●学園長のひとり言 |
平成16年12月22日*
(毎週1回) 当たり前が当たり前ではない、今 先日学校で、無遅刻無欠席は「当たり前」みたいな話を藤チャやヒロポンとしていたとき、「最近無遅刻無欠勤をすると、ひと月ごとに給料が一万円上がる会社が増えているらしいんです。俺達もそれ、欲しくねえか?」と言う話がでた。 藤チャが話してくれたように、この話が本当ならそんなシステムを取り入れている会社は「無遅刻無欠勤」という当たり前のことが、その会社の中では摩訶不思議な出来事の一つに数えられているのか、あるいは稀有な出来ごとの一つになるのだろう。「そんな馬鹿なことがあるんだ?信じられない!」と言いながら、どこかで信じられ、それが何となく想像出来るだけに、「これから日本はどうなってしまうの?」と空恐ろしくなった。 小さいときから理解できないまま知識を詰め込まれ、子供らしい子供時代を取り上げられ、「あなたのため」という名目で「勉強!勉強!」と追い立てられ続けた子供達。 本来なら子供から大人に少しずつ成長するなかで、「一丁前にこんなことを言うようになったのね」と面白がられながら、大人相手に幼い意見を言いはじめる。そんな自分が大人になったみたいで誇らしく、難しい意味や難しい漢字をとばしながらも嬉嬉として新聞に目を通しはじめるころ、今の子供達は金属疲労を起し、学校にも勉強にも友人にも関心をもてなくなると同時に、自分にも興味がもてなくなり、自信をなくし、当然のように学校に行くことを拒否し始める。 学校に行かれない自分を認めることを恐れ、ゲームやネットに逃げ、時間の概念を喪失させ、「不登校児」とか、体内時計の狂いによる「睡眠障害児」とか、色々な名前でカテゴライズされ、カテゴライズされることで、親も子も安心し、そこに安住し、怠けていくことに何の疑問ももたなくなる。 問題が根本的に解決されないままなんとなく時間が過ぎ、「「学校に行っていない」ということに、それなりのコンプレックスを持ち、悩み始めたころ、昔の友人達や同級生達が大学に「進学した!」「就職した!」と、風の便りで知らされ、初めて追い詰められていく。 追い詰められ「なんでもいいから、学校へ」と受験をし、ある程度メジャーな大学に入学出来たら大もうけ。そうでなくても「学校」という名前がつくところに所属出来ると「世間に大手を振って歩ける」とばかりに、長年の問題に蓋ができ、親も子も「学校に行かなかった」「勉強をしていない」等というコンプレックスから開放され「万歳!万歳!」と言っているうちに、専門学校や大学を卒業。そして何となく社会人になり、そんな彼らが会社で働きはじめる。 教育の抱えている病巣をしっかり突き止めて治療をするという選択をしないまま、表に出てきた症状に、ただただ意味もなく塗り薬を塗りまくろうと躍起になる大人達。そんな大人たちを尻目に、まるで「買えば絶対誰かは当る」の法則どおり、宝くじ当選者のような不登校や引きこもりの学生達。 当らなかった人たちも、そのほとんどが宝くじ購入者。今日にでも「おめでとうございます!あなたのお子さんも無事、不登校になりました」とばかりに、「不登校」とか「ひきこもり」とかの当選者名簿の中に、自分の子供の名前を見つける可能性が大きい現在の日本。 そんな土壌の中で営まれる社会生活。会社に無遅刻無欠勤をしない社員を小学校の皆勤賞じゃあるまいし、「賞」とスタンプの押されたノートの代わりに一万円の昇給。 藤チャが説明してくれたように、これが事実なら「日本の未来はない!」と言い切りたい気持ちだ。 最近つくづく思う。当たり前のことを、当たり前にやれない世の中になっていることを。またそんな世の中を「オカシイ!」と誰も思わないことの不思議さを。 「塾」なしでは絶対不可能と思われつづけている現代にあって、教師として当たり前なこと。即ち、学びに必要な道具である「読む・書く・計算」を子供達にしっかり習得させ、自然に勉強に興味を持たせ、塾に行かせなくても有名大学に入学させることが出来ることを実践してみせ、その結果、脚光を浴び有名になる先生が存在することが「オカシイ!」。 「マナー選手権」などといい、食事の仕方など、どれが正しいマナーかと、フランス料理の食べ方等ならまだ納得出来るが、日常生活に欠かせない当たり前の「箸」の持ち方までも競い合う番組が「マナーの勉強が出来て、役に立っています」等と投書され、感謝されることが「オカシイ!」 本名は勿論、年齢も経歴も、その人たちの生活も全く知らないまま、携帯やネットなどで知り合った人たちが「メル友」と呼び合い、16歳の子供相手にご主人の不満を相談したり、「お前、13歳かよ。学校くらい行けよ!」等と、学校にも行かず、仕事にも就いていないプータローの15歳に説教されていることを「変だ!」と考えないことが「オカシイ!」。 夜の11時、12時に帰宅するような生活をしている12歳や13歳。そんな彼らが犯罪に会わない方が「おかしい!」と気付かない彼らを含む、彼らを取り巻く大人達は、本当に「オカシイ!」 そんな彼らが補導され、その補導されたことを反省する前に「補導されると無料でパトカーで送ってもらえるから、楽なんだ!」と言わせていることをオカシイと思わない、彼らの親も含む大人達が「オカシイ!」 朝の2時、3時までゲームをしたりコンビにの前でたむろっていたら、体内時計が狂い生活習慣が狂うのが当たり前。それを注意することも強制的に「直す」、又は「治す」ことに協力しようとしないで同情しながら、でも傍観していることの「おかしさ」に気付かない親達が「オカシイ!」 今の日本の変なことを挙げれば、暇が無い。そしてこんなことばかりを列挙していると本当におかしくなりそうだ。それも「可笑しい」の可笑しいではなく、「オカシイ(変)!」のオカシイだ。 「ロンドンの吉本興業」と呼んでいる上田学園の先生であり、英国中の大学のAO入試をしているユニバシティーコンサルタンツの経営者。ロンドン在住の佐藤先生は「海外に住んで、毎年数百人の学生の留学を20年以上やってきたが、年々ひどくなる日本人学生の馬鹿さ加減、本当に心配になる。中国、韓国の留学生と比較するのも失礼なくらい、非常識。おまけに『金さえ出せばいいだろう!』と金だけ遣って頭を絶対つかわない。自分で考えない。こん若者が日本を背負って立てるわけが無い。あと10年もしないうちに、例え日本を代表すると言われている東大の卒業生であっても、全員東南アジアに出稼ぎに行かなければ生きていけなくなるだろう。だからその前に絶対当たり前のことを当たり前に出来るようになっていたほうが得だ」と公言してはばからない。 人生の勝ち負けは、人に指摘されるものではない。自分で納得のいく人生がおくれたかどうかで決まるものだろう。 平凡に生きること。普通のことを普通に出来ること。嬉しいことを嬉しいと思え、悲しいことを「悲しい!」と感じられること。時代により、生活習慣などが変化し、それにより感情や考え方などが変化するのは当たり前だが、時代を超越した基準というものをしっかり確認し、生活の知恵が一杯つまった先人の生き方を見習い、「当たり前のこと」を当たり前の共通認識として生きていける社会にもどさなければ、自分達で自分達の首をしめ、益々生きにくい社会になるだろう。 無遅刻無欠勤を1年すると12万円の増額になる。2年で24万円の増額だ。どう考えてもこのシステムの継続は、不可能だ。そんな不可能なシステムの中で、決められた休み以外「無遅刻無欠勤」が出来ないという自分達の行いで、自分たちの首をしめていることに本当に気付いていないのだろうか。 基本的な家庭教育の欠如。基本的な学校教育の欠如。基本的な社会ルールの欠如。今日本で問題になっていることの全てがこの欠如から生み出されていると言っても過言ではない。 上田学園の学生たちには、色々なことの基礎基本を身に付け、自分の頭で考え行動出来る人間。人に感謝が出来、人に気持ちよく過ごしてもらえるよう、人間としての思いやりやマナーも身に付け、当たり前なことを当たり前に守れる人間。実践出来る人間になってもらいたいと願っている。 好きか嫌いか、やりたいかやりたくないかに関わりなく、この世に生を受け、色々な人たちに助けられながらも、助けられた人たちを踏み台にして生きていくこをと義務付けられた人間としての役目。明日の土台になる「今日を作る」という義務をきちんと果たすためにも。 毎日を大切に積み重ねて行こう。つまらないと思い、意味ないと考えて何もしないより、まず実践してみよう。その実践から「なぜかと言うと」と、しっかり自分の意見が言え、自分の周りの人間を納得させながら、自分の本当の姿を確認していこう。そのためにも、肩肘もはらず「当たり前のこと」を「当たり前に出来る人間」でいられるよう、皆で頑張ろう。
今日は12月22日。学生たちがもうすぐ水泳から戻ってくる。その間にオダカマンに教えてもらったように、メモを見ながらこの原稿をホームページに上げている最中。そんな中、思いがけず卒業生からの一本の電話。卒業したときに取れず残っていた一科目。その一科目の数学に合格し、無事大検に全部合格したという報告の電話だった。 彼は卒業後、大検の残りを挑戦しつづけるために、愛知にあるトヨタの下請け工場で無遅刻無欠勤で働きながら、勉強していた。何度目の挑戦になるのだろうか。4度目くらいだろうか。 今回の挑戦に際し、彼は1年生の算数からやりなおしたそうだ。そして関数などで随分疑問をもったり、疑問をもちすぎて前にすすめなかったりしたそうだ。そんな彼が「数学を通して、本当に自分の頭の悪さに気付きました。そして『否定する前に受け入れ、それからじっくり考える』ということを、学びました」と報告してくれた。そして、上田学園の夜中の時間を占領して書いていた彼の詩が、応募総数800数点の詩の中から50点の中に残り、入選。1月の発表を待っているところだと、言う。 「入賞しなくても、入選したことだけでも嬉しいから」という彼。一生懸命頑張っている彼が嬉しくて、何度も「よかったね!よかったね!」と連呼する私に、「上田学園にいた頃の俺は、本当に当たり前のことが、当たり前に出来ず、否定ばかりしていた。人の話が全くきけなかった。そんな俺が、今は人の話は『素直に聞こう』と思えるようになり、それからは、本当に地に足をつけて生活している人たちに会えるようになりました。俺はマダマダだけど、本当によかったと思っています」と嬉しそうに報告してくれた。 友達がたくさんおり、人間的にも魅力いっぱい。才能もいっぱいある。そんな彼ではあったが、読み書き計算の基礎基本がまったく身についておらず、あるところまで行くと逃げ出す彼に、学校の存続をかけて、何度も何度もやりあった。そして「先生の言う通りです。一からやり直します。大検も受けようと思います」と言い、卒業を1年のばし、当時の級友のタッチやシーシーに助けられながら大検の勉強も始め、「勉強するって、面白いですね」と言うようになり、そして何かを掴んで卒業していった。 卒業はしたけれど「元気でやっているかしら」と心配していた私たちの前に、ひょっこり訪ねて来たのは、卒業の1年後。 「今の俺なら、上田学園の授業がどれだけ大切かよく分かります。今の俺がここに在籍していたら、一生懸命勉強すると思います。でも、何もしなかったのに、あの時期に上田学園にいられたことが、今の自分を作ってくれているので、あれはあれでよかったと思います」と言い、まだまだ大検の残りの一科目に挑戦しつづけると話してくれていた。 当たり前のことが、当たり前に出来るようになり、世界が広がっていることが電話を通してよく分かった。「お互い、頑張ろうね!」と言う私に「頑張ります。2月ころ会いに行きます」と言って電話を切った彼の言葉に、大変なことはたくさんあるけれど、色々なところで毎日のように学生たちから「嬉しいプレゼント」もらっている贅沢な私が、またまた卒業生から嬉しい気持ちをプレゼントされ、「何て幸福なんだろう!」と、全ての学生たちに感謝したい気持ちで、彼の銘銘の上田先生の変なテーマソング、「♪ガンバラナクチャ、ガンバラナクチャ♪」と歌ってしまった。
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