●学園長のひとり言
 
平成16年11月17日*

(毎週1回)

 計算外の効果

今日は朝から良い天気。歩きで来る予定が少々ノンビリ朝食をしたので、自転車で学校に。何だか久しぶりに私のテーマソング「♪ガンバラナクチャ、ガンバラナクチャ♪」と歌いながら。

学校に到着すると大ちゃんがゲームをしながら学校が始るのを待っていた。今日は皆が何となく緊張する日。一時間目は「日本語を外国人に教える日」だ。

ゲーム大会の実行委員会の手伝いをしていて、明日まで休みの藤チャのピンチヒッターで教える大ちゃん先生。藤チャの生徒から「アパートで何かがあるので、家にいるように大家さんから言われた」と日本語クラス欠席の電話が入る。「教えなくていいんだ、よかった!」と喜ぶ大ちゃん先生に、「準備していたのに・・」と他の学生たちは半分同情、半分羨ましがりながら、それでも忙しそうに教えるための絵教材をそろえたりと、教える準備をしている。

そして10時。成チェリンのカナダ人の学生がやってくる。あと2回勉強すると「日本語能力試験」の受験日になる。緊張した面持ちの学生にナルチェリン先生が「あまり時間がありませんから、ここは自宅で勉強してください」等と言いながら授業が始る。それと同時に荻チャのアメリカ人の学生が到着。早速授業がはじまる。そして他のアメリカやオーストラリアの学生たちも連れ立って到着。思い思いに好きな飲み物を手に、ワタちゃん先生、小高マン先生、金谷ママ先生、そしてヒロポン先生の前の彼らの定位置に座る。

2時間、ワイワイガヤガヤ色々な日本語がクラス中を飛び交い、最後の20分、英語や日本語でのお茶タイム。12時を告げるチャイムを聞きながら、日本語の授業を終えた外国人の学生たちを見送る。その後、日本語の授業で気になったことを注意。上手く教えられなかったこと、分からなかったこと、困ったことなどの質問が学生の方から来る。そして午前中の授業が12時半ころ終わる。

街の日本語学校で一生懸命勉強する留学生も多いが、それでもビザ取得のため単に日本語学校に在籍する留学生達も結構いる。そんな彼らと違って、上田学園に勉強に来る学生たちは一生懸命勉強しようとするし、一生懸命学ぼうとしてくれる。例え生徒達が若くても、先生達の言葉を一生懸命聞こうとしてくれる。そして人間的にも、とても穏やかな人が多い。その所為もあると思うが、大ちゃんを含む、上田学園の生徒達。日本語を教えるのがなかなか上手だ。それも最低限の文法等の知識を少々伝授してはいるが、日本語教師としての充分な知識も詰め込まず、おまけに現場トレーニングは主に先輩の学生に教えさせ、ぶっつけ本番に近い状態で授業を持たせている。

自分が教えられなかったことを毎回質問することで、日本語教師として何に注意して教える準備をしなければならないか。教えるために必要な何が自分に不足しているかを「自分で理解し学ぶ」という方法をとっているこの授業。日本語の教師が知ったらビックリすると思われほどだが、でも大学の日本語学科で勉強した先生が教えた学生より、460時間の養成コースを終えた先生が教えた学生より、上田学園の学生たちが一所懸命赤くなったり青くなったりしながら教えた学生たちの日本語の方がずっと上手だと思える場面にしばしば遭遇するし、それ以上に「勉強したかったんです」と言って習いに来る学生たち、心から日本語の勉強を楽しんでくれている。

日本語授業を授業の一つに取り入れてから、人に物を教えることの苦労。一所懸命準備し、緊張しながら学生を待っているのに欠席されたときの何とも説明出来ない喪失感。外国人から質問されてはじめて「知っている」「当たり前」と思って話している日本語について、いかに知らないかに気付かされ、驚かされている。そして日本語に対し「何故?」とう気持ちを持つと同時に、自分のような人間を頼ってくれる自分より年上の外国人の学生たちに対する責任感など、今まで考えもしなかったことや体験もしなかったことを日本語教育を通して、体験し考えてくれるようにはなっている。そして思いがけない効果が外国人の学生たちの上にも起こっている。

外国人の学生たちの殆どが英語の教師だ。彼らのバックグラントも日本に来た理由もそれぞれで、一人として同じ人がいない。勿論国籍もだ。

まして同じアメリカ人と言っても、何何系アメリカ人である彼らは、アメリカ人になった時期も出身国も異にし、数代前にフランスから来た人もいれば、親の代に東欧諸国やアラブ諸国からアメリカに移民した人もいる。2年前にアメリカ人になった人もいる。そんな人たちと、出身地も年齢も学力も全く違う上田学園の生徒達とが作っている日本語クラス。国語の授業の一環としてやっている日本語クラスなのだが、上田学園の学生にとっても外国人の学生にとっても心が癒され、机の上だけでは計算しきれない人とのかかわりから起こる“学び”が、ここにはある。

「どうぞよろしく!・・・・?」、3日目とは思えないくらい上手に教えていたワタちゃんが「どうぞよろしくの意味は何」という質問に、「う〜ん・・・」とうなりだす。
日本語だけで説明することを義務付けられているため、どうにかして意味を理解させられる材料か「何かがないか?」という面持ちで、キョロキョロと教室中を見回している。その隣りで、何回教えても自分の名前に“さん”をつける学生に、ヒロポンがジェスチャーをつかって駄目だしをしている。そんな彼らに「頑張れ、その調子!」と心の中で応援する。

授業後に出すコメントをメモしていた私の側で、「例えばです。クリスさんはお店に行きます。『いらっしゃいませ!』と店員。『これはいくらですか』と、クリスさん。『どれですか』店員・・・・・」生徒が理解してようと、理解してなかろうと普段の“省エネタイプの会話スタイル”からは想像できないほど日本語を駆使し、ジェスチャーをたくさん入れ、立ったり座ったりしながら強引に理解させようと推し進める荻チャの日本語授業。日本語教師としては「チョッと、待って!」と、とめたくなるような授業だが、彼から授業を受けているクリスさんの顔は真剣で、でも楽しそうで、生き生きしている。そして、理解出来ないと「もう一回!」と、連呼している。

いつもニコニコと礼儀正しい荻チャの学生さんだが、先学期までは日本語授業の後に行われる“お茶タイム”には殆どと言っていいほど参加することもなく、同じ職場のはずの他の学生たちともあまり交流をせず、授業が終わるとすぐ仕事に出かけて行ったのが、気が付いたらいつの間にか“お茶タイム”に参加し、絶対手をつけなかったお菓子や果物も食べ、“お茶タイム”にだけ許されている「何語で話してもいい」というルール通り、相手に通じるか通じないかに関係なく英語や日本語で色々な話題を提供する先生役の学生たちのどんなテンポのどんな話題にも、他の学生たちと一緒に本当に楽しそうに何とかついて行きながら、声を出して笑っている。

それはまるで荻チャ先生が学生の理解力に関係なく、一生懸命の迫力だけで授業内容を理解させてしまう授業が、どんな状況のどんな日本語でも平気で聞き、理解しようとする姿勢を学生の中に育て、その姿勢が皆に受け入れられ、それが同じアメリカ人でも、アジア系アメリカ人として何となく他の学生たちとの間に一線を引いていたその一線を消滅させ、外側だけを明るく振舞うのではなく、心の内側から自然に明るく振舞えるようになったのではと、想像出来る。

上田学園は本当に不思議な場所だ。どう説明したらいいのか、どう書いたらいいのか分からないが、本当に一人一人の学生の持っている摩訶不思議な魅力と、一見あさってを向いて勝手に行動しているかのように見える彼らの摩訶不思議な力のハーモニーが、色々な人の心を動かしている。そしてそんな彼らに吸い寄せられるように、ステキな人たちや、面白い人たちが上田学園に出入りしてくれて、色々なことに影響を与えてくれる。嬉しいことに私達教師にも大きな影響を与えてくれる。勿論日本語教師としての私にも。

日本語の授業を通して、授業以外にも色々影響を与えている出来事を見「上手な教え方ってなんだろう?」「良い教え方って何だろう?」と反省させてくれたり、考えさせてくれたり、「教え方よりも、こっちの方が大切!」と思いえることを気付かせてくれたりする。そして何が一番ベストだと断言できないほど人間社会の懐の深さと、それだからこそ尽きることのない「どうして?」という疑問を埋める面白さを改めて気付かせてくれる学生たちに、「貴方達は凄い!頑張れ!」とエールが送りたくなる。

成チェリンの存在。ヒロポンの存在。大ちゃんの存在。小高マンの存在。藤チャの存在。タッツーの存在。そんな彼らの中に入って来た荻チャやワタちゃんの存在が、学生たちの持つ不思議な魅力に拍車をかけ、不思議な相乗効果を生み、思いがけないことにまで影響をあたえている。そんな彼らを見ていると、本当に人間に生まれてよかったと心から思えるし、そんなことを感じさせてくれる学生たちの不思議な魅力と、彼らの行動が起こす面白い、でもステキな計算外の“効果”に改めて拍手を送りたくなる。

 

 

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