生ご自身は、御茶ノ水女子大を卒業したあと県立高校の国語教師をしたり、岩波映画のシナリオを書いていたこともあったそうだが、私がお目にかかったときは茶道や華道教授のほか、俳句を読んだり、随筆を書いたりしていたが、茶道や華道の先生というイメージから程遠い、気っ風のいい、さっぱりとした面白い“気取らない先生”としてお目にかかった。私が小学校の2年か3年生のことだった。 戦前と戦後で180度生活が変わってしまった両親はその体験から、これからの時代は“男女同権”の時代。今までのように、男が台所に入るのは「男の沽券にかかわる」とは考えず、男の子でも家のことくらい出来ないといけないと考え、十歳と五歳年上の兄達にも料理・洗濯・掃除と年齢にあわせて何でもやらせていたが、それと同じように茶道・華道もやらせていた。そして私も年齢とともにお料理・洗濯・掃除・茶道・華道、それに柔道も兄達と一緒に習わされた。そのときの茶道・華道の先生が木村先生なのだ。 木村先生のお弟子にして頂いてから50年が経つ。8歳から留学(遊学)で日本をはなれた27歳の後半まで、雨の日も、風の日も、毎週土曜日先生のお茶室に通い続けた。 覚えが悪く、覚える気持ちも全くなかった私は、お茶もお花もいっこうに上手にはならなかったが、一番小さな8歳の私から80歳以上の男女のお弟子さんが出入りしていたあの小さな4畳半のお茶室の中で見聞きしたことは、学校で学んだどんなことよりも、私の人生に大きな影響を与え、大いに役に立っている。 「在釜」という札が裏木戸にぶら下がり、お弟子さん以外のどんな方にもお茶室を開放し、素敵な生き様をしている方や、癖のある方、心の狭い生き方をしていると思える方、世間ばかりを気にする方。年齢も社会的地位も性別も全く異にした方々が木村先生を慕って集まり、お茶やお花にまつわる話のほかに、古文書の話、お料理の話、政治の話、文学の話、本当に色々な話を聞かせてもらった。 疲れた心を癒してくれる音のない音を聴き、囲炉裏にかけられた茶釜からお湯が奏でる優しい音に誘われるようにお茶を立てる茶せんの音。そんな優しい音や先生方が話してくださる心に美味しい話や不味い話し達に囲まれ、まだまだ海外に出られるのは国費留学や一部の大金持ちの人たちしか行かれない時代であり、友達に海外に行ったことのある人間は皆無であり、おまけに「早苗ちゃんの通っている武蔵野第五小学校の通信簿は1・2の2段階なのかな?」と私の渡した通信簿を見て父が思わず漏らす言葉もなんのその、いつの頃からか、何故そう思ったのか分からないが、「大人になったら世界相手に生きよう。派閥争いは絶対世界相手にやろう。そして木村先生みたいに生きてみたい」等と考えるようになっていた。 男物の反物で仕立てた着物をゆったり着て、お弟子さんの年齢に合わせた話し方で相手をしてくれる先生も、護国寺などで開かれる大茶会などでは、ゆったりした中に誰をも近づけないような威厳と、きちんとした言葉遣いで他者を圧倒する様に、普段の先生との差を感じ驚かされ、生きることにもTPOがあることを知らされ続けた。そして先生の弟子になって50年。先生の考えや生き様は日本にいても海外にいも私の指針になり、時間とともに弟子から勝手に「私の大切な第二のお母さん」と呼ばせて頂くようになり、それと同時に、木村先生に恥ずかしくない生き方をしようと心がけるようになっていった。 「木村先生、母の日おめでとうございます!」と差し出す私の花束に、「ありがとうね。これは持ちきれないわ。誰も訪ねてこない人もいるから、このお花を皆さんに分けてあげましょうよ。そう院長先生に申し上げてね」と、毎年同じように繰り返される先生の言葉に、そのつもりで作ってもらった一抱えもする大きな花束を、先生の伝言とともに、介護の方にお渡しした。 思い出話やお弟子さんたちの懐かしい話や、嬉しい近況をたくさん聞かせてもらいながら、先生と午後の3時間を一緒にすごした私は、先生と話している間中、考えずには居られなかった「木村先生に出会えた私は、何て幸福者だろうか」と。 人間には家の顔と外の顔がある。親や家族は家での顔を知っているが、外での顔に気付かないことが多い。勿論それは私にもあてはまる。私の外での顔を見ていた人はたくさんいたはずだが、その外の私に対し、家の顔を見て注意をし、叱咤激励し、色々な見本を見せてくれた両親のように、木村先生は他人とすごす外の顔の私を見、外での過ごし方、外で過ごすルールや物の考え方、他人との交流の仕方などを教えてくれた。 先生の“終の棲家”の養老院を後に、先生からたくさんの“元気”を貰った私は、自宅に着くまで心のなかで私のテーマソング「♪ガンバラナクチャ、ガンバラナクチャ♪」と、繰り返し歌っていた。 上田学園のルーツは木村先生のお茶室、淡月庵だ。 そして上田学園の中で私は、スイス人のお母さんのElla や、日本の第二のお母さんの木村先生が私に注いで下さった愛情を、未来や将来がたくさんある大切な学生達にいっぱい注ぐことが私の役目であり、それが勝手に「おかあさん!」と呼ばせていただき、慕っているお二人に対する恩返しだと考えている。 上田学園の学生達にも“忘れがたき故郷”になる“心の故郷”のご両親のほかに、色々な人たちとの出会いが彼らの人生を先導してくれることだろう。それを願うとともに、恵まれた先導者に出会うためにも、学生達には素直な心と、あらゆることに好奇心が持てる人間になって欲しいと希望している。それも自分をしっかり愛しながら、自分を大切に思うからこそ、他人にも興味を持ち、他人を大切にし、感謝出来るそんな人間らしい“普通の人間”として。
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