●学園長のひとり言
 

平成17年2月16日

 (毎週1回)

 プロの大人になる会

上田学園では学園の先生としてお願いする方の年齢・性別・学歴・職歴などを全く問わないでお願いする。お願いする時の基準はただ一つ、「素敵な生き方をしている方」ということだ。素敵な生き方をしている方は、他のことも素敵だと思うからだ。

上田学園には高校生の先生もいた。彼の名前は「ひろみ先生」。現在イギリスの大学で勉強している。

彼とひょんなことで出会った私は、彼が高校生になったのを機に上田学園で授業を受け持って頂きたいと考え、他の先生と同じように契約書を交わし、3年間毎週水曜日午後3時から4時半まで授業をして頂いた。授業は「昆虫について」。

彼のよさは、子供らしさと育ちのよさ。しっかりした家庭教育を受けていたのだろう。出会ったときは公立中学の3年生。礼儀正しく、そしてものの見方が公平で「今時こんな学生さんがいるんだ?」と感心したことを、よく覚えている。

「勉強はあまり好きじゃなかったけど、昆虫から色々なことを学びました」と言う彼の言葉を証明するかのように、昆虫に関する知識には毎回驚かされ、「ああ、そういうことなんだ!」と、感心させられることばかりだった。

「進化とは『奇形』と呼ばれることから始る」という言葉で開始された彼の授業。15歳になったばかりの「ひろみ先生」の鋭い意見に、学生たちは自分達より若いひろみ先生の授業に、いつの間にか引き込まれていった。

「自然保護団体がこの種族が絶滅しそうなので、絶対獲らないようにしようと言うのは、オカシイと思う。何故ならば、動物が住む世界は弱肉強食の世界。そんな環境の中で自分を進化させ、生き残っていく。それを皆で『保護しよう!』と言って、保護をする。それは自然のルールに反していると思う。おまけに、保護を始めたとたん、あと先きを考えず、金儲けのことだけを考えたり『マニア』を自称する駄目な大人たちが、保護指定された昆虫なり動物なりを獲ろうとする。その結果、絶滅しなくてもいいものまで本当に絶滅してしまう。山に地生する植物に対しても同じだ。馬鹿な大人がみんな摘み取って自分の庭に植えてしまう。山から摘み取ってきた草花が平地で無事に育つかどうかも調べないまま。だから僕は自然保護団体の人たちの言うことに、納得出来ないことが多いんです」。

幼顔の彼が真剣に語る言葉に、「大人ってなんだろう?」「知識があるってどういうことなのだろう?」と、思わず考えこんでしまった「ひろみ先生」の授業。

彼のお父様はたくさん会社を持っており、日本一の高額納税者ということで何回か新聞に顔写真が載っていたようだが、そんな話は人から聞く位で、本人は普通の高校生以上に質素で、普通の高校生活を、本当に楽しんでいた。

彼が上田学園で授業をしなくなってもうすでに3年近くになる。ひろみ先生から授業を受けた学生もいなくなってしまった今、卒業生が遊びに来た時だけ「ひろみ先生、どうしているかな?元気かな?」という話がくりかえされる。その度に、ひろみ先生から授業を受けた最後の学生で、ロンドン在住の「シーシーが今ごろひろみ先生に会っているんじゃないかな」となり、「ひろみ先生のゴキブリの話は面白かったよね」と、先生の授業のことで話の華が咲く。そんな「ひろみ先生」のことを、最近ふっと思い出すきかいがあった。

受験シーズン真っ只中の今、「間違えて乗車した受験生のために、停車すべきでない駅で“善意”の停車」とか、昨年の試験内容と全く同じ試験内容が出題され、そのために「再試験が実施された」とか、受験に関する色々な問題が毎日のように報道され話題になっている。それを見るたびに、「大人は絶対間違っている!」と、声を大にして言いたくなる場面が多くなる。

「かわいそうだから」と思い、「子供のために」と善意な気持ちでやったことが、学べるチャンスをのがし、本当はもっと子供をかわいそうな事にしてしまう場合もある。そんなことが想像出来る場面に出くわす度に「これ以上かわいそうな子供を作らないで!」「子供を潰さないで!」と叫びたくなる。

そんな出来事が重なっていくなかで「子供を育てる」ということ。即ち「教育」について色々な方達に話を聞いて頂いたり、話し合ったりする機会をつくりたいと考え、そのことで上田学園の学生たちに相談に乗ってもらい、また「親や大人に何を望んでいるの?」と質問をしてみた。

「プロの大人になって欲しい!」「プロの親になって欲しい!」
学生たちの思いがけない言葉に内心「え?」と思うと同時に、その言葉を聞きながら「ひろみ君」に自然や昆虫に関する彼の意見を聞き、「ひろみ先生」として昆虫の授業をして頂こうと決めたときに「大人ってなんだろう?」と思った時に感じた、あの感覚。あの時の感覚を思い出した。

15歳だったひろみ先生の言葉ではないが、「保護したつもり」が「絶滅に追い込む」。そんな愚かなことをしているのと同じではないかと思える大人達。それも「無知」がさせたことではなく、「善意」とか「大好き」という名目の「故意」から絶滅に追い込んでいると思えるように。

「大人」の私達はもう一度考えなければならないと、切羽詰った思いが私の背中をおす。子供たちを預からせて頂いている人間として「何かをやらなければいけない」と。

「長く生きたからといって「大人」とは呼べないし、呼んで欲しくない」
「子供を産んだからといって「親」とは呼べないし、呼んでほしくない」
「やることをやって欲しい。プロの大人になって欲しい!プロの親になって欲しい!」

学生たちの言葉は、重い。そしてその重い言葉を受けて、思わず「君達も“プロの子供”としてしっかり“今”を過ごしていかなければね」と返した自分の言葉に、子供の「受難時代」というフレーズを思い出し、やりきれない気持ちになった。

「プロの大人?」「プロの親?」「プロの子供?」「プロの教師?」「プロの主婦?」・・・・「プロの自分?」

ふっと思う。どれだけの人が「プロ」として生きているだろうか。
本当の自分、即ち「プロの自分」を素直にやっている人たちが、どれだけいるのだろうか。次から次へと湧いてくる疑問。その疑問は、自分に対しても向けられる。

「本当にプロの大人として自分は生きているだろうか?」と自問自答する自分の前に、漠然と「プロの大人には程遠い」と思える“生”の自分、現実の自分が見えてくる。

同時に、「こんな自分なのに、子供達に何が言えるだろうか。言ってもいいのだろうか」という思いが、ふっと脳裏をかすめる。そして、悩む。そんな自分を奮い立たせて「子供達の言うように、「プロの大人」の意味を考えながら「プロの大人」になるために「前進しなければ!」と、自分に言い聞かせる。

「日本語教師」としては「プロだ」と思っている自分と、経営者としては半人前どころか、やっと産声をあげ、おろおろ、オタオタしているどうしようもない自分。目をおおいたくなるような現実の自分がそこにいる。

それでも、ちょっと先に生まれている者の役目として、大人と呼ばれる年齢に近づいてきている者達に、「大丈夫だよ、それを通り越してごらん!正しいことは正しいと評価されるから。安心してやってみてごらん、後ろから見ているから。飛び越えてごらん、飛び越えられるから!」と応援し、学ぶチャンスをたくさん与えていかなければと思う気持ちは、抑えられない。

大人の予備軍として控える日本の全ての子供達には実行できないが、自分の出来ることの第一歩として、改めて上田学園の学生たちには「プロの子供時代」を満喫してもらおうと思う、「プロの子供時代」が何かをしっかり考えながら。

同時に、学生たちを応援団にして「プロの大人」や「プロの親」や「プロの先生」など、「本物の自分」を目指していきたいと、考えている。

「プロの大人」や「プロの親」に育ててくれる子供達に答えるためにも、「子供達の問題」を通して、しっかり自分達を見つめなおしてみませんか。そして子供達を「プロの子供」として子供時代を満喫させてあげませんか、未来の彼らの人生のためにも。

「プロの大人になる会」、皆様のご参加を、お待ちしております。

 

 

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