●学園長のひとり言  

平成16年7月15日*

(毎週火曜日)

100点を取れなかった人への反省文

可愛いお嬢さんが今日から上田学園で夏休みの間だけ勉強をする。
彼女は私立中学の1年生。小学校までは勉強ができる子供として勉強を楽しんだそうだが、生まれて初めての挫折を経験している。中学校の勉強が分からないという。特に英語と国語が全く分からないという。

苦労して週に5日は塾に通い、お勉強の出来るクラスでただ一人の女の子として頑張って中学受験の勉強をして来た彼女。お母様からご相談を受けたときは、暗記の授業から自分で問題を見つけ考える授業に替わってきた結果か、または勉強の出来る子供がしのぎをけずって集まった学校だけに、今までのように簡単に一番になれないからかとも、単純に考えていた。

彼女の持ってきた中間や期末のテスト問題を見、唖然とした。「これって、本当に中学1年生の問題?」と。

彼女のテストの問題は、「ルーペを用いてめしべの先端を観察する場合のルーペの使い方として最も適切なものはどれか。@・・・、Aルーペを眼に近づけ、ルーペとめしべとの距離を変えることによってピントを合わせるB・・・、C・・・、Dめしべと目の距離をできるだけ近づけ、その間にルーペをはさめば、ルーペの位置はどこでも構わない」などという、上田学園の学生達が思わず爆笑してしまったような珍解答(?)の中から選択するような、大学入学資格試験(大検)の総合理科の試験問題と比較しても、この中学1年生の理科の問題の方が比較できないほど難しいのだ。まるで大学入試にでも出そうなほどの。

そして、テスト問題と一緒に見せてくれた1枚の紙のタイトルを見て唖然としてしまった。「100点を取れなかった生徒へ」とか書いてあるのだ。そしてどうして自分が点数が取れなかったかの反省文を書かせ、それと一緒に間違ったところを3回ずつノートに書かせて提出させるようにしてあるのだ。

どんな問題をテストに出題してもいいと思う。勿論学校法人の認可を受けている学校は、文部科学省の決めたカリキュラムに則って勉強の内容がきまるのだろうが、どんな勉強の仕方をさせようと、それは各先生の自由なお考えに沿っていいと思う。でもなのだ、勉強をさせることは子供達を無意味に苦しませるためにするのではないはずだ。

私は思わず「同じ教師として恥ずかしい。ゴメンね!」と、ほんの2・3ヶ月前迄まだ小学生だった小さくて細くてまだまだアドケナサがたくさん残っている彼女に、謝ってしまった。

テストは生徒のためではない。先生のためだ。教師として自分がどれだけ生徒にきちんと教えられたか、理解出来るように説明できかたを確認し、反省し、そして、学生達にどう理解してもらえるかの工夫をするための資料なのだ。その結果、生徒が卒業するとき次のステップに行くための入試にチャレンジできる力がつくのだ。それを、生徒だけを責め100点とれない反省文を書かせる。生徒のために大切な上田学園の先生達であっても、もしこんなことが上田学園であったら、上田学園には“合わない”ということで辞めていただくだろう。

私には理解出来ない。平気でそんな反省文を書かせる教師たちを。そしてそれを許している学校長やそれを許している学校全体が。

彼女が間違えたテスト問題を一つ一つ全教科検証してみた。そして一番彼女が授業に出るのが辛かったと言い、点数も悪く、教師から「もっと勉強をするように」という注意が父兄に来たという2教科は、担当教師の教師としての技量不足。ケアレスにより学生が理解できなかった結果と分かるミスを、彼女はしていた。

今の学校は授業についていくため、或いはいい学校に入るため“塾”に行く生徒が多いし、またそれが普通のこととなっているとは聞いていた。それにしても「ひどい!」。先生達は自分の教師としての教える技術を磨くより、教師の教え方のまずさを、塾の先生にフォローしてもらって、その上にあぐらをかいているだけのようにしか思えない。教師として本当に恥ずかしい。

上田学園はフリースクールだ。フリースクールというと格が下のように思われがちだと学生達は時々嘆くが、そんなフルースクールの学生の方が教師としてのレベルは上だ。

上田学園では週に二回、外国人に日本語を教えている。教えた後、その日の授業の反省を兼ねて、毎回教え方について真剣に私に注意される。日本語の教師として私は学生達の先輩教師だ。だから学生というより、対等に仕事をしている日本語教師の先輩と後輩教師として叱責したり、反省を促すのだ。「俺はちゃんと教えているのに、学生が出来ないんです」なんて言う学生は、いない。

勿論学生達は日本語教師を生業にはしていない。しかし、学生達に言う「日本語教師を生業にするなら、隣りの小母さんやおじさんのように『日本の習慣です』などと答えたりしてはいけない。習慣になるにはなるだけの歴史的背景があるし、理由がある。それをしっかり調べ、どういう言い方をすれば学生達が学生達の日本語レベルで理解出来るか、工夫して教えてあげる。それがプロの仕事だ」と。

授業が理解できない、ついてこられない。そんな学生がいるということは、自分の教え方に何か欠陥があるのではないかと、まず自分の授業を反省すること。反省し、考え、調べ、工夫をする。それがどうしても出来なかったら、いつでも何でも質問すること。知っていることは全部教えるからと、学生達には言ってある。

出来ない学生がいてくれることは、自分の反省材料になり、努力するきっかけを作ってくれ、自分がもっとプロに近づけるのだ。それだけに、出来ない学生や勉強することに苦しんでいる学生は、教師の師匠だ。師匠の学生に感謝をしながら、大切にしていくことが“教師道”だと考えている。

上田学園の学生達はそれを実践している。彼らはプロの教師ではない。例え素人の教師でも持っている力を全部出し、力量不足を授業内容が分かるよう一生懸命努力し工夫することで、補おうとしている。その為に、彼らはお腹が痛くなるほど準備をしている。勿論プロの日本語教師に言わせたら“準備不足で、半人前の教師”と言われるかもしれないが、でも準備している彼らは真剣だ。

プロの教師たちが学生達に理解出来るように説明もせず、ポイントをきちんと抑えた授業もしないで「点数のとれない理由を自己反省しなさい!」などということが何の疑問も持たずに言えること自体、教師を生業にしている者として本当に恥ずかしいし、腹がたつ。教師は何様でもない、ただの人間だ。

中学生の彼女には、夏休みの二ヶ月で学ぶ楽しさと先生の話を聞いて理解出来るように、もう一度一から勉強をしなおし、一人で勉強が続けられるように勉強の仕方と、ポイントの見つけ方、抑え方を学んでもらいたいと考えている。そして、それ以上に傷ついて沈んでいる彼女の心を、彼女を暖かくふわっと包んで気持ち良く教えて下さる彼女を担当する先生や上田学園の学生達、上田学園に出入りする日本語の先生達とで暖かく見守りながら、2学期までに本来の彼女になれるように応援していきたいと考えている。同じ教師をしている者として、彼女に心から謝罪しながら。

教師とは本当に怖い存在だ。教師がほんの少し謙虚に子供達と向き合い工夫して教える努力をすることで、いくらでも勉強を楽しいと思い、学校に来ることを楽しむ子供達がたくさん出現すると思うのだが、そのほんの少しの時間をおしんだり、長い教師歴にあぐらをかいていることに気付かず、自分の教え方を再考することもなく押し付ける。その結果子供たちを不登校児にしてしまう。

不登校し、学校や先生達に不信感を持った子供達を元に戻すには、本当に多くの時間と多くのエネルギーが必要になる。まして不登校をした年月が長く、年齢も上がってくると、当然のように大人や社会に反抗する“反抗期”に入る。普通なら反抗期があることで「ああ、子供が当たり前に成長している」と喜べるサインになるのだが、それが喜べないほど“不登校+反抗期”の子供達に対応しようとすると、普通より数十倍の時間とエネルギーが必要になる。それも当の本人には謂れのない苦しみを科したまま。

教師を生業にしている、プロとしてやっていると自負出来る全ての教師にお願いしたい。もう一度自分のことをしっかり振り返り、反省をし、教師として何を本当に生徒にしなければいけないことなのかを、確認して欲しい。

どんなに大きなクラスの先生であっても、どんなに小さなクラスの先生であっても、教師のプロの私達なら、クラスの大小に関係なく、大きいクラスは大きいクラスなりに、小さいクラスは小さいクラスなりの工夫と教え方で、一人一人の子供を大切にし、どんなことがあっても点数のとれないことを反省させるような教師道から外れた教師として、己が学校に存在することは拒否して欲しいと願っている、大切な、大切な、大切な、子供達のために。

 

 

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