●学園長のひとり言
 
平成16年10月27日*

(毎週1回)

保証のある人生?

「上田先生、ちょっと調子が悪いのかしら。なんだか目が回る」と言いながら野原先生の授業でリサーチした「三鷹事件」の映像にナレーションを入れていた学生達に声をかけた。「あら?・・・これ地震じゃないですか?」という野原先生の言葉。思わず玄関のドアをあけに行く。「先生、怖いんですか?」と学生が声をかけてくる。怖いもあるが、学生達に何かあっては困るから、逃げ道だけは確保しておかなければと、考える前に体が入り口に向かって動くのだ。

自分の欲望のために大切な人を平気で殺めたり、全く関係ない人たちにうっぷんばらしをしたり、と全く予想もしない事件が年齢や性別に関係なく多発している。そして「日本人はどうなっちゃったの?」と心配するほど、悲しいニュースが日本中を駆け巡り、その回数が多くなるにつけ「又嫌な事件が起きちゃったわね」と感想を述べ、人災が多発する中に身を置くことに不感症になり始めている自分に当惑する。そんな中、立て続けに上陸した台風と、それに関連して起きる土砂災害の情報に「またなの?」という思いで耳を傾けていた。そして今、新潟の方々は本当に大きな天災にみまわれている。

確かに今年は天災の当たり年。熱い日が続き、何度も上陸する台風。そして地震。自然に対して人間の力はなんと小さいことか。被災者の様子がテレビに映し出される度に、被災地の模様が語られるたびに、無力な自分達のことを考えてしまう「何かできないだろうか?」と。そして腹もたってくる。この大変なときに被災者を食い物にする「俺おれサギ」を働く人間がいることに。

長い人生の間に、人間はどんな境遇やどんな大変なことが身に降りかかるかもしれない。建てて1・2年もしない豪邸が土砂に埋まったり、倒壊していたりと、その様子に心が痛むと同時に、安全とは何だろう、保険とは何だろう、お金とは何だろう、幸福とは、家族とは、と色々な疑問が頭を横切っていく。そして“この世で生きる”ということは、100%安全ということが言い切れない世界に生きることであることに気付き、ぞっとする。そしてそんな自分に対して「人ごとだからこんな暢気なことを考えていられるのだ」という事実に気付き、被災者やその関係者の方々に申し訳ない気がして、誰も知らないとはいえ、なんだか穴があったら入りたい気分になり、落ち込む。

今、保険会社は台風や地震などの災害によることが原因の保険支払いが多くて大変だという。来年から保険料が値上がりするともいう。そして全壊しなければ保険料がおりないという。それなら保険をかけていた人たちも安心ではないし、保険をかけていた人たちでも大変だろう。

全壊や全焼しなければおりない地震保険や火災保険であっても、「何かあったら困るけれど一応保険がかけてあるから」と安心したくなる気持ちは、何なのだろうか。

教育も同じだ。時代が変化し、今までにない流れが押し寄せていることを知っていながらまだ大学卒の資格にこだわり、その資格があたかも幸福を手にいれるキップでもあるかのように、また人生を成功させるための保証書のように、何かが起きたときのガードにしようとするのは何故なのだろうか、と考えてしまう。

家が壊れ、亡くなった方、怪我をなさった方の人数が毎日のように増えるのを見るにつけ、暖かい部屋で美味しい食事をしながら「お気の毒にね」と連発していても、それは単なる言葉の羅列。同じ日本の中の出来事が本当に遠くに感じられる。これ以上災害評論家になるまいと自分に言いながら「お母さん、何か冬物でも送らせいただこうよね」と話し合っている。

今回の地震で改めて考えさせられた、人生に100%の保証はないということを。
親が保証して高学歴をつけさせても、学力や基本的生活習慣がなく他人と意志の疎通が出来なければ高学歴という履歴は、社会で役にたたない。

好きなことさえ見つかれば「やる気が出てくる」と保証しても、好きなことの前に好きなことをみつけたり、何かに興味を持つきっかけになるような情報。そのための読み書きの基礎・基本が出来ていなければ、情報がなかなか入ってこず好きなことを探す前に、安易に目の前のことを選択し好きだと誤解し、そしてつぶれていく。

人間は弱い。いくら人生に保証はないと言っても「これさえあれば何とか生きていかれる」という何かが欲しい。でもそんな保証を保証出来る保証はどこにもない。何しろ明日という日は世界中の人が始めて体験する日であり、その日に起こる出来事は、似たような経験が過去にあったとしても初めての出来事である。その未体験のことを保証することは、誰にも出来ない。

それでも「ある」と言えるとしたら、それは「自分に対する自分の考え」と、考えたり感じたりするための「訓練」。その訓練の結果が、保証ではないがこれからの人生の大きな味方になり、どんな人生になってもその人生を支えてくれるだろう。

体験したこと、学んだこと、身に付けたことはどんな天災にあっても取り上げられることはないし、消えることもない。それだけは保証出来る。

自然の前では人間の力はあまりにも小さい。しかし、どんなに小さな力でも皆で強力すれば自然の大きさには適わないが、それでも自然とどう対応したらいいかの知恵は生まれてくるだろう。その知恵を大切にしながら生きていくことが天災に対応出来る手段だろう。

学生達も同じだ。自分の未来はあまりにも大きい。自分の未来に対し自分の今はとても小さい。でもその小さい今を大切にしながら自分の未来に進んでいくしか、いい方法はないだろう。何しろ“保証のある人生”は皆無なのだから。だから出来ることからしよう。それもコツコツと。今日を飛び越して明日は来ないのだから、明日に向けて。そして明日の向こうの自分の未来に向けて。

 

 

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