●学園長のひとり言  

平成16年6月30日*

(毎週火曜日)

飛び年齢は不可能!

読売新聞の投稿欄に“今の子供たちに必要な「思春期」”というタイトルで小学校の先生が興味のある文を投稿していた。

先生のご意見では、今の子供達には生活の中から思春期が失われつつあるという。

背伸びをしたがる少女の心理を狙った情報が氾濫し、化粧品、洋服を販売する商売が横行し、それらを購入した少女たちは素直な目で物事を見つめ、美しいものに感動したり、悲しいことに涙したりする思春期の経験を通して、判断力や理性を身につけて大人になっていくそれを飛び越えて、表面的な大人の世界にあしを踏み入れ、大人になったつもりになり、幼稚な思考力を持った「大人感覚の子供」というアンバランスな人間に育ってしまい、普通の子供なら素直な喜怒哀楽の感情表現で解決してしまうような問題も、昨今問題になっている小学生などによる殺傷事件のような最悪の方法で解決しようとする要因になっているのではないかという。そして先生は「社会はもっと子供を守る生活環境に配慮し、子供達に健全な思春期を経験させるべきだろう」と文を結んでいた。

私も先生に同感だ。先生が書いておられるように今の子供たちには、大人になるためにしっかりと年齢を積み重ねていないのでは、と思わされる節が多々あり、それが原因と思えることで大切な時間が無駄に過ぎてしまうことが多いように思う。

子供の問題は、家庭生活と学校生活の上におこることなのに、学校生活、それも学校での成績さえよければ“問題のない子”とされ、家庭内での問題が見逃されてしまっている。

そんな条件の中、実体験のない、実行動の伴わない、大人になったつもりの“言葉”だけが氾濫し、魂の入らない言葉だけがひとり歩きを始め、その結果「言っていることと、やっていることが違う!」と言葉の“約束事”を期待する大人たちを幻滅させ、「何故そんなに厳しく俺を批判するのかよ?」と大人たちの反応が理解出来ないエセ大人言葉を使った年齢以下の幼い感覚を持った子供達が苦しむ。

どんなに文明が発達しても、1年間の365日分と同じ内容のことを10日で体験することは不可能だ。365日、毎日毎日予想もつかないような色々な人たちに出会い、色々な出来事に出会い、色々考えさせられ、気付かされ、その中から学び、学ばされ、成長するからだ。

生まれたての赤ちゃんが「おはよう!」と言い、他の人とコミュニケーションをとることは絶対ありえない。生まれたての赤ちゃんが、お乳の代わりにステーキを“食べた”などということは、聞いたことがない。一つ一つ段階を経てそうなるのだ。

成長するということは、心・身体・頭がバランスよく成長することを指しているのに、頭即ち、知識それも年齢以上の高度な知識が、色々なものを通して詰め込まされているのが現代だ。それを“良し”とした人間が年齢以上のことを子供達に無意識に要求している。

頭は胃袋のようなものなのだろう。小さい胃袋も毎日毎日食物を詰め込んでいるうちに、容積だけが大きくなるように、頭もある一定量は詰め込めば詰め込める。しかし、頭に入った知識をきちんと咀嚼させる、即ち色々な体験を通して本当の意味を理解させる。体験できない範囲のことは、体験している人を見たり、話を聞いたり、想像する力とで消化できる。消化してから頭に戻さなければ“知恵”には成長しないのだろう。

知識の便秘状態は、頭デッカチという肥満になるだけだ。行動を伴わない、体験を伴わない年齢の“飛び年齢”は、体脂肪の数値をあげるだけあげている状態と同じで、表面的にはなんら異常があるとは見えないだけに、恐ろしい結果を生むことになるのだろう。神戸の事件だろうが、長崎の事件だろうが、若年者が起こした大きな事件、必ずと言って良いほど「どうしてこんな事件を起こしたか分かりません。勉強も良く出来るし、本当に普通の良い子供でした」と関係者が証言しているように。

子供を健康な子供にしなければ、いけない。子供を健全な子供にしなければ、いけない。それには遅いということは全くない。今からでいいのだ。一から出直して年齢にあった方法で、基本的なことから分からせる。やってみせる。実践してみせる。

やっていいこと、悪いこと。やらなくていいこと、やらなければいけないこと。恨まれてもいい。厳しく、しっかり教え直そう。そして実際の年齢が20歳であっても、飛び年齢させた年齢に戻り、その年齢に見合った愛情の示し方で徹底的に可愛がり直そう。

子供を可愛がり、心配するあまり、例え英才教育とまでいかなくても、年齢を飛び越えた教育で知識を詰め込み、大人のような言葉で大人のような意見を言う子供を「我が家の子供は、感性が豊かで、天才かもしれない」と誇りに思い、楽しませてもらった分、辛くても、悲しくても、もう一度原点に戻ってしっかり子供時代を経験させよう。

人間は一年、一年、年齢に見合った成長を遂げるように生まれている。それを大人の都合で、早く一人でトイレに行かれるように、早く一人でごはんが食べられるように、早く一人で一人遊びが出来るように、早く一人で学校に行かれるように、一日でも早く良い学校に行けるように、一日でも早く良い生活、良い人生が送れる目処がつくようにと、「早く!早く!早く!」と、自然の摂理を無視し、大人の都合に合わせて子供の成長に拍車をかけて来た大人たち。

1日が24時間。1年が365日。世界中どこへ行ってもこのことは不変であり、その中で自分たちが体験した子供時代や青春時代。どの時代も一つ一つと階段をのぼりながら過ごし、そして大人になったことも忘れ、“自分の時間が欲しい”“自分の仕事がしたい”“自分らしく生きたい”と、自分の置かれている立場や条件を楽しまず、自分の立場を無視し、条件を無視し、自分のことを優先するあまり、早く早くと子供達のお尻を叩き続けた今までを反省し、短縮させた色々な時代をしっかり子供達に返すことを、大人は考えたい。

そのためにも、商人道を忘れ、自分たちで自分たちの首を絞め続けている人たちの言葉に踊らされることなく、一歩、一歩、一年、一年、子供達の一人一人が持っているテンポで、しっかり成長するように彼らと真正面に付き合っていきたいものだ。それが今大人に課せられた義務であり、大人という立場にいる人間の責任なのだと、私は思う。

 

 

バックナンバーはこちらからどうぞ