●学園長のひとり言

平成16年8月31日*

(毎週火曜日)

夏休みの、真ん中

「お先に失礼します! 裏から出ていいかしら?」自転車置き場に直結する裏口から帰りたい私は、一番最後まで残る荻チャンに声をかける。裏口のカギをかけてもらわなければならないし、すぐ出かけなければならない学生には、時々断られたりするからだ。
「いい・・・・ゃないん・・・・か?・・・・・」
「え? なあに? 裏から出てもいいかしら?」
「いい・・・・じゃ・・・ん・・・か?・・・どうでもいいよ!」
「よく聞こえないけれど、いいかしら?・・」

上田学園は夏休み。日本語教師養成コースのトレーニング。外国人に日本語を教えるクラス。そして中学生の英語の授業があるだけの静かな日々が過ぎていく。私は、普段出来ない仕事や、広げなければ出来ない書類の整理に追われる、夏休みモードのノンビリした気分の中で。とは言っても、午後になると学生達の誰か彼かが調べものや勉強やメールのチェック等でやってくる。その中の皆勤賞は荻チャだ。

月曜日から日曜日まで、かんかん照りだろうが雨だろうが、オートバイを走らせて学校にやってくる荻チャ。その荻チャとの会話はまるで難聴検査でもしてくれているのかと思うほど彼の言葉が聞き取れず「なあに?」を連発する。

何を話しても、ボソボソと小さい声で呟く。モノトーンのしゃべり方には愛嬌がない。目は笑っているのに。その度に思わず「荻チャ、早くガールフレンドが出来るといいね。ガールフレンドにはそんな愛嬌のない言い方は通らないもの。本当に愛嬌はないし、心がこもっていない!ドラマのように優しく心を込めて『♪先生ど〜うぞ〜!♪』と返事してくれないかな」とお願いする私に、照れくさそうに声を出さずに笑っている。そんな彼の表情に思わず吹き出してしまう。

日本語の先生達も「荻原さんに挨拶されたいわ!それが希望なの」と言うほど、本当に話をしない。挨拶しても、蚊が泣くような声で照れくさそうに顔を横に向けて返事をする。思わず「先生にご挨拶したの?」と幼稚園の先生のような事を言ってしまう私に「言いましたよ」とボソッと返事を返してくる。

「先生疲れちゃうでしょう。もう少し愛嬌よく言って欲しいですよね」と言いながら、彼の方を見ると、居ても立っても居られないような様子に、思わず私たちの顔の筋肉もゆるみ、笑いがはじける。本人も思わず苦笑する。そんな彼も、大切なときに言う一言二言は厳しいけれど的を得ていて、誰もグーの音も出せない。そして彼は不言実行。なんでもすぐに行動に移し、黙々と取り組む。過去の上田学園にはいなかったタイプの面白い学生だ。

上田学園は不思議な学校だ。色々な方が色々な方法で“グットタイミング”に手を差し伸べて下さったり、暖かい言葉をかけて応援してくださる。

そんな暖かい言葉に学生達は励まされたり、色々な理由を見つけて贈ってくださる心づくしの贈り物がラテン語の辞書になったり、宿題で居残る時の学生達のお腹に収まったり、自炊生活の食材になったりする。そして家庭料理に飢えてきたころ、「主人がゴルフでいないから、食事にいらっしゃい」と全員の学生を卒業生の親が家庭料理に招待して下さる。

物だけではない。人との出会いもそうだ。こんな先生に授業を持って頂きたいと考えていると、思いがけないところでドンピシャリの方に出会う。「学生たちにこんな経験をさせたいのだけれど」とお願いしていると「丁度先生にお話しようと思っていました」とそれに合うような企画が入ってくる。

「今の上田学園の学生達は、この部分が弱いな。この弱い部分を補うような考えを持った学生が入学して来て、影響を与えてくれないかな?」と考えていると、今までと違うキャラクターの学生がグッドタイミングで入学して来る。そんな彼らが上田学園や学生達の学生生活の節目節目に大きな反省材料を提供してくれたり、大きな刺激を与えてくれたりする。他の学生達もただ刺激を受けるだけではなく、しっかり大きな影響を与えて、共に育つ。

今の荻チャがそんな存在なのだろう。折角入学した大学を本人の言葉を借りれば、「こりゃ駄目だ!」と1・2ヶ月で見限り、退学。そして3年間宅配便の会社で働き、貯金もし、頑張ったそうだ。いつでも事後報告か、全く報告をしない彼のことを心配している彼のお母さんも「それだけは感心しました」と言うほどしっかり働いたようだ。

外で仕事をした経験は大きい。行動が現実的で、予想を立てて「無理です」という前に、それに取り組もうとする。一番苦手で、ずっと避けてきた勉強。どう取り組んでいいか分からないのだと言いながら、あきらめずに夜遅くまで勉強して帰る。

オープンクラスのパンフレット配りも、他の学生が10枚も配れていないときにすでに、割り当て分のパンプレットは全部配り終えて、足早に学園に戻ってくる。

短時間でどうやって全部配り終えたのか興味を持ち質問する私に、「オープンクラスに参加してくれそうなのは、内容から言って若い女子大生だと思ったから、一人か二人で真面目に歩いていて、参加してくれそうな女子大生にターゲットを絞って、断られないようなタイミングで渡しただけです。他の学生は相手構わずただ配っているから、時間がかかるんじゃないんですか。受け取ってもらえないときも結構あるし」と、淡々と説明してくれた。

草取りもパーティーの片付けも、普段から無意識に「くたびれた!」を挨拶代わりのように連発する学生達の中で、黙々とやっていた。それも一番大変な仕事に一言も愚痴ることなく。「こんなに暑い中、ありがとう!愚痴りたくなるほど暑いのに、一言も愚痴らずよくやってくれて感謝している」という私の言葉に、「全員が暑さでへたばっているのに、そんなところに『くたびれた!』なんて言ったら、皆がもっとくたびれますから」とボソッと言いながら。

寡黙で返事も省エネタイプの彼。日本語を教えるのは大丈夫かと心配したが、結構ちゃんと教えていた、時々脱線はするが。そしてそんな彼を指導したのがナルチェリンだ。

2人は“頑固友達”。お互いにお互いが気になり、それでいて二人とも頑固で人の言うことはなかなか素直に受け付けない。そんな2人の頑固さは微妙に違う。一人は頑固で、必ず言い訳をする。そしてノンビリしている。一人は頑固だが絶対言い訳はしない。が、「いいじゃないですか」の一言を口癖のようにボソッと言い、頭の回転と行動が口より早く、そのギャップにイライラする。

「どうしても分からないところは、私に直接質問してね」という私の言葉を受けて、日本語教師歴3年目の成チェリンが日本語歴ゼロの荻チャに日本語の教え方を教える。

「俺は一生懸命教えているし、一生懸命説明するのに、絶対俺の言うことを聞かないで勝手に自己流でやって、生徒を混乱させています」と訴えるナルチェリン。「どこかで聞いた台詞だけど・・・、どこだったかな・・?」と考えていた私は思わず「ナルチェリンと同じだ!私に注意されていたことをそのまま言っている。二人は良く似ているのね。反面教師の仲ね。荻チャが入学してくれてよかったね」と。

不満げにほっぺたを膨らませながら「俺は全く違います、彼とは違います!」と、小学生のように頑固に言い張る可愛い成チェリンに、思わず笑い出してしまった私に釣られて他の学生達も「2人は本当に似ているよな」と言いながら吹き出していた。

大ちゃんやタッツーを気にかけ、授業の進み具合を心配し、宿題を遅くまでやっている荻チャは結構忙しい。しかし不言実行の彼の鋭い意見に、皆が納得をし始めている。彼から大きな影響を受けるだろうという思いと、彼が上田学園に存在してくれることのラッキーさを皆が認め始めている「学生が増えるということはいいことですね」と言いながら。成チェリンまでも言葉の端々で脱帽しているのがわかる。まだ少しの抵抗を残しながらも。

上田学園は本当に“生物(なまもの)の学校”だ。生徒も先生も毎日を生きている。たった数日でも、数日経ったという事実で、学生達が変化していることが分かる。「研修生達はよくやってくれました。お客様の評判が大変よかったです」というコメントを頂戴して研修を終えた今、学生達がまた少し変わってきた。

学生達は動いている。成長している。そして今年の夏休みは去年の夏休みとは同じではない。今年の夏休みは今ここにあるのだ。詳しく説明することが出来る的確な言葉はないが、昨年と違う夏休みが確実に流れていく。学生達がお互いに影響し合いながら彼ら自身で作っている夏休みが。

今日も朝からヒロポンが顔を出し、オッちゃんが顔をだし、そしてそろそろ荻チャンがヌーっと顔を出す頃だ。そんなことを考えながら何となく夏休みモードの私はノンビリモード。「中学生の英語クラスも予想以上にいい結果を残しながら今週で仕上がるし・・・、そろそろ上田学園の先生方にご連絡して、秋学期の授業スケジュール調整を始めなければ・・・」と、心の中で考えながら。

来週は賑やかになるだろう。同窓会に出席するために大阪に帰った成チェリンがお友達を案内して戻ってくる。ビザの書き換えのために英国から一時帰国したシーシーも皆に会いに来る。上田学園の暑い夏休みはマダマダ続く。毎日毎日誰からか何かを学びながら、ホンの少しずつ学生達は自分の未来に磨きをかけている、それも切磋琢磨しながら。


 

 

 

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