●学園長のひとり言  

平成16年6月16日*

(毎週火曜日)

懲りない大人達

小鳥のさえずりの声。それをさえぎるようにからすが鳴く。すでに梅雨に入った東京の朝4時半。まだ完全に夜が明け切らぬ空に黒い雲が東の方に流れていく。今日もどんな一日になるのか、そんな空を眺めながらボーっと考える。

毎日忙しい日が続いている。「チョッとはお休みを取ってください!」と周りの方が気を使って下さるが、なかなかそうもいかない。

ミニコンサート会場としてお貸しする約束をしていたコンサートが上田学園で開かれ、麻生先生の新作舞台の観劇会があり、そして2年ぶりの上田学園のオープンクラスあった。おまけに父が亡くなって1年、やっと元気になって少しは太ってきたとホットしていた母が具合を悪くして一日学校をお休みさせて頂いたりと、長崎の小学校6年生の“女児殺傷事件”という重い雰囲気の中で色々なことがここ数週間起きている。

日本はこれからどうなるのかと考えると、心が潰されそうになる。子供達が生きていくこれからの時代、どんな時代になるのかと考えると「考えるの止めよう、一抜けた!」と叫びたくなる。

こんな悲しい殺伐とした世の中に誰がしたのか。政治家?教育者?社会?親?外国人?。いや誰がしたのでもない。私も含む自分達大人がしたのだ。全ての大人の私達がしたのだ。

儲かりさえすればいい。自分さえよければいい。自分さえ満足ならいい。そんな自己中心的にしか考えられない大人たち。表面的にしか物事を捉えず、隣の芝生の青さばかりを気にし、自分の家で起きていること、自分の足元の出来事に問題が起こるまで何も気が付かない。

右を見ても“心身症”、左を見ても“心身症”。診療内科などそんな科があったことも気付かなかった時代から、右をみても左を見ても心療内科の大流行。それに比例するようにカウンセラーを希望する人たちも増え、カウンセラー養成所も大流行。何だかよくわからない“自己開発セミナー”も大流行。根本的な問題を解決しようともせず、相変わらず問題の表面だけが“How to 本”のテオリー通りに有識者といわれている方々によって議論され、その議論された言葉が人の心のうわべだけを通りすぎる。大きな事件が起こる度に繰り返される「どうしてこんな子供達が育ったんでしょうかね?」と言う言葉とともに。

身近な人間に問題が起きても、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の肌で感じ、全身全霊で問題を解決しようと努力をする前に「誰それ博士がこう分析しています」と、他人事のように他人の述べた意見を言い、問題解決に繋がるよう努力する前に日本中が“総評論家”と化して、上滑りの論評のみが世の中を駆け回る、それも「困ったものです!」という言葉と一緒に。

反省しない大人。挫折から学ばない大人。何か大変な事件が起きると「心のケアをしなければ!」と騒ぎ立てる。「命の大切さを教えなければ!」と壊れたテープレコーダのように繰り返す。人のために何かをしたこともない自分たちのことは、タナにあげたままで。何かが起こってからでは遅いのに。

生まれてくるときは白紙で生まれてくる。成長するに従い、その白紙に色々な色が刷り込まれていく。その刷り込まれていく色の中に当然人間として生きる自分達の命の大切さ、命を愛でる気持ちが毎日の生活を通して刷り込まれていく。それも人生最初の教師である両親や彼らを取り巻く彼らの周りにいる私たち大人達によって。

自分の存在。自分の発言。自分の行動。全てのことは確かに自分のものだ。自分の生き方全てが自分のためだ。しかしこの社会で生きているということは、例え「私は1人で生きています。誰の助けもかりていません。親兄弟も居ません。天涯孤独です」と言っている人間でも、誰一人として、一人で生きている人間はいない。人の間で生かされているのだ。人間として生き、生活しているのだ。

人の間、即ち他人と共存していくということは、自分のものであるはずの自分の存在も、自分の発言も自分の行動もすべて、よいことも悪いことも含めて人に大きな影響をあたえる。自分も色々な意味で影響を受ける。

言論の自由、表現の自由、そんな言葉で世の中をもてあそんではいけない。言論の自由にも表現の自由にも人間としての“品位”というものが存在するはずだ。その品位は、ただこの世に存在するというだけですでに色々な人に影響を与えるという事実をしっかり理解し、謙虚にその責任を果たす、謙虚に努力する。その謙虚さの中から生み出され、にじみ出てくるものであり、その謙虚さが人間として生きる根本をなす“品位”に繋がっているはずだ。

大人で存在するということは、それだけで子供に対して大きな仕事、重い責任を負わされているはずだ。誰にも回避できない責任が。

親という立場でその責任をまっとうするのか、隣の小父さん、知り合いの小母さんとしてその責任を全うするのか。職場の先輩としてその責任をまっとうするのか。先生としてその責任をまっとうするのか。作家としてその責任をまっとうするのか。その責任を果たす“場”も“役割”もそれぞれだが、大人という部類に属すかぎり、その責任を全うしなければ自分達が苦しまなければならなくなるのだ。自分達が自分達で自分達の首をしめる結果になるのだ。

大人として生きるということは、大人の後を追い、大人達が作った社会を基礎にして子供達が作る社会で、自分達大人が本当に自分たちの責任を全うしたかどうかを、自分達の人生最後に確認させられながら過ごさなければならないということなのだ。

子供達主体で運営されているNGO「フリー・ザ・チルドレン」の代表をつとめ、三年連続ノーベル平和賞にノミネートされている二十歳になるカナダの大学生の言葉に「何もしない大人が一番悪い!」というのがあった。

大人の怠慢で未来を背負う子供達の問題を、子供達自身が解決しようと国境を越えて頑張っているそんな彼らのリーダーの言葉を、今こそ襟を正して聞くべきだ。そして、自分達が育てた子供達に何が起こっているのかの事実を、しっかり把握するべきだ。

いいこと、悪いこと、やらなければいけないこと。そんなこと等を子供達にしっかり教えていかなければならない大人達。

「給食は座って食べなさい!」と注意しただけで、親から「厳しすぎる!」と教育委員会に苦情が行き、それを受けて教育委員会から「注意しすぎ!」という注意が教師に来るような、そんなおかしな行動を何の疑問にも思わず、恥とも思わず、むしろ正当な権利を主張するマトモナ“親”でもあるかのように、それを擁護する理解ある“教育委員会”とでも言いたいかのように、まるで茶番劇のような行為を平気で出来るような大人社会を恥じるべきだ。訂正するべきだ。出直すべきだ。

日本はもっと大人の国に成長しなければ。自分の頭で考え、自分の心で判断し、自分の責任のうえで行動をし、自分で自分をコントロールすることの出来る大人の集団に。その集団がしっかり子供を育てなければ、日本という国は滅びてしまうのではないだろうか。

今こうやって色々考えている間でも、子供達は育っていっている。子供達は自分でも理解出来ない闇の部分をどう解決していいか混乱している。

大人がああだこうだと議論している間も、彼らは大人の都合に合わせて待っていてはくれない。「何かしなければ」と焦るが、何をしていいかわからないのが今の大人の、私達の本音だろう。「明日はわが身」という言葉が今の時代ほど確かな言葉となって自分達の身に振り戻ってくる(?)時代はないのではと、思える程だ。

本当に子供達に対して大人は今なにが出来るのだろうか?何をしなければいけないのだろうか?分からないからこそ今出来ることから始めたい。本当に自分の足元から。そのためにも、大人はどれだけ挫折から立ち直り、生還し、明日に向けてコツコツと頑張っているのかを、きっちり子供達に話さなければならない。実行して見せなければいけない。

人を憎むこともある。人から憎まれることもある。ボタンの掛け違いも勘違いも。人をうらやましがることも、人の出世をねたむことも。でもそんな気持ちを大人たちはどうやって解消したり、解決したりしているのか大人たちは生の言葉で子供達に伝えなければいけない。そしてそんな気持ちを持たないでいいように、大人たちはどうやって世間や他人と折り合いをつけているのかをも。

こんなに厳しく色々な問題を子供達から突きつけられた時代はないのではないだろうか。今こそ、どの大人も大人としての品位を保つために、自分たちの生活、来し方を振り返り、色々な方法で「何かが間違っている!」と悲鳴をあげ、のた打ち回って大人達に何かを知らせようとあがいている子供達の声をしっかり受け止め、反省するべきことは勇気を持って反省し、やり直しをし、同時に現実に起きている問題を現実の問題としてしっかり正視し、子供達の育み方の軌道修正しながら、自分たち自身を大人として成長させていく必要があるのではないだろうか。

私が今しなければいけないことは山のようにある。その中で一番しなければいけないのは、やぱり上田学園のことだ。毎日毎日反省し、考え、そして軌道修正をする。それも頭で考えているのではなく、歩きながらどんな小さなことであっても、自分の出来ることから。

そろそろ学校に行く時間だ。今日の母は元気そうだ。ちょっとホットしている。新しい学生の荻原君も「一番苦手な自分で考えたり話したりすることをやらなければならないので、結構大変です」と言いながら、一日一日彼が話し掛けてくれる時間が長くなっている。

寡黙で寡黙でほとんど家では何も話をしないと聞いていた彼。日本語クラスでは他の学生達に助けられ、前日には彼らから4・5時間特訓されて初めての授業に臨み、日本語教師としては全くも全くのゼロなのに、いい授業をしていた。韓国系アメリカ人の彼の学生も、彼が生まれて初めて日本語を教えたと聞いて「信じられない、楽しい授業だった!次の授業も楽しみだ!」と言って帰って行った

今週はショーゴ先生の授業で各自がデザインしたティーシャツが、小高マンがデザインしたという洒落た上田学園のロゴマーク付きで仕上がってくるはずだ。そして、ロンドンに留学した卒業生のシーシーや色々な国の友人達と一緒に、一週間テームズ河を十人乗りの船を借りて旅をしてきたクリス先生が帰国する。どんなお土産話が聞けるのか、楽しみだ。勿論先生が持って来てくださるお土産も。

今日も色々な意味で暑い一日になるだろう。学生達がどんな一日を作ってくれるのか、ドキドキだ。でも元気な彼らに「乾杯!」私もいつか生徒たちにドキドキを与えられるよう「頑張ります!」

 

 

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