●学園長のひとり言
 
平成16年11月23日*

(毎週1回)

心のうちで、ニンマリ!

「そんなことをする位なら死んだほうがましだよ!」

若いということは何て傲慢なのだろうかと、時々学生達と話をしていて思うことがある。そのきっかけになるのが、自分の好きではないことをさせられるときに学生達が簡単に口にする「死んだ方がましだよ!」という言葉だ。

人間には平等に与えられていることがある。それは毎日寝て暮らそうと、苦労して暮らそうと、楽しく暮らそうと一日が24時間であり、その24時を過ぎると一日になり、一日が重なる度に人生の終わりが近づいてくるという現実だ。それも「一律何年間は絶対生きられます」ではなく、生まれたときに頂いた寿命という期限付きの中で生きなければならず、その寿命は平等の基本原理通りの「不平等」にのっとり、各自によって違うのだから厄介だ。

その厄介に輪をかけて厄介なのが、好きなことじゃないことをやらなければいけないのは、大なり小なり経験したことがあるが、”死”は経験したことがない。だから「死んだ方がましだ”!」等と言うことが簡単に口に出来るし、中には本当にそう思いこんでいる人もいる。その例が集団自殺をする人たちだろう。そんなことを考えると死生観についてきちんとした教育が必要なのではと真剣に考えてしまう。しかし、死生観は学校で教育すうものでも、宗教団体が教えることでもないと、考えている。それは基本的家庭教育の必須科目だと考えているからだ。

子供達が「オギャー」と産声を上げたときから決められた期間の人生をしっかり消化して生きるための学びが始まる。その人生最初の学びの現場教師が親たちであり、その現場を任された教師達は親子で血縁関係があるといえども、人格の全く違う自分以外の他人に、上手に生きるための大きな柱になる基礎基本の知恵を授ける教育者としての責任と義務が科せられる。

同時に、ある人間の将来を決定してしまうほどの大任を任されたことに感謝し、その大任をしっかり、でも謙虚にまっとうするための仕事が「我が家のルール」と言う将来社会の一員として、人間世界で生きる土台になる最初のルールを通し、人間世界で生きる基礎基本を教えることだろう。その基礎基本の教育の中に死生観について教えることが必須科目の一つとしてあると考えているのだ。

人生最初の教師である親が、どんな死生観を持ち、その死生観を大切にしながら、自分達より先に人生を終えていく人たちや、命をもっている動植物たちとどうかかわっているかを見せることで、死生観教育が出来たということになるだろう。

教えるということ。教育するということ。そのための教授法は「教師の行動から学ばせる」ということであろう。「学び」の語源が「真似をする」から出来たと言われるほど、人は他人の真似をしながら学んで行く。それが「子供は親の背中を見て育つ」と言われる由縁だろうことからも、分かることだが。

学生達が簡単に口にする「死んだ方がまし」の前のフレーズのほとんどが「親の言うことを聞くくらいなら」という言葉だが、その言葉を聞くたびに「チョッと待った!死んだほうがましな訳ない!」と叫びたくなる反面「よしよし、正しい方向に育っている」と心の内でニンマリし、嬉しくなって顔がほころんでしまうことも、事実だ。

若いということは素晴らしい。成長するということは素晴らしい。その成長が顕著にみられるのが、若い人たちの上にだ。その成長過程を示すのが第一反抗期、第二反抗期と呼ばれ、何を言っても反抗し、親達を翻弄させる時期なのだが、それが順序よく子供達の上に起こり、順序よく親を翻弄してくれないと「正調人間成長路線」を脱線してしまうことになると考えている。

人間、居心地のいい場所にずっとしがみついていたいというのは、自然のことだ。しかし、人間は終焉に向かって成長していかなければならず、その成長を促し「怖いもの知らず」で次のステップに行けるように仕向けるのも親の役目。それをさせるために親が防波堤になる。それも高い高い防波堤に。そして充分防波堤内でやるだけのことをし尽し、次のステップに行けるほど力がつくと、子供たちは防波堤の外から聞こえる騒音に好奇心を起し、知らない世界に出て行きたいとあがき出し、その防波堤をどうよじ登って行こうかと頭を使い、知恵をめぐらし、親も含め、自分以外の他人。その他人とどう上手に距離を置きながら生きていかなければいけないかも学びならが、次のステップのため防波堤をよじ登り始めるのだ。

彼らが反抗するために一番始めにターゲットにするのが、親という名前の先生達にだ。何しろ、子供のお役目は親を踏み台にして大きくなることであり、親の役目は、そんな彼らから色々なことを学び、色々微調整をしながら彼らにとって安心して踏み台に出来る頑丈な台を彼らの前で作って見せ、提示してみせることであり、その作っている背中を見、反抗を繰り返す中で、その反抗の反動が他人である親からどうくるかを学びならが大人の仲間入りをする準備をし、社会に飛び立つ知恵をつけ、上手に親という踏み台を使って、高い壁を乗り越えて親から独立して行く。それがまた親が“先生業”から卒業する大切な時期になるのだろう。

子供達は好奇心一杯に耳をすませた壁の外から聞こえてきた騒音と、その騒音のある現実の社会で時には「うざったい!」等と言って乗り越えてきたはずの親が築いてくれていた防波堤を懐かしみながら、高い壁を乗り越えたという体験を糧に、防波堤のない社会で大波小波をざぶざぶと浴びながら、まるで海岸で見つけることの出来る丸くて綺麗な小石のように身を削りながら、この世界を構成する一社会人として成長し続けていくのだろう。人間社会が出来た昔からの約束事のように。

それだからこそ、親の踏み台が世間体ばかり気にして、見掛け倒しの格好だけを気にしたものだと、それに乗って高い壁を乗り越えようといくら努力しても、世間体という名前の他人の子供の体重に合わせて出来あがっている踏み台は、自分の子供の体重にあわず、簡単に崩れてしまい、その結果、安心して次のステップに踏み出せず、それが引きこもりや、非行などの原因になっているのだろう。

学生達が親達に反抗をし、親達の生き方を否定する。それはまさに親が築いてくれた防波堤の中で充分に生き、次のステップに行く実力をつけた証拠だろう。

オリンピックの表彰台ではないが、はじめから金賞ではなく、年齢とともに年齢にあった段階を一つ一つ踏み込んで金賞台にのぼらなければ、後が怖いことになる。年齢にあった、実力にあった表彰台を一つ一つあがらず急にトップになるということは、その後ろには”天然成長“ではなく自然に逆らい“養殖成長” させることで「おかしい?」と気付いていても手をだしたてしまう“ドーピング問題”のようなことが起こり、大きなロスタイムの中で苦しいやり直しを子供に強制しなければならなくなるだろうと想像出来るからだ。だからこそ「親の言うことを聞くくらいなら、死んだ方がましだよ」という言葉に嬉しさを感じるのは、親を踏み台にしても大丈夫な踏み台に足を掛け、踏み切るために力を入れ出した証拠に違いないと考えるからだ。

しかし、それ以上に上田学園の学生達には「親の言うことを聞くくらいなら、どんなに大変でも自分のやりたいことをやって、それを見てもらって納得してもらった方がましだよ」ということが言え、それを実践する人間になって欲しいと考えている。そうでなければ、一般の大人たちが理解している通りの普通の路線(?)を蹴って、上田学園に入学した意味がなくなる。それぞれが色々な理由で上田学園にたどり着いた学生たちではあるが、大なり小なり「ナンバーワン」ではない、「オンリーワン」を目指したはずなのだから。

数日前、中学2年生のときからほとんど学校に行っていないという現在中学3年生の女の子から電話がかかってきた。

上田学園の場所が分からないと言う彼女との待ち合わせの場所に、大ちゃんと二人で迎えに行ったが、「どうしたんだろう?来ていないみたいね」と二人でキョロキョロしたが、どこを見ても中学3年生らしい女の子はいなかった。

中学3年生に見えない彼女を上田学園に案内し、授業を体験してもらい、その後で他の学生たちと一緒に色々な話をした。

「朝が起きられなくて、めんどくさくて学校に行かなくなった」と話していたが、本当の理由は他にあるのだろう。「私は、もう大人!」と言い切る彼女をよく見ると、23・4歳に見えているお化粧の下の顔には幼さを沢山残しており、言葉の端々や、なんかした拍子にフット見せる表情のなかに「本当は可愛くて善いお嬢さんじゃないの」と思わせる何かがある。そして「家の親、変なんです!」と言う彼女に思わず「ああ、そうか。貴女の親は変な親なんだ。と言うことは、貴女はその子供だから、変な子供なのね」という私の言葉に「え!…、ウフフ・・・、」等と笑っていた。

学生たちから上田学園のいいところ、大変なところ等の説明を受けた後、翌日の授業の準備を始めた学生達に囲まれて、学生達が入れてくれた御茶を美味しそうに飲んでいたが、時々学生達からでる質問にも答えていた。

「他のフリースクールなどを見学した?」「『非行の子供を考える親の会』だかに父親が入っていて、そこから紹介された学校に行ってみたけれど、そこのフリースクール年間250万円かかるので、ちょっとやばいかなと思って・・・」などと説明する彼女に「あら?貴女は『非行の子供を考える親の会』に参加している親を持っている子供なんだ。ということは、よっぽど悪いことをしたんだね!それに貴女は250万円より上田学園が安いから見学に来た。このヒロポンは『もし行ったら、千円あげる』という親の言葉につられて上田学園に来た。上田学園は千円の価値なのよ。ね、ヒロポン!」「そうです。千円につられて来ました!」と言うヒロポンの言葉に「えへへへ…、でも私そんなに悪いことはしてませんよ!」等と言いながら、皆と楽しそうに笑っている。そして若者の定番言葉「親の言う通りには絶対しない!私はもう大人だから」と言いながら。

「大切なお嬢さん、誰か責任を持って駅まで送ってあげてね」と頼んで、帰宅につく。いつものように、学生たちのことを考えながら30分の道のりを楽しみながら歩く。

「先生、荻ちゃんさんはいい子ですね。大好きになりました。家から帰るときに照れくさそうにニコニコしながら『ご馳走様でした。また来週、日本語クラスで!』と言いてペコットお辞儀して帰っていったんですよ」と金谷先生。「ぶっきらぼうだけど、とても優しいところがありますね、彼は。ちょっと言葉が足りないけれど、なかなか魅力的ですよね」と他の先生が同意していたことに、顔がほころぶ。

授業の中で「三鷹事件」を調べ、映像までつくり、完成させた自信からか、ヒロポンの中で眠っていた彼の底力が発揮されだしている。彼の経過報告書一つとっても、ファックス一つとっても、質問一つとっても、単に先生におんぶに抱っこではなく「仕事仲間と一緒に仕事をしているときみたいだった」と、先生からのコメントを思い出し、「いい傾向だわ!」と思わず大きな声で言ってしまう。

「そんな所に気を回し、人の目ばかり気にする。それがイナカッペなんだよ!」「しょうがねえじゃん!俺は正真正銘のイナカッペなんだから。福島出身なんだから」と言いながら、他の生徒達と楽しそうにじゃれあっている大。背がのび、足が前より長くなってきている分、少しずつ足が地に触れはじめだしている。そして「お前の弟の気持ち分かるぜ。化粧、ケバイジャン!ケバ過ぎ!俺、わかんねえよな。理解出来ません!」等と見学者に兄貴風をふかせている。そんな彼の様子を思い出し、笑いがこみあげてくる。

何でも引き受けて、自分でてんてこ舞いして、くたびれはてるオッチャン。そんな自分のことは、自分でしか助けられない。それを学べれば、申し分ない。それはきっと時間が解決してくれるだろう。そして他の学生が認めている自分の魅力にも気付くだろうと考え、哲学者のような雰囲気の彼を思いだす。「そういえば、今月は金欠病だって言っていたわね。『洋服を買いすぎた』と。お洒落に気をつけるようになったのよね。いいことだわ!」と心の中で呟きながら。

一ヶ月の研修を終え、ネットゲーム大会のお手伝いから戻ってきた藤チャ。この一ヶ月、何を感じ、何を考えたのか、知りたい。でも久しぶりに顔を見せた藤チャの顔がむくんでいる。寝ずに準備をし、大会で大活躍した疲れが出ているのだろう。心配だが、そういうことも学んでいかなければならないと、彼の顔を改めて見る。そこには、なんだか随分大人になったような雰囲気の藤チャがいる。そんな彼のことを思い浮かべて「来週にでもゆっくり話す時間をとろう!」と心で決めている。

その横で、色々なことを注意されほんの少しテンションを下げているナルチェリンが一生懸命忘年会の会場を捜している。卒業までにまだ4ヶ月ある。2年6ヶ月があったおかげで、今の自分に気づいたナルチェリン。卒業式のその日まで変化をガンガン遂げて卒業し、卒業後のどんな苦労にもしっかりぶつかっている先輩達のように彼もなるだろうと想像出来、心配だが楽しみにしている。「♪ガンバラナクチャ、ガンバラナクチャ♪」と、彼の笑顔を思い浮かべて鼻歌が出る。

知人の劇団の応援のために、上田学園の授業を自主休講気味の上田学園紅一点のワタちゃんは、忙しそう。しかし一期一会の教え通り、同じ先生が同じ時間にする授業だが、毎回、同じに見えたり、先週の続きであるかのように見えるが、毎回同じものはない。それだけに「この授業をミスしてもったいない!」と思うこともあるが、でもやることはしっかりやるから、もうしばらくは自主休講を認めるつもりだ。そんなワタちゃんの独特のファッションを思い出しながら「女の子が入ってきてくれて、上田学園もかわるだろうな・・・・」とニコニコしてしまう。

夏休みに岐阜にもどったタッツー。未だに夏休み。でもきっとひょっこり帰ってくるだろう。楽しみにしている。帰ってきたらおどろくだろうな、女のこが入学していて。どんなお土産話をしてくれるのだろうか。「早く戻っておいでね。待っているから!」と声に出してしまう。

考えごとがバックグランドミュージックになり、スキップしたい気分。歩きにリズムが付き、壊れたCDよろしく思わず「♪ガンバラナクチャ、ガンバラナクチャ♪」と、誰もいない道で大声を張り上げてしまう。幸せのひと時を満喫しながら、我が家の明かりに向かって。

 

 

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