●学園長のひとり言
 
平成16年11月03日*

(毎週1回)

 自分、探し?

「自分さがしに行く!」と言ってイラクに行き、人質になっていた若者が残念な結果になって発見された。

死者に鞭打つつもりは、全くない。でも残念でしかたがない。「未来がたくさんあったのに、どうして?」という思いが、正直ある。そして御家族のことを思うと、やりきれない。同時に私の中に“恐れ”がある。上田学園の学生も、この若者のようなことをやりかねないと思えるからだ。他人事とは思えないからだ。

今、学校を嫌い、学校に在籍している意味が見出せず中退したり、不登校をしたりする学生たちが当たり前のように増え続けている。そんな彼らに戸惑っていた親や大人たちもいつしか彼らを理解したいと願い、好きなことをみつけたらきっと動き出すだろう、何かをやりだすだろう、という思いに一縷の望みを託し、「好きなことを見つけなさい!」と応援するようになった。それも決め付けるのではなく自主性を重んじながら、と。

そんな環境で育った学生たちの中で「自分探しをする」という言葉が、色々なところで飛び交っている。事実、私もパンフレットに「自分探しをしよう」という見出しをつけた。でも自分が何もない人間に自分は探せないのではと、考えるようになった。特に今主流になっている“自分探し”は、自分の内面と深く対面し考えるのではなく、他人の中に自分を見つけ、比較しようとするもので、他人と違うということで、自分探しをした気になるという誤解をしているように思えて仕方がない。

個性が尊重されるようになり、同じ格好をすることや、同じことをすることは“格好悪い”と言い、人と同じことはしたがらない風潮があり、そのために、何か問題が起きると「人と同じことをしたくないから」とか「個性的に生きたいから」と言い、その言葉に皆が納得しているところがある。しかし個性とは皆と同じことが出来、その同じことをしていても、理由は分からないが、何だかその人から目が離せないと思えるほど目を引く。それが“個性”というものではないだろうか。

普通の人たちが出来ることが出来ないで、人と違うことをしているのは、個性とは呼べない。それはまるで「私は美人だから、人が私から目が離せないんです」とでも言いたげに、お尻丸出しの超ミニスカートをはいて歩いている女の子がいるが、普通の洋服になったら誰も見向きもしてくれないことに気付いていないのと、同じだ。

「自分探し」という言葉は、とてもステキに聞こえる。でも子供達に言いたい。自分探しをするために、色々なことをやって「自分のやりたい事をみつける」という考えでいて欲しいことを。

誰も教えてくれないが、好きな事を見つけるには、好きなことか嫌いなことかを見分ける力がないと、本当に好きか嫌いかは理解できないということを。そのことに気付いてもらいたいと思う。そして、好きなことか嫌いなことかを見分ける力の中には、人の話を素直に聞き、判断する力。好きか嫌いか分かるまで、継続する力。分かった時点でそれに対し、どう対処したらいいのかを分析し、考え、判断し、実行する力。そんな力も含まれていることを。

現代は言葉だけが一人歩きをしている。
“言葉”が本来持っている役割。お互いを理解するための道具。その役割が全く機能しない状態のまま、言葉だけが一人歩きしている。単にその場限りの言葉が。

「男は黙って〜ビール」というコマーシャルが数年前にあった。
日本語教師の私は、言葉と一緒に言葉を支える日本文化も教えなければいけない。日本文化。即ち日本人の考え方を。そんなとき、このコマーシャルを使って外国でもこんなキャッチコピーが生まれる土壌があるかなど、皆で話あった。そして私は「昔の日本は『言葉(詞)』は『言霊』といい、魂が宿っているのだから、余計なことをペチャクチャ話すものではないと言い、魂が宿る言葉を一旦口から出したら、その言葉に責任を持たなければいけないと考え、そのため口数の少ないことを“善し”としていたが、その流れが、こんなコマーシャルになったのではないかしら」等という話をし、「女はペチャクチャ喋って『姦しい!』と言われ、そういうときの漢字は、どういうわけか“女”という字がつきます」などと、説明していた。

今は、責任をとるのが「恐い」という思いがあるのか、または「人間関係が気まずくならないように」という配慮以上の、気まずくなったときのことに恐れがあるのか、人と深く付き合うことを極力さけ、その場限りに平穏に過ごせるように、深い意味のない優しい感じのする言葉で、その場が難なく過ぎていけるようにすることを心がけ、それで何とか他人とのバランスをとるような処世術を身につけ、問題を切り抜けているように思う。その結果、言葉も「言霊」などという考えは全く消え、さらに相手を理解したり、信頼するための道具でもなくなり、その場限りの、意味のないバックグランドミュージック程度のものになってしまっているように思われる。

11月1日月曜日の日経新聞に、興味のある記事が記載されていた。
「低下する社員の『聞く力』」とうタイトルで、コミュニケーション能力の開発を得意とする話し方研究所に「同じ職場にいるのに話が通じない」という相談が増えているという。「この見積もりをしあげてくれ」「はい」と確かに返事が返ってきたのに、頼んだ部下から一向に頼んだものをもってこないという。そして日本人は「コミュニケーション下手」と言われているけれど、本当は人の話を聞く能力が低下しているのではないかと言う。

私はこの記事を読んで「上田学園の学生たちみたい!」と可笑しくなった。そして学生たちの問題に触れるたびに感じていた「世の中益々日本語の通訳者が必要になるのでは?」という思いが強くなっている。日本語を一般共通言語の日本語に通訳する通訳者が。それも、通訳者は外国人という時代が近いうちに来るのではと、本気で考えてしまうほど。

上田学園の学生を通して学んだ、日本語を共通日本語に問題の会話を通訳してみると、「この見積もりをしあげてくれ」「はい」の「はい」は、「はい、わかりました。この場の雰囲気を壊わすと自分がいたたまれなくなり、自分の気持ちが嫌な気持ちになりますので、この雰囲気を壊さないために一応私の耳にいれましたが、『了解しましたので、すぐやります』ではありません」ということになるだろう。

上田学園の学生たちにも、同じことが言える。
「明日までに出来る」「はい出来ると思います」と言って、こちらが黙っていると何日でもそれについての報告がない。「明日までに何とかやります」と断言しても、それが出来ないと“自動欠席装置”が始動して「自主休講」になる。そしてその日が無事過ぎれば、周りの人間は彼が言ったことや断言したことを「全部忘れてくれる」と思い込んで、そんな話などこの世に存在しなかったごとくに振舞う。それを見るたびに、私は爆笑している、彼らに気付いてもらうために。彼らは目をつぶって周りの反応を見ないようにしているが、周りは彼らの言ったことや、やったことは全部しっかり覚えていることを。

「日本人はコミュニケーション下手」も「日本人の聞く力が低下した」も、それなりの理由があると考えている。それを解決しない限り、通じない日本語が横行し、コミュニケーションギャプから、大きな社会問題を起こすようになるだろうと想像出来る。事実起こっているとも感じている。ただ殆どの人が気付いていないだけで。

日本人のコミュニケーション下手は、ヨーロッパや他の国から比べたら単一民族に近いことや、島国で他国との交流も容易に出来ない地理的条件があったことや、300年近い鎖国の時代もあり、おまけに農耕民族で天気に左右される生活や水の問題などで、村単位で助け合わなければ生きていけない環境にあり、その中で、内と外。つまり内部の者か外部の者か、どこに帰属するかが重要になる社会が出来上がり、その中でずっと日本人をやってきた結果だ。そのときの考え方が時代が変わっても、日本人の血となって我々の中に脈々と流れているのだろう。その証拠に夫婦だろうと仕事のパートナーだろうと、大切な関係は“阿吽の呼吸”で理解しあうこと、それが長い間賛美されていた。

外国人に日本語を教えていると、本当に色々なことに気付かされる。公私に関係なく、自分と、この人の関係は、こんなに親密なのだということを表現する方法として、主語を抜いて話す話し方をし、それも仲間意識が強ければ強いほど、個人的関係を強調したければしたいほど主語抜きで会話をし、それがもっと極端になると、もっと言葉が省略されていく。その究極にあるのが「阿吽の呼吸」であり、それが理解出来るか出来ないかで仲間か、外の人間かの線引きが自然に出来ていた。

こんな関係が成立する社会では、言葉でとるコミュニケーションより、目や行動や少ない言葉で相手の考えや行動を想像し、理解しあうコミュニケーション手段が発達したのは当然だと言えば当然だ。そんな日本人が例えば、焚き火をしているところがフランス領で、その焚き火を囲んで座っているお尻のところはスイス領で、数歩先のゴミ捨て場がドイツ領なんていう環境の中に生まれ、毎日違う言葉が当たり前に行き来する生活の中でコミュニケーションをとらなければならなかった外国人と比較すること自体、間違っている。

地球が狭くなり、日本にたくさんの外国人が来日するようになり、それを受けて必然的に口でコニュニケーションをとることの重要性がフォーカスされ始めた。そして社会でも家庭でも「会話が大切」、「話し合いが大切」と言われ、それが実践されはじめた。それも、家長としての父親の権限が強く、父親の意見で色々なことが決められていた時代の親を“親業のサンプルとし、口でコミュニケーションをとることがどういうことなのかを、明確に理解することもなく。そして今、「日本人の聞く力が低下しなのではないか」という問題が提起され始めた。

日本語(語学)には日本語(語学)の四技能というのがあり、それを学生の負担にならないように、でも自然の流れの中でどのように学ばせられるかということに日夜心をくだき、工夫し、日本語を教えるのが日本語教師の役目だが、その四技能とは「話す・聞く・読む・書く」であり、話す訓練をしてから聞く訓練をする。読む訓練をしてから書きの訓練をする。この組み合わせで教えると日本語の勉強がはかどるので、これを大切にしている。

日本人の子供達は話すことができる。だが、話すことができるのに聞くことが下手になっているというのは、30年近く日本語教師をしてきた私としては、なんだか納得できない。私は「日本人の聞く力が低下した」のではなく、国語力の低下と日本語の使い方に、大人と子供の間にギャップが出来ているのではないかと、考えている。

国語力の低下は、外国と上手に交流ができないのは外国語力がないからだという考えや、一日も早い段階から受験の準備をさせたいと、「学ぶこと」の本質が「学ぶ過程にある」ことを忘れ「結果追求」に重点がおかれた結果、言葉を裏付ける行動の伴わない授業ばかりになり、自然に国語力が低下。それと比例するように、親たちも子供に割く時間がなくなり「会話が大切」などと言いながら、「会話」即ち、お互いがきっちり目を見て舌をたくさん動かして話し合う会話ではなく、親から子供に注文を出すだけの一方通行の「言う」ことが横行。それを「会話だ」と勘違いし、勘違いしたまま時間だけが過ぎ、会話から生まれる思考力や人の話を聞く姿勢や、会話から判断する判断の仕方などが、まったく育っていないのではと思える。

今どれだけの家庭で、子供が楽しそうに毎日を過ごしているか、人に迷惑をかけていないか、友達と仲良くしているかなどを心配し、3度の食事に気を配って、どんなに忙しくても一日一食または一週間に一・二度でもいいから家族中でワーワー話をしながら、ゆっくり楽しい食事をしているのだろうか。

外であったことがあまりにも楽しくて「忙しいから後で!」などと叱られても、親の後ろをついて回りながら話してくれるような親子関係を作っている家庭が、どのくらいあるのだろうか。

自分が話さない言葉は、自分の耳に入ってこない。自分で言う言葉は自分の口から出たとたん、自分の耳に入ってきて、自分の言っていることを再確認させてくれる。それに沿って責任をとれば、それなりの評価が来、そうしないと家庭という社会の一番小さな、でも大切な単位のリーダーの親から厳しく追及される。そんな積み重ねがなかったら、自分の言ったことに責任をとろうとはしないだろうし、とらなければならないという発想も湧いてこないだろう。

一方通行でしか成立しない会話の中で育った子供達。どうやって自分の言葉に責任を持つことを学ぶのだろうか。反抗期になり、一方通行の会話に抵抗をしても、それ以上抗えないと思うと「めんどくせえ!」「どうでもいいよ!」「なんとかなるでしょう!」という言葉で、人の話を煙に巻く。まるで癖にでもなったように、あらゆるところで。それも、意味もなくその場しのぎの言葉として、使われ出す。

今もう一度大人たちは考えなければいけないと思う。
コニュニケーションをとるということは、どういうことなのか。
コミュニケーションとは、言葉でしかとれないのか。
これだけ外国が近くなった現在、子供達を国際人として育てるということは、どういうことなのか。
英語力がつけば国際人になれるのか。
日本人としてのアイデンティティーは。
親子で話が通じるためには、何をしなければいけないのか。
子供が本当に子供時代を子供らしく謳歌できる環境に住んでいるのか。
もし住んでいないとしたら、住めない状況をどう打破するのか。
国家や社会を動かすのは大変でも、家庭を動かすことは親の考え方一つ。そこから何か出来ることはないのか。
そして、親は一人の人間として、自分の欲望だけで生きていないか。
他力本願的に自分が幸福になりたいために自分の努力を先送りして、親と違った人格を持ったある意味他人である自分の子供を利用して、自分の夢を実現しようとはしていないか。

もう一度考えて欲しい。子供を含む、他人の話に耳を傾けて欲しい。「何とかなるでしょう」などという言葉でごまかさずに。そしてもう一度しっかり自分達の行動を反省したい。子供も大人も思わず会話をしたくなるような環境作りをするために、まず親が自分の人生に責任を持ちながら、たとえどんなに小さなことでもいい。子供に自分の夢をたくさん語りたくなるような、ウキウキ出来る行動をしよう。大人が子供の“行動の先生”であることをしっかり確認しながら。


 

 

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