●学園長のひとり言  

平成16年7月8日*

(毎週火曜日)

心の夏休み

日曜日の午後、上田学園に二人の小さなお客様が見えた。一人は前日に三歳の誕生日を迎えたオーストリア国籍の健太郎君。もう一人は一歳四ヶ月の健士朗君。二人のママは上田学園の母体であるレッツの日本語教師だった。

二人の小さなお客様は上田学園中をトコトコと走り回り、“日本語授業”の準備をしていた成チェリンの方を時々気にして眺めながら、でもモーツアルトも真っ青になると思われるピアノ演奏をしてみせたり、書類が入っている引き出しと一生懸命格闘したり、色々楽しみを見つけて忙しそうに動き回っていた。そして元日本語教師の二人のママたちは、ここ数年で親離れして行くから、今のうちしっかりしつけをしながら、たくさん可愛がって欲しいという私の言葉に、「わかってはいるんですが、でもあせるんですよね。自分の時間を全部とられてしまうし、専業主婦でいいのかと思って…」とママさん談義をしていた。

子供を育てるということは、大変だと思う。100%親を必要とする年齢の子供達のために、あらゆることを子供の状態、子供の時間に合わせて設定しなければならず、おまけに動けば動くほど子供のエネルギーが倍増しているとでもいうように “成長”という強烈なエネルギーに、親達のエネルギーが全部吸い取らエネルギー不足気味に親達がなっているからだ。

親の年齢はまだまだ若い。物事に意欲をもち、色々なことをやりたい年齢だ。おまけに「制約がありすぎ」とか、「条件が日本は悪い」と言われながらも時代が変わり、現代は色々な選択肢があり、色々な生き方が可能になっている。それだけに、専業主婦や子育てだけに専念することを選択するということは「正しくない」、「空しい」、「人生を無駄にしている」と思えてしまうのだろう。

子供が親を必要とするのは、ほんの五年から長くて十年だ。その間に親の義務として、子供にやっていいこと、悪いこと。やらなければいけないこと、やらなくてもいいことなど等、自分の家のルールや子供社会にデビューするための社会との付き合い方、すなわちマナーをしっかり教えこまなければならない。

そこからは、親がどう社会と向き合って生きているか。両親がどうお互いを大切にしあっているかなどを実践してみせることで、子供達は遠くから親を観察し、真似をしていく。そのときは、親がベッタリと子供のスケジュールに合わせ、親の時間を全部子供との付き合いに消費して、ああしろこうしろと言うよりも、ほどよく取られた子供との距離が、数倍も実のある教育につながっていくことだろう。その結果、親から離れないが、でも親をしばることもなく、上手に無理なく親離れの準備が完了していき、そして親も自然に子離れし、子供ときちっと対応し親としてやるべきことをした分だけ、親の時間が確実に開放され、時間が親のところに戻ってくるだろう。

それだけに、親がいなくては生きていかれない幼い時代の数年間を、親がどう子供と付き合うかで子供の人生が決まり、親が“親業”から無事卒業できるか、留年して十年、十五年と“苦労”という名前の“付録つき親業”が続くかの分かれ道になってしまうように思う。

お兄さん格の健太郎君が、何か面白いことをみつけては一生懸命取り組む様子に刺激されでもするかのように、小さな足で、一生懸命上田学園中を走りまわったり、小さな口をとんがらせて何かをジッと考えているようなそぶりの健士朗君に「お豆さんのような小さな頭で、いったい何を考えているの?」と、思わず聞きたくなった。抱きしめたくなるほど可愛いニ人。本当に子供たちは宝物だ。

そんな二人の小さなお客様。ママたちにとっては大変だろうとは想像できる。もっと時間が欲しいと考えることも、理解出来る。でもこんなに可愛い小さな彼ら。彼らの今は彼らの人生の基盤になるもの。ご飯を食べさせたり、お尻の世話をしたりというママ業と同時に、いろいろなことに興味をもち、何でもしたがる彼らにとって“ママ業”には“先生業”が含まれていると改めて痛感させられた。それもお人形のように可愛い子供達の様子を見ているだけでも心が和み、反省させられ、考えさせられるという“心の洗濯”をしながらの、“プレゼント付き先生業”だ。

親が子供を育てるという動物としての本能を遂行するということは、宇宙の理にかなっていることであり、子供に費やされる数年間とう時間は、親、特に母親にとって子育ての終わった後の人生を自分らしく生きるための“心の夏休み”のようなものだと思う。

そう、心の夏休み。子供が生まれ、無事生まれてきたことに感謝し、涙する。不慣れな子育てに戸惑い、緊張する。緊張から開放され、子育てを楽しみだす。それにも慣れ親しむと、色々な欲が出てくる「頭のいい子に育てたい」とか「医者にしたい」とか。しかし、現実と向き合わなければならなかったり、親の希望を子供に押し付けていいのかと悩んだりする。それでもそこに費やされる時間は、まるで授業のない、何も制約のない夏休みのような単純な生活の繰り返し。時間に追われないからこそ単純に感じる毎日。

ウキウキとした“子供を育てる”という楽しみから、毎日同じようにくりかえされる日常に、少々うんざりする。そんなウンザリから脱出して何かしたい、何かと戦って手ごたえのある自分だけのことをしたいと考え始める。まるで夏休みの後半の「もう夏休みにあきたから、そろそろ学校に行きたい」と思うように。

いくら時代が変わり、男女同権になっても男の人がどんなにあがいても、子供を生めないように、この世は絶対男女同等にはならないという現実。

ビール腹になっても、頭がうすくなっても、社会にもまれる年月が長くなれば長くなるほど仕事で身につけた自信は、年齢とともに男の人を素敵に成長させる。しかしそれと反比例するように、女性にしかできない仕事、子供を生むという大仕事をした女性達は、母親になり、年輪を重ねるとともに体の線が崩れ、しわが増え、老いていく自分とどう向き合い、一人の人間としてどう自分を生かしていくかという大きな課題を突きつけられ、人生の後半生をかけてその課題と戦わされる。その後半生を賭けて戦わされるエネルギーを蓄積するための、“心の夏休み”とでも呼べるような人生の充電期間が、子育ての五年から十年の間ではないだろうか。

親になるという選択権を自分の意思で自由に行使し、子供を生む。生むという自由を選択すると同時に発生した育てるという義務と、生むために美貌や若さが崩れるという事実を受け入れた時点で、長いようで短い充電期間が“心の夏休み”として、はじまるのだろう。

“心の夏休み”は休暇ではない。女性として生まれ、母となるまでの人生の前期を自分の親の教えをサンプルに頑張り、無事親業を卒業し、一人の女性に戻り後期の人生を過ごすための基礎をつくりながら、次のステップを踏み出していく充電期間であり、子育てを通して今まで考えたこともないような方法や、基準で物を判断しようとしたり、子育てをしなければ見えなかった自分の内面に気づかされたりしながら、次の時代を生きるトレーニング期間なのだろう。反面教師として子供達に教えられることが多いという事実が、それを示しているように思う。

母親業に疑問を持ったり、自分の時間がとれないと考えたり、自分の出来ないことを子供に押し付けたりして自分の不満を発散するのは空しいことだ。何故なら「お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に」と、昔話が証明するように、父親は労働大臣として、母親は文部科学大臣及び大蔵大臣として、世界を支え続けるための、次世代の子供達を父親と母親という職業分担で任されているのだ。誰が頼んだのでもない。自分で立候補して自分でその地位についたのだ。その責任は大きい。

どんな職種を選ぼうと、こんなに重要で大切な職種はない。「父親業」「母親業」は、私に言わせれば、NPO法人にしたいくらいだ。その担当した職種をきちんと遂行しているかどうかで、その会社の営業成績や会社の将来が決まるように、子供の将来、日本の将来、そして世界の将来が決まるのだ。

そんな重要な「親業」を何らかの理由で選択しなかったり、出来なかったりする人たちは、他の職業を選択するのだ、“ご近所業”や、“お隣業”等を。それをしながら、子供達のサポーターをさせてもらっているのだ。

父親業が、外の荒波で戦っている間に、角がとれ、生の情報収集で知識が増え、色々な場面の経験がそれを知恵に変えたりする中で、若さがなくなっても、それに反比例するように、素敵に年を重ねた人間として成長するように、母親業も、子育てを通して学んだ知識や知恵が素敵な女性になるチャンスを与えてくれているのだ。

人は人として生まれ、人間として育っていく上で絶対逃げられない責任をおわされる。その責任というものの一つが、自分以外の人を育てるということだろう。無意識で育てようと、意識して育てようと。

無意識で育てるということは、この世に人として存在することだ。隣の人であったり、仕事の相手だったり、街の一員であったり、通りすがりの人であったりという役目で。そのために人には誰にでも生きる意味があり、この世に存在する理由があるのだ。そしてもう一つは、意識して人を育てる親として。

母親業は大変だ。何が大変かというと父親業と違って、子供と過ごす毎日は一見単純で、誰にでも出来るように思えてしまうからだ。それに反して、家から一歩出たら何が起こり、どんな波が追いかけてくるかも分からないスリルにとんだ社会(?)で過ごす父親業の方が、何も努力しなくても楽しめていると思い込んでいる社会の風潮が、色々な誤解を生み、外で仕事をすれば面白く生きられると女性達を勘違いさせ、混乱させ、困惑させているからだ。

どちらが「良い」とはジャッジできない。何故なら、どちらも大変であり、どちらもいいからだ。その証拠に男性の寿命の方が女性よりも短いし、女性になりたい男性も多くなり、男性だか女性だか分からない人間が多くなっているのが、現代だ。

「会社をもちたい。独立したい」と、多くの男の人が言い、男の夢だともいう。即ち経営者になりたいのだ。経営者になるということは、お金を儲ける、自分のしたいように仕事をするということではあるが、そこには不可欠な「部下を育てる」という大きな仕事も存在する。母親業には母親業を選択した時点で、家庭という会社の経営者であり、未来の人材を育てるという大きな仕事を任されているのだ。

男女同権でも、男女同等ではない現実と、親業を選択した時点で起こる職業分担。責任はしっかり勤めたいと思う。それも学校の勉強の一番のネックが基礎基本の勉強である小学校の六年間が重要になってくるように、家庭の教育のネックは家庭の基礎基本の0歳から六歳までの六年間。それがきちんと出来ていれば、中学の三年間は義務教育の総仕上げとして、例えどんなことがあっても「知らないことを知る」という楽しさで自然に流れていくように、家庭教育も同じだ。十歳位までにきちんとしてあれば、どんなことがあっても子供にべったりする必要がなくなり、親思いの子供達のプレゼントとして、親業の責任もずっと軽くなっていくはずだ。

日曜日のお礼を兼ねて健太郎君のママが、「子供達が落ち着くまでの十数年間は、彼らと一緒にできる趣味の時間に当てることにします。社会に復帰するのはきっとその後になることでしょう。本来なら三十代というのは働きざかりなのでしょうが、今はあせらず、じっくりと過ごしたいと思います。」と、こんなメールを残して、健太郎君と生まれて十ヶ月目の“ももちゃん”を連れてウイーンに帰国して行った。

頑張れ頑張れ若いお母さん達。大蔵大臣でもあり、文部科学大臣でもあり、そして家庭という会社の社長として、忙しい時間をすごしながら、将来の自分の人生を楽しい人生にするための貯蓄を兼ねて“心の夏休み”をじっくり味わいながら、楽しく過ごして欲しい。そしていつか、“心の夏休み”という限定期間で考えたり、感じたり、味わった様々な体験が、夏休みを終え一人の女性として動き出し、そして年を重ねる自分の“素敵な思い出”という宝物に成長するように、頑張れ頑張れ若いお母さん達。応援しています。そして私は楽しんで“早苗小母ちゃん”をやらせて頂きます。

 

 

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