●学園長のひとり言  

平成16年6月24日*

(毎週火曜日)

       たくさん感動をするために
               たくさん努力をしよう!

先週、私の居ないときに突然お子さんのことで話がしたいという方が訪ねてみえたという。そしてその方が昨日また訪ねて下さった。

不動産を生業にしているその方は、出来たら教育それも高校や大学を卒業しているのに無就労している方達の集まりの場を作りたいし、小・中学校の子供達の為のフリースクールも作りたいという。近いうちに上田学園の半額(?)で、神戸で大々的に成功したフランチャイズ方式のフリースクールが、吉祥寺にも開校されるが「どう思うのか」等、色々な質問をされた。

吉祥寺に出来る小・中学校生のためのフリースクールに関しては、自分がそういう学校をつくりたいかは別にして、色々なタイプのフリースクールがあったほうが子供達にとってはいいと考えている。そんな話をしながらフット考えた。きっと色々な方が私がやっていることが理解しずらく、もっと合理的にもっと大々的にやったらいいのにと考え、心配してくださっているのだろうと。

訪ねてくださった方とは、数時間質問されるままに色々お答えしていたが、それをしながら自分が作りたかった学校、自分がやりたかったこと。それをやっぱり続けていこうと改めて思った。

上田学園は平成9年の10月に開校した。当時はまだ学校に行かない子供が出現していることに驚愕するか、「へえ、そんな子供がいるんだ?」という程度の感心しか一般の人たちにはなかったように思う。勿論水面下では学校に行かない子供を持った親御さん達は誰にも相談することが出来ず、近所の人たちや親戚の者には知られたくないと、悩みながらも必死に自分たちの思考範囲外の“学校に行かない”という行動をする子供達と戦っていたようだが。

学校の先生達の間でも、まだまだ校内暴力のほうが深刻で、学校に来ない子供達のことは、校内暴力を振るう子供達より“迷惑がかからない”ということで感心が向かなかったのだろう。どちらにしても一部の親御さんや先生を除く、ほとんどの先生達も含め世間一般からすると、自分たちには余り関係のない“対岸の火”程度のこととしてしかとらえていなかったように思える。

そんな程度の関心しか世間から持たれていなかった学校に行かない子供達は、単に“学校に行かない子供達”と呼ばれていたが、あれよあれよという間に気が付いたらその数が膨れ上がり、学校に行かない子供達から“登校拒否児”と呼ばれるようになり、「子供達が学校を拒否するとは何事か?」という意見があったとかで“不登校児”という呼び名に替わっていった。そして“不登校児”という呼び名が市民権を得るようになるに従い、色々な学校や塾が不登校児対応のクラスを設置し始めた。それがフリースクール、フリースペース、サポート校、大検塾などと呼ばれているのだが。そして現在、未来の発展市場として色々な方々、色々な企業の方々が不登校児対応のビジネスに参入しようとしている、と言う。

現在文部科学省が把握しているだけで14万人に近い小・中学生が不登校児だという。それに高校や大学を不登校している学生や不登校から引きこもっている三十代四十代の人たちを入れたら相当数の人数になるだろう。それを考えたらビジネスチャンスをねらっている方達には美味しい市場なのかもしれない。実際に100名近い人たちが順番待ちをしているフリースクールもあるそうだ。

数あるフリースクールの中では上田学園の存在は異質のようだ。朝から晩までしっかり授業があり、ボランティアの先生ではなく、全員仕事を持っている方が授業を担当している学校として。

「子供達の好きなことだけをさせよう!」とか「興味のあることだけをすればいい」とか「先生の評価を生徒たちにやらせる」とか「生徒が授業のカリキュラムを作ります」とかを謳い文句にしている学校がほとんどの中、子供の好きなことや興味のあることだけをさせようとは考えていない上田学園の姿勢は、一般的に考えられているフリースクールのセオリーからかけ離れた、“かわった学校”に見えるようだ。

予備校やフリースクールなどのパンフレット、新しい教育をしている学校として紹介されたフリースクールの新聞記事や雑誌のコピーなどを携えて訪ねて下さったその方の言葉の中にも「私が考えていたフリースクールと全く違うんですね」とか「上田先生のお考えは全然他のフリースクールとは違いますね」という言葉が話し合いをしている間中、何度も繰りかえされていた。

そして「先生もったいないです。これだけ素晴らしい教育をしているのだからもっと大々的に学校を大きくしたらいかがですか」というご提案もして頂いた。そのためにも、もう少し月謝を安くして誰でも好きなときに来られるようにし、好きな授業だけを受けさせるとか、人数をもっと増やして自由にさせるとか、ケーキを作る職人さんなど、色々な職人さんにも手伝ってもらうとか、そういう学校にするつもりはないかとも聞かれた。

上田学園は、自分の人生を終えるとき例え人がどう思おうと「一生懸命生きた、満足だった!」と言える人間がたくさん育ってくれることを願って創った学校だ。

民主主義の世界で生きる私達も含む子供達に、民主主義を支える“自由”。その“自由”を選択すると、そこには“責任”や“義務”が発生し、それを遂行しなければ、“自由”が単なる“わがまま”になるという“自由”の厳しさをしっかり理解出来る人間。他人と比較するのではなく、他人を応援団にして自分の昨日と比較して努力していく人間。人を騙した、人から騙された等という言葉を吐かないでいい人生。自分で責任の取れる人生。そのために授業内容も含め、学園にいる間の何気ない規則や人との交流等のすべてが、自分で問題を見つけ、自分で考え、自分で答えが出せるようにするためのものなのだ。

在学中はどんなにのたうちまわってもいい。上田学園は次のステップにいく単なる“通過点”でしかない。上田学園を卒業するとき、「自分はこういう人生を送りたい。こういう職業につきたい。そのために今の自分にはこんなことが不足していると思うから、そのためにどこどこ大学のどの学部で、こんなことを学びたい」とか「自分はこんな仕事がしたいが、勉強には向かない人間だ。だからこんな会社に入って働きながら一生懸命学びたい。そのためにこんな会社で修行させてもらいたい」とか、自分のレベルで自分なりの選択が出来る、そんなことが言え実行できる人間になって卒業してもらいたいと、考えている。

私も普通の人間だ。お金も名誉も欲しい。学生達も同じだろう。でも日本銀行をつくった渋沢栄一ではないが「お金は仕事の垢」。お金が欲しければ一生懸命働けばいいだけのことだ。まして有名な企業に就職出来ることや、有名大学に進学できることが人間にとって“一番の幸福だ”という位置付けは、授業をもって下さっている先生たちからして、全くしていないのが上田学園なのだ。それだけに子供達の将来を考え心配している一般的な親御さん達にとっては、上田学園は物足りないだろう。

自由に気楽に、でも“高校卒業”とか“専門学校卒業”という就職に必要と思われる“資格”だけは欲しいと考えている学生にとっては、上田学園は厳しすぎだろう。

他の学校のように簡単に学生が集められなくても、他の学校のように簡単に経営できなくても、それは仕方がないと考えている。

好きな時にしか行かなくていい学校は他にある。好きな科目しか勉強しなくていい学校も他にある。ケーキ屋さんとか色々な職人さんを訪ねて見せてもらう学校も他にある。月謝だけ支払えばそれでいいという学校も、不登校児を作り出す世の中が全部悪いから世の中に従わなくていいという学校もある。人生は全部自分のものだから、自由にふるまったらいいという学校もある。平仮名を書くのもあやふやなのに、高卒、大卒という卒業資格だけとっておけばいいという学校もすでにたくさんある。

どれが正しいとか、どれが間違っているとかいうことは、各々が判断したらいいと考えている。今までの価値判断では判断できない混沌とした時代なだけに各自がしっかり将来を見据えて、各自の責任のうえでしっかり判断するしかないと考えている。そのためにも上田学園は上田学園である理由をしっかり追求していくつもりだ。

小高マンがいくつかの授業に興味がもてないと言う。どうしたら面白くなるのかと考えているという。成チェリンは時間が足りないという。授業が大変だともいう。荻原さんも分からないことを休みの日に来て質問して、授業の準備している。そんな彼らを見ていると「これぞ、上田学園で学ぶことだ」と思う。

生きるということは、楽しいことばかりではない。むしろ大変なことが多い。「そんな大変な人生、何故生きなければいけないの?」と聞かれると、宗教家ではない私には、はっきり答えられない。まして私自身がまだ人生をやっている最中なのだ。だからこそ、私は自分の人生を終えるとき「一生懸命生きた。満足だった!」と言いたいのだ。

困難な人生を何故生きなければいけないかの明確な答えは出せないが、自分が満足だったか、不満足だったかは自分で判断できるからだ。せめて自分で判断できることは、自分で判断したいのだ。それを上田学園の学生達にも望むのだ。

自分が幸福か不幸かは自分でしか感じられない。自分しか感じられないということは、幸福になるのも不幸になるのも自分が決めることなのだ。自分が作ることなのだ。

上田学園の学生が「自分は目的がないと何もしたくないのだ」と言う。「何も目標がないと、前にすすめないのだ」とも言う。だから授業に出たくなくなったり、学校に行きたくなくなるのだと言う。でもそれは全く間違っている。

目的や目標は何のために持つのかというと、長い人生を何もなく生きるのはつらいからだ。何もなく生きるとは、何も感動しない、感激することがないということなのだ。感動のない人生。感激のない人生。こんな淋しい人生はない。

感動のないとか感激がないと言うと「俺はそんな凄いことはしなくていいんだ!」と必ず言う学生がいる。別に大きなことをしなければ、感動しないとか感激しないという考えは、間違っている。

感動も感激も小さな出来事、毎日の出来事に存在しているのだ。友達と一緒に美味しい物を食べて感激することも、大きな感激の一つだ。そのために友達と友達でいられる努力をし、一緒に美味しいものが食べられるようお小遣いを倹約したり、ちょっと頭を使って自分で作ったりと何らかの努力をしただろう。そんな小さな努力が大きな感激や感動に繋がるのだ。

生きるために稼がなければならない。稼ぐには働かなければならない。それも食べ続ける限り。即ち人生を終えるまでの長い時間だ。そんな長い時間をついやさなければいけないなら、同じ稼ぎ方でも楽しんでお金を稼いだほうが面白い。「こんな仕事は本当はしたくないんだ!」と言いながら365日、ため息をつきながら働くことを想像したら、悲しくなる。

そんなことにならないように、稼ぐ手段として何か好きなことを見つける。好きなことを見つけ実行するには、書いたり読んだり話したり考えをまとめたりしなければいけない。そのために好きか嫌いかに関係なく、最低限の基礎学習が必要なのだ。その基礎学習は努力でしか手に入らないのだ。毎日こつこつと繰り返すという努力でしか。

面白い人生。楽しい人生。学生達が願っている人生を手に入れるには、どれだけ感激したり、どれだけ感動したりしたかの回数が、どれだけたくさん自分の人生の中で持てたかで決まってしまうのだろう。だから努力をしなければ絶対楽しい人生も、面白い人生も、手には入らないのだ。

時間の使い方。ものの考え方。自分で工夫すること。そんなことを学んで欲しい。人生いつもいいときばかりではない。大変なときもある。好きなことの裏には同じ量だけ、嫌なこともしなければならない。興味のないこともしなければならない。楽しく生きる全ては“努力”してはじめて手に入れられるのだ。それも努力している過程では、一見“無意味”に思えたり、「努力の結果がこれ?」と言いたくなるようなことも起こりながら。

上田学園はいつも学生の好きなことだけをさせるのではなく、大変さをたくさんプレゼントし、何回も挫折を体験させていく学校だ。そしてそんな中から、場所にも時間にも条件にも相手にも関係なく、どんな状況にいても、どんな制約された条件の中にいても、その中でも自分の力で楽しみをみつけたり、楽しみを作ったりしながら、大変さも楽しく解消していく力を身に付け、どんなに挫折しても何回でも挫折から生還できる力のある人間に育てたいと考えている。

「成チェリン、広ポン、小高マン、大チャン、藤ちゃ、タッツー、佐々岡兄、荻チャン、卒業生の皆!大変でどうしていいか分からないときは、一番難しい、一番嫌なことを選択してごらん。そしてそれに一生懸命ぶつかっていく努力をしよう。きっと凄い大きな感動や感激を手にいれられると思うから。上田先生も頑張る。一番大変で一番やりたくないこと、君達に『授業はきちんと出席しなさい!』と注意したり『授業中眠たくなったら顔を洗う!』等と叱ったりしながら、君達が一日でも早く上田学園を踏み台にしてステップアップして次に行けるような丈夫で役に立つ踏み台になれるよう、今以上に努力していくからね。君達が毎日毎日私にくれる“頭痛”とう調味料入りの、楽しい感激や嬉しい感動に感謝しながら、毎日一生懸命努力するから、一緒に皆も頑張ろうね。そしていつか上田学園の先生達みたいに、『こんなに楽しいことを仕事としてやれて、おまけにたくさんお金をもらっているんだもの、申し訳ない気がする!』と言えるように、本当に頑張ろうね。努力しようね。感激や感動をたくさん味わえる人生を送るために、ね。」

 

 

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