●学園長のひとり言
 
平成16年10月19日*

(毎週1回)

はじめから終わりまで!

日曜日、「あなたの手で冬のソナタの主題歌を訳してみませんか」という題で上田学園のオープンクラスがあった。先回のオープンクラスの反省も含め、どうゆう手順でオープンクラスをするのか、学生たちに聞いてみた。

2時からオープンクラスが始るので、1時には全員集まって準備をすることになっていたはずだったが、昼食に出て行った学生たちは時間になっても戻って来なかった。そして時間通りに来て準備を始めていたオッちゃんが私の質問に「いや、え?・・・・考えていませんでした」と言って固まった。

今日のオープンクラス担当者の先生紹介はどうしようか。オープンクラス後の茶話会のお菓子はどうしようか等など、オッちゃんと打ち合わせをしている中、食事の後、そのまま買物に行ったというナルチェリンを残して戻ってきたヒロポンたち。オダカマンと楽しげに会話を始めたヒロポンが固まった、オープンクラスの司会を頼まれたからだ。

「お仕事は哲学者?映画監督?それとも牧師?」と質問したくなるような、何とも知的な雰囲気のオダカマン。上下を黒で決め、背筋をビシット伸ばして座っているオダカマンの雰囲気に圧倒されてでもいるかのように、オダカマンの横でヒロポンが「あの・・、あの・・、」と焦っていた。

最近の上田学園は誰かが色々なことに気が付いて率先して何でもやってくれるようにはなり、それにつられて他の学生たちもやるようになっている。しかし上田学園の生徒達も、今を生きる学生。色々な場面でマニアル人間に仕立てられてきた教育の片鱗が見え隠れする。自分の頭で考え、そして自分から率先して何かをやるのが、苦手だ。その証拠にマニュアルがあると、どんなに嫌々やっても、それなりのいい結果までは持っていけている。

が、なのだ。やはり上田学園の学生になった以上、失敗することを恐れず、率先して何でもチャレンジして欲しいし、またチャレンジするためにも自分達が何に“弱いか”を把握してそれを補うようにスケジュールをたて、実践するといいと考えている。それも「何のためにこれをするのか?」をきちんと理解しながら。

生きると言うことは、自分の責任で自分の人生を作っていくことだ。楽しい人生にするのか、苦しい人生にするのかはその人の生き方だ。確かに「ラッキーな人ね」とか「アンラッキーな人ね、どうしてかしら?」と思わず言いたくなるような気の毒な方もいる。そんな中でも、ポジティブに物事を捉え、感謝して楽しそうに生きている人もいる。良い友人達にかこまれ、彼らから元気のエネルギーをもらいながら、未来を信じて一生懸命生きている人もいる。考え方一つで自分の人生は変わっていくはずだ、例えどんな困難な中でも。

どんなに大切に思っても親御さん達と同じで、教師も学生達の側にずっといられるわけではない。それだけに上田学園にいる間に失敗するという経験をたくさんして、その中からどうやってサバイバルして行くのかを学んで欲しい。何しろ自分の人生は初めから終わりまで自分のものであり、自分しか責任がとれないし、失敗しても自分で這い上がって前進するしかないからだ。

現代の風潮は、責任をとりたくないためか、はたまた自分が辛い思いをしたくないためか「可哀想!」を連発して、一見物分りのいい人間を演じている大人や親が多い。そんな彼らに囲まれて育った子供たちの世界も、言葉の語尾をあいまいにして会話をすることで、自分が責任追及されない平坦な人間関係や、「いいんじゃないですか」と他人に同調する風を装いながら、実際は無関心であったりと、自分以外の人間に感心を持たなくてもいいような振る舞いをする風潮がある。

責任をとることは、一見大変そうだが、責任をとらないでいいことばかりが続くと、きっと人生が無色になり、生きるという意味のアイデンティティーが持てなくなるのではないだろうか。そのために、人間がオギャーと生まれたときから、毎日少しずつ成長に合わせて、規則であったり、友達としてであったり、先輩としてであったり、色々な場面で色々な責任を持たされ、それが親になり年寄りになり人生の先輩になりと、色々な形で最後の最後まで責任を負わされていくのではないのだろうか。まるでそれが、生きる価値を持ち続け、最後の最後まで責任を果たすことで、人生を燃焼出来るようにとでもいうように。

責任をとるということは、まず自分が生きていること。生きて行くこと。それらに対する尊敬の念。自分のことを心から愛し、尊敬し、敬う。それが出来て始めて、自分の人生に対し責任が持てることに感謝出来るのではないだろうか。それがあるから、自分以外の人生をも大切にしようとする気持ちが自然に育まれ、他人の時間をも自分の時間のように大切に扱い、家族も含め、自分以外の人生に対して真摯に対応するようになるのではないだろうか。

上田学園では、ある意味“納得のいく責任のとり方”を学んでいると言っても過言ではない。即ち、いかに正確な情報を集められるか。その集めた情報を正確に理解し、それが自分にとって必要な情報か、不必要な情報かを正確に分析する力と、不必要な情報を捨てることの出来る力。そんな力を育むことで、自分で必要と判断し、その判断に沿ってやったことで失敗しても、そこから立ち直ったときは、きっと何かを学んで立ち直り、それが原動力になって自分の“今”に責任を持ちながら、どんな不安をも押しのけてなんとか前進をし続けて行けると、考えるからだ。

自分の人生に責任をとるということは、大変なようで大変なことではないはずだ。人間社会では、学歴や生活力に関係なく、脈々と続けられていたことであり、今も続けられていることだからだ。誰も15歳の学生に人生経験豊かで、社会での立場も異なる60歳の人と同じ責任をとれとは言っていないのだ。出来ることから、自分の分にあった責任からとっていけばいいだけなのだ。それを続けていくことで、大きな責任も自然にとれるようになるのだ。

そのために、自分の生きている環境の中で何気なく繰り返される毎日の生活を大切にし、その生活を作っているあらゆることから目をそらしたり、逃げたりせず、毎日のどんな出来事にもしっかりチャレンジするという姿勢が重要になってくるだろう。

「大丈夫!そんなに緊張しなくても。ヒロポンが考えたようにやってみたらいいと思うから。大丈夫!絶対大丈夫だから!失敗しても死にはしないわよ」と、大丈夫大丈夫を私に連呼されたヒロポン。そんな私の言葉に背を向けながらも「ご挨拶の言葉」の文章作りに没頭していたが、お客様が揃ったところで皆に応援されながら一生懸命学校の紹介と先生の紹介を始め、無事責任を果たしていた。

そう、頑張ればヒロポンのように責任を果たすことが出来るのだ。嫌だと内心思ってごねようと思っても、上田学園紅一点のクラスメート、ワタちゃんに「やってみれば?」と軽く言われてしまうと、上田先生も女性の1人だという事実の認識不足を露見していることにも気づかないで「俺、女性に優しい男なんだよね」とか言いながら、やってしまうのだ。

果たした責任は、それがどんな経緯でやったとしても、自分の責任を一つ果たしたことになるし、果たした責任がどんなに小さな責任であったとしても、その果たした責任は全部自分のものになり、次に責任を果たすときの大きな原動力として蓄積され、成長し、自分の人生の始めから終わりまで、全て自分のものとして生きるための、大きな支えとして成長していくのだ。

「上田学園の学生たち、自分の人生を本当に自分のものとして生きるために、毎日繰り返されるささいな出来事から逃げず、毎日の学校生活の中でもっともっと失敗を繰り返しながら、その失敗を失敗として終わらせない努力をして行こう。その努力が21世紀を生きる君達の知恵袋として成長し、君達の大切な宝物になると思うから」

 

 

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