●学園長のひとり言 |
平成16年12月14日*
(毎週1回) 出来る人と、出来ない人 先日テレビを見ていたら、経済協力開発機構加盟国を中心とする41カ国の十五歳を対象に行われた国際学習到達度調査結果2003年が発表され、日本の十五歳の学力が3年前におこなわれたときより落ちたことを受け「どうしてこんなに学力が落ちたのか理解出来ない。日本人の生活が豊かになったのと、一生懸命勉強してもこの程度の生活しか出来ないと、大人を見て思ったのか。おまけに何歳になっても生活は親が見てくれるので、勉強する必要性が益々希薄になり、やらなくなったのでしょう」と、大学の先生達が嘆いていた。 その嘆いていた教授達の教え子たち。十五歳の延長上にいる多くの大学生たちも、自分から学ぼうとしない。学ぶ必要も認めていない。そんな彼らの考えに拍車をかけるように、先生によっては、授業開始と同時にその学期でやる「レジメ」を学生達にプリントして渡してしまうのだとか。 確かに上田学園の卒業生で大学に進学した学生が「大学の勉強って本当にやさしいんですね。他の学生はレポートを書くにも四苦八苦していますが、私は疑問をもったことを調べ、調べたことをまとめたり発表したりすることを上田学園の色々な授業を通して何となく身につけていたので、問題なくレポートが書けます。それに、先生によってはレジメを渡してくれて、『試験はここから出るから』と、学期開始と同時に教えてくれるんです。大学がこんな簡単なところだということを知っていたら、長い間不登校していたので学力がないからと、心を痛め、卑屈になっていた自分が、可哀想になるほどです。あんなに苦しむ必要は全くなかったんですよね」と言っていた。 今の学生達は勉強時間より、テレビを見たりファミコンをしたりしている時間が長いという。塾などで強制的に勉強させられる環境におかれれば、何の疑問も持たずに言われたことは要領よく勉強をするが、自分から率先して机に向かう時間は、確実に減っているという。大学生に至っては、殆どの授業時間、下を向いてメールを打つことに専念し、授業に興味を持つ学生は殆どいないそうだ。そのくせ真顔で「簡単に試験に合格する方法ありませんか」と手を上げる。おまけに「謝恩会は自分達がセットしなければいけないんですか」と教授に聞きに来る。 そんな学生達を受けて、謝恩会で謝恩されるはずの教授たちが文句を言いながらも自分達のための謝恩会のセッティングしたり、試験の結果にしか興味のない学生たちのために、授業開始と同時にその学期のレジメを渡し、テスト範囲を教えたりするという。 「学ぶ」ということ、「勉強する」ということの、本来の意味から逸脱した考えをもつ教授をはじめとする学校関係者がいることが、よく分かる。 今の学生に対し、学生の本分を力説できない環境即ち、学ぶために学校に行くのであれば、学ぶことが疎かになると「学生の本分は学ぶことでしょ!」と注意することが出来る。しかし、学校の内容に全く目がむけられず、学力よりも学歴ばかりをフォーカスする親の意向に従うように学校に行く学生たちに、「学生の本文は」等と力説することは、不可能だ。 今の上田学園の学生達。学歴はないが学力即ち、問題をみつけ、調べ、考え、まとめる力が少しずつついてきている。社会で役立つ力がついてきている。宿題もよくやってくるし、手際がチョッと悪いこともあるが、誰に強制されたわけではないのに早朝まで学校に残って、調べ物をしたり、作品をつくったり、教える準備をしたり、勉強したりしている。 ノートもしっかりとる。辞書もよく使う。インターネットで色々な情報を検索する。市の図書館は勿論だが、国会図書館だろうが、プロのジャーナリストたちがよく利用すると言われる“大宅壮一文庫”だろうが、臆せず気軽に利用している。いまでこそ授業をきちんと受け、遅くまで残って宿題をすることが上田学園の中では普通のことのようになってきているが、最初のころは、本当に驚かされた。 授業中にノートを全くとらない。宿題が出されたか出されていないかも、憶えていない。宿題に全く手をつけず「出来ませんでした」とか「やりませんでした」とか、何の罪悪感もなく言う。 授業で使ったプリントは、授業が終わると全部そこら辺にほってある。授業に遅れそうになっても平気でのんびりと歩いて来る。遅刻、欠席、全く意に介さない。時々「不登校生」の学校で不登校生になる。寝坊してすでに遅刻に近い状態でも、ゆっくりお風呂に入ってから、しっかり遅刻してやってくる「どうせ今から行っても遅れるから」と。 塾で「試験!試験!」と、受験だけをターゲットにして猛勉強する学生と、学ぶことに全く興味が持てない学生と、両極端な二極化が進んでいるように思える。しかしその両方の共通点としては、学ぶことを楽しんではいない。資格や学歴ではなく、有名になるとか、お金持ちになるとかに関係なく、学びは自分の人生を豊かにし、楽しいものにしてくれるということを、全く学んでいない。また、学校もそれを教えようとは考えていないようだ「楽しい授業をしなければいけない!」と声を大にして叫ぶばかりで。 最低限、高卒か大卒の資格を取らなければいい会社に就職が出来ない。紙だけでもいいから「卒業」という資格を貰って欲しいと願う親の意向に従うように、資格のためにだけ学校に行く。それも勉強するのではなく、ただじっと座って時間を潰し「卒業証書」を手にしている。 「勉強はしたくない!」「興味ない!」「学校には行きたくない!」等と昼夜逆転して不登校している中学生や高校生も、異口同音に「大学には行かなければ就職できないから、まあ大学には行くとは思う」等と言う。親たちが心配し、彼らに投げかける言葉に反抗しながらも、親たちが願っている通りの答え繰り返す。大学に行くために、それだけの努力が必要であり、勉強もしなければならないことは、全く考えずに。 勿論、真面目な学生もたくさんいるのは事実だが、残念なことにパーセンテージとしては低くなっているようだ。 学校に行って、嫌々でも勉強している学生はまだいい。授業中、先生の話も聞かず、先生にお尻を向け、2・3人で輪になって時間が来るまで駄弁っている学生。携帯メールを夢中で打ち込んでいる学生。机にうつぶせになって寝入っている学生。先生もさぞかし教える気力が失せるだろうが、そんなことで「高卒」や「大卒」の資格をとっても、「高卒」の学力も「大卒」の学力もない彼らが、彼らや彼らの親が考えているような優秀な人材をもとめている大手企業に、彼らが入社できるとは全く思えない。しかし、彼らは本気で、大学さえ卒業できれば「就職出来る」と信じている。 21世紀になり、色々な意味で日本の社会が大きく変化を始めだしている。誰もがそれを知っている。 昔とちがい、有名大学を出たからといっても現在では就職が難しいことは、誰もが知っているはずだ。それでも昔の考えを引きずっていこうとする親たち。いい会社に就職するために、したくもない勉強をし、興味もわかない大学に進む学生たち。 そんな親や学生の思惑に答えようと、大学が大学本来の使命を果たさず、まるで「就職学校」のようになり、高校の延長のような教養課程を終えたとたん、就職活動に授業時間をとられるようになる。 何のために4年生の大学なのかを、学生も大学もまるで考えていない。大学が就職するまでの単なる通過点になりさがっていることにも、誰も何の不安も疑問も持たずにいる。誰もが社会が変化を始めていることに気づいているのに。 これからの時代は、確実に出来る人と出来ない人の差が激しくなり、学歴より学力が重視されるだろう。今までは学歴さえあれば、ある程度予測の出来る生活が保証されていたが、これからは、力のある人間だけがどんどん伸びていくようになるだろう。あらゆることの保証が不確かになり、自分でしか保証出来るものがなくなるだろう。 それと同時に、これからの日本社会は色々な面を持った面白い社会になるだろう。しかし多様化する社会の中では、力のない人間、実力のない人間にとっては本当に生きにくい社会にもなるはずだ。そんな社会を泳いでいかなければならない子供達に対し、ある程度未来を想像し、予測し、現実社会に則った教育をしていかなければならないだろう。しかしその教育自体、極端な考えで二極化しようとしているように思える。 受験をターゲットにした従来型の英才(?)教育か、外国で生きていけるように、国際社会で生きていけるようにと、英語だけで教育しようとするグローバル(?)な教育のどちらかだ。 考えてみたら、可笑しなものだ。 従来の教育に不安を持ち、それを打ち破る教育を考えたとき、「英語」とか「国際人」という言葉に活路を見出した思いで、その意味を吟味することなく飛びつき、英語だけで教育をすれば国際人が育ち、海外で活躍できる人間が育つと安易に考え、「英語で教育」を採用した教育関係者や親たち。 「英語で」という言葉でラップはされているが、言い換えれば、日本人として生まれ、日本で生活をしている日本人が、日本人としてのアイデンティティーを育む時期に、生活の基盤になる日本語の勉強。即ち国語の勉強をさせず、韓国語や中国語やモンゴル語やアラビア語等で数学や歴史や社会などを勉強させる。そんな状況を不思議と思わないでいる。 こんなことを考えると、色々なことが二極化し、その中で落ちていく人間と、あがっていく人間の差が、今以上に大きくなるだろうことは、良く理解出来る。 「負け犬」とか、「落ちこぼれ」とか、色々な言葉で近い未来の二極化を暗示する言葉が氾濫しだしているが、どんな言葉で二極化の事実を表現されようと、そんな言葉遊びにうつつを抜かしているうちに、本当に「勝ち組」と「負け組」のどちらかに仕分けされてしまう。それはまるで「全ての人は平等。差別をさせないために!」と、運動会の徒競走のテープカットを、皆で手をつないでやらせている親や教育者を、まるであざ笑うかのように。 上田学園の学生には、どんな言葉にも惑わらされず、どんな社会に日本が変化していっても生きていけるように、「出来ないから、やらない!」ではなく、「できるけれど、やらない!」と言える人間に育ってもらいたいと、心から願っている。そのためにも、毎日コツコツと学んでいる今の姿勢を忘れずに、ずっと続けて欲しいと考えている。誰のためのものでもない、自分のための、自分の学びを。
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