●学園長のひとり言 |
平成17年7月16日
(毎週1回)
これでいいのかな 最近の上田学園には異常と思えるくらい勉強することに学生達が燃えている。そんな彼らをハラハラしながら見ている不甲斐ない教師が約1名、ここにいる。 今のようになるのが長い間の夢だったはずなのに、その夢が現実のものとなり上田学園の中で地位を得ると、そんな学生を持つのは初体験のためか「本当にこれでいいの?」とオロオロもしてしまうのだ。 時間が出来ると国会図書館に走る学生。「こんなところに紙袋をほっぽり出して置かないように!」と注意するあちらこちらに置かれた袋の中。そこには毎回、7・8冊の本であふれている。 学生本来の姿、「もっと知りたい」という思いでむさぼるように資料になる本を読み漁り、レポートにまとめている。まるでアメリカやヨーロッパの学生達のように。 どうしたら先生を「ギャフン」と言わせられるかを、いつも考えているという。面白いレポートで先生をギャフンと言わせたり、英語でキチンと自分の意見が言えるようになって、クリス先生をギャフンと言わせようと話し合っているのだという。事実、どの教科もその教科の基礎的なことを、今までのように毛嫌いもせずコツコツコツコツと努力し、学んでいる。 自分のことが精一杯で、ホームページを書く暇も、細かいことをくよくよしたり心配したりする暇も、他人のことに気を回す時間もなくなったと言う。 すべて困ったことだが、しかし知識を吸収したいと自分から動いてくれるような授業を「理想」としていた上田学園。 一年目には何か一つ疑問を見つけ、それをテーマに本を読み、資料を集め、分析し、まとめ、発表する中で、学ぶ基本を身に付ける。それを土台にし、2年目からは自主的に色々問題をみつけ、調べ、先生や他の学生たちとディスカッションをしながら自分の考えをどう伝え、何が問題になっているのかを分析し、実際に起きた問題をどう解決するか等、色々な教科を通して学んで欲しいと考えていた。 しかし現実の学生たちは悪くすると小学校三年生の学力もなかった。有名受験校に在籍したり、高卒だったり、大学中退だったりする学生たちもいたが、時として不登校で学校に行っていなかった学生より、学力が劣っていたりした。 学歴と学力がイコールでないことに気付くまで3・4年かかり、一見インテリに聞こえるような言葉の羅列で煙幕をはり「小学校の勉強なんて」と拒絶する学生たちに対し、基礎学力をどう補おうかで、教師たちは悩んだ。 しかし、社会で即役立つ上田学園の教科からでも、基礎学力は補えることを実践して見せてくれた卒業生たち。 入学時に学力のないことはそんなに大きな問題ではなく、本当に問題なのは、理由も、手に入れる入れ方も、見つける見つけ方も全く教えられず、ただただ「好きなことをやりなさい」「やりたいことを見つけなさい」とだけ小さい時から言われ続けた結果、「やりたいこと」「好きなこと」は、基礎学習も含め、「やりたくないこと」「嫌いなこと」をしてはじめて手に入れられることであり、「やりたいこと」「好きなこと」は継続してはじめて「やりたいこと」になり「好きなこと」になるという基本中の基本を身に付けずに育ってきたことだった。 「勉強すること」「学ぶこと」に関して、誤解をし続けて成長してきた学生たち。脚光を浴びない地味なことを継続することが苦手であり、嫌いだと思うことは上手に回避し、それが伸びて成長していく学生の足を引っ張り、その「継続の出来ないこと」が上田学園で「学び」を学ぶときの大きな問題になっていた。 上田学園設立以来、どんな素晴らしい先生達に授業をお願いしても、継続することが出来ないために面白くなる前に「面倒だ」と回避したり、拒絶したり。その上、「勉強をさせられている」という小さい時からの「強迫観念」で悶々としていた学生たち。ちょっと前進し、また後退することを繰り返し、最後の最後の卒業間際に、勉強すること学ぶことは「楽しいことなのだ」と理解して、卒業して行った。 しかし今、昔の悩みが嘘のように「そんなに急激に学びだしたら草臥れるから、時々一息入ることも学んでね」と言いたくなるほど、学ぶことに燃えだしている学生たち。 長い間勉強と無縁のような生活をし、知識を得るということなど全く考えも及ばなかった学生たちの今は、砂漠をずっとさまよっていた旅人のごとく、長い間ののどの渇きを潤すように「知識」という水をむさぼり飲んでいる。そこには、勉強する「振り」でも学ぶ「振り」でもなく、勉強から「学び」に移行し、学生がイニシアティブを取って、楽しんで授業を進めだしていることがはっきり見て取れるようになり、それを証明するかのように毎回どこかの授業で、何らかのかたちで、熱い語らいや、発表がなされている。 そんな空気に恐れをなす学生もいる。 確かに、どの教科に対しても、前とは比較にならないほど自分の意見をしっかりぶつけながら学んでいこうとしている。それが成功した教科は、心底受身ではない授業を楽しみだしている。その楽しみ方はまるでプロのようだと、先生をうならせている。 まだ発展途上中の教科も、時々空回りをしているように思えるときもあるが、少しずつ受身の授業から自分たちの授業にしようとしている。その姿勢に感動する。 学生たちの変化を称して「ミラクル」「アンビリーバブル」と、ご父兄が驚嘆して下さったときとも比較にならないほど、真剣にでも楽しそうに、目をキラキラさせての学びの姿勢は、同じ学びを共有する者として今まで以上に「上田学園の学生と学ぶのは本当に面白い!」と、各先生をも楽しませてくれている。 上田学園は100%生きて呼吸している。だから良くても悪くても学校が呼吸し、その中で生活する学生たちも自分の深さの呼吸をし、面白いほど変化していくのだろう。同時に、他の学生の変化に驚き、その変化が自分にはないという思いで、自分を無気力にさせ、自分を縛っている学生がいるのも事実だ。 上田学園は人と競争する学校ではない。卒業生の成チェリンではないが、他の学生の発表を聞き、彼らの発表内容が自分のよりよかった事実を称え、「俺は先週の俺に負けた。来週はもっと勉強してきます」と先生に言った彼の言葉通り、昨日の自分と比較しながら成長していくのが、この学校の生き方だ。 自分の思う通りにならないと往々にして人の心は弱くなる。その弱さが他人と比較することで、もっと弱くなり、自分を自分で自分の心に呪縛をかけ動けなくし、時間だけが空しく過ぎて行く結果になる。 「人生」も「勉強」も「学び」も全て自分のものだ。誰のものでもない。だから気付いて欲しい。人が人間として生きることは、家族を含む他の人と比較するのではなく、他の人とどう共存していくかを学ぶことであり、他の人を通して自分の存在を自分でしっかり確認することの出来るただ一つの方法だということを。その確認を自分でとれるからこそ、どんな状況のどんな人たちとも、お互いの人間としての尊厳を大切にしあいながら交流が出来るのだということを。 他人と交われない人間になったら、どんなに淋しいことか。そんな淋しさに耐えられる人間は本当に少ないし、交わることで学べる学びは、生きる上での絶対的なエネルギーになっている。 上田学園はフリースクールではあるが、学生たちを社会から隔離したり、他人から引き離して特別擁護をするようなことは、しない。まして、学校に行かれなくなったことは世間が悪いのでも、学校が悪いのでもなんでもなく、人生の中でたくさん起こる出来事の一つにすぎず、「だからどうしたの」と言う思いの方が大きい。 世間は一見弱いと思う人たちには優しい。しかしその優しさは本当に「ためになる優しさかどうか」を疑問視し、問題にしなければならないところだと、心底思っている。 どんな問題も、他のところに責任転嫁して「可哀想」と言う言葉で慰められても、それは単に問題を先送りしただけだ。 いくら同情されても、結局責任は自分一人で自分の人生で補わなければならない。その事実から上田学園は目をそむけるのではなく、むしろ正視し、厳しい現実の中で学生たちをどう導くか、それを一番の重要事項だと考えてあらゆるところで対応するようにしている。 上田学園は、学園の中であっても一般社会。色々な年齢の色々な体験をした色々な先生方と、これも色々な年齢の色々な背景を持った知識も学力も学歴も全く異にする学生たちが、小さいけれど、大きな一般社会を構成している一部分である上田学園という社会を生きる人間として、挫折、喜び、感動、感激、感謝、反省、恨み、思いやり等を通して、日々営まれる学校生活の中でどう問題をみつけ、解決し、前進していくかを、学生たちにしっかり体験させて学ばせていきたいと、考えている。 色々なことにチャレンジし、「学び」を楽しみだした今だから学生たちに話しておきたい。 友達からいい刺激を受けて欲しい。「へえ、そんな勉強の仕方があるんだ」「へえ、そんな学びかたがあるんだ」「へえ、そんなまとめ方があるんだ」「へえ、そんな考えかたもあるんだ」 たくさんの「へえ、・・・」の中から、「へえ、自分の中にこんなふうに考えること出来る自分がいるんだ」「へえ、自分の中に人の話を素直に聞けない自分がいるんだ」「へえ、自分の中に人に負けたくないというこんな自分がいるんだ」などと、よいことも悪いことも含めて、ことある毎に自分の中の「へえ、・・・」に気付いて欲しい。 その気付きの中から「自分の学びのテンポ」、「自分の心の動き」をしっかり直視し、自分はどう成長していきたいのかを、どんなに苦しんでのた打ち回ってもいい、上田学園にいる間に考えてくれることを願っている。 「勉強するってこんなに面白いと思わなかった。学ぶって本当に面白いし、今までの人生でこんなに勉強を楽しんだことも、したこともない!」と、省エネ表現でしか表現しない荻チャが思わず口にしたほど、それぞれの学生にとっても今までの人生では全くと言っていい程無縁だった感覚、「学ぶことの面白さ」に目覚めている。それも誰に強制されたわけでも、誰に無理強いされたわけでもないのに。 と言いたいが、よく考えてみたら上田学園に入学することを自分の自由意思で選択したとき、自由を選択するともれなくついてくる「義務」というオマケ。即ち「やらねばならぬ」で強く勉めさせられた「勉強」というオマケをブスクサ文句を言いながらでも投げ出さないでやってきた結果、いつの間にか上田学園が目指していた「学びの楽しさ」に目覚め、「面白い」「どうして?」「何故?」「もっと知りたい」と、勝手に走りだしたのが現実のところだろう。 上田学園の授業全部に貫いている共通の考えは「クラスで遊んでください。楽しんでください」という精神だ。だからどの先生も基本的には「このクラスは遊ぶところだから」という話をなさるのだが。 残念なことに、どんなことでも楽しく遊ぶには、最低限の遊びのルールを覚えなければ楽しく遊べない。授業の中で遊ぶ「遊びのルール」は勉強が出来ることだ。 ここでいう勉強は、決して成績ではなく教科がどう理解出来たかのことだ。成績は単なる遊びの結果であり、それも誰かと比較してはじめて、成績という名前の表になるだけのことだ。まして、成績とは本来、教師がどう学生たちに上手に教えられたかの、教師のための目安表。即ち、どうやって教え方を工夫しようかの、目安表でしかない。 勉強という遊びに用いている遊び道具即ち、教材が上田学園では「学び」に移行でき、そのまま社会で生きていく上で役立つもの、仕事でも役立つものなのだ。 勉強という名の遊びを指導している先生たちは、教科の師としても、人生の師としても生徒よりほんの少し前を一生懸命戦いながら生きている方々だ。 経験や経歴に裏打ちされた「今」を現役で生きている先生達は、実年齢よりずっと若く見え、また心と頭の筋肉が柔軟なため、学生たちと同じ目線で話が出来ることがかえって「教師と同じレベルの結果を要求されている」と学生たちを勘違いさせてしまっているようだ。 その勘違いは、時には学生たちを勝手に「出来ない!」と思い込ませ、「聞かぬは一生の恥じ」を選択させ、全く身動きがとれない原因になったりするようだが、成長も学びも段階を踏んで出来るものだけに、どの教師たちも各生徒たちがどの段階にいるかをきっちり把握して、各自にあった指導をして下さっている。 上田学園は自分のペースで、自分の背丈に合った学び方で、でも教えて下さる先生や机を並べる他の学生たちを含む色々な方々に感謝をしながら、一生懸命学べばいいところだとうことを、学生たちにはしっかり理解して欲しい。 クラスメートはあくまでも自分に対する目安であり、他人を通してしか学べない、他とどう共同し、助け合って生きて行くのかを学ぶ、大切な相手だ。 良いことでも悪いことでも「過ぎる」はよくないことだ。 勉強しすぎて草臥れすぎたら、少し休んで自分のペースを自分の体で取得していくようにつとめて欲しい。但し心に留めておいて欲しい、自分のペースを体得することの中に、他人のペースとどう調和させるかの、調和の取り方もあるということを。また、休みすぎもよくない。何しろ「過ぎる」はよくないのだから。 今だから出来る努力に、手抜きはするべきではない。どんなに辛くても、時々休みながらでも努力を続けるべきだと考えている。休みすぎると、時に努力することを忘れさせる悪い効能があることも、心に留めておいて欲しい。 他人に全く関心をもたない多くの現代の若者と同じだった上田学園の学生たち。自分たちがキラキラ輝き出した横で、輝けないことに悩み、どうしていいか分からず逃避をする学生たちに、彼らの優しい目が動きだした。 「これでいいのかな?」と色々なことに悩んでいる仲間に、「それでいいんだよ、でも面白いから騙されたと思って一緒にやろうよ」と、心の隅で心配し、でも仲間が動き出すまでじっと見守っていようとしていた学生たちが「どうして来ないんだ。皆がいるから出来ることがあるし、こんなに面白くなった授業が皆の参加でもっと面白くなるのに。楽しいことは皆で体験してもっと面白くしたいよ」と声をあげたがっている。 この分だと本当に学生たちが自分たちで会社でも起こしかねない勢いだ。そんな学生たちを見ながら、オロオロしたり、ウキウキしたりしているが、今まで以上に輝きだした彼らのためにも、どんな問題にも手抜きはせず、精一杯出来ることから解決する努力をして行こうと考えている、今日の一秒が学生たちの未来をつくる大切な土台になることを肝に銘じながら。 |