●学園長のひとり言
平成17年8月22日

 (毎週1回)

                 

自 然 の 風

我が家は3階。周りは全部低い建物。東西にあるベランダの戸を開け放すと風の列車がスースーと通り抜けていく。毎日のほとんどを冷房の中ですごす私には、その風が美味しく感じられる。

残暑の厳しい中、時には心地良い風ではなく、蒸し暑い風のことも勿論ある。クーラーのお世話になりたいことも年に2・3度はある。しかし頑固が洋服を着て歩いているような明治の女、94歳の母が「何事も自然が一番」と、頑としてクーラーを使いたがらない。

確かに汗びっしょりかきながらクルクルと家のことをしている休日。一息入れたときに頂く冷たいスイカのなんと美味しいことか。日の落ちた中を駆け抜けて来る風のなんと美味しいことか。そんな美味しい風を受けて、寝茣蓙に大の字になって寝ることのなんと嬉しいことか。

色々な美味しいものが氾濫している時代であっても、自然が、風・雨・雲・温度・湿気など、色々なものを具材にして綾なす料理の技。そこから生み出された美味しさは別格のものだ。そんな自然を、自然を損なわせることなく上手に生かしているのが、先人の知恵だ。

最近「打ち水の日」と銘打って時間を決めて一斉に打ち水をして温度をさげる試みがなされているという。また、ギラギラと照り返す太陽にさらされて温度を上昇させているマンションや学校のベランダも、すだれをかけるのも効果的であり、またもっと効果的なのは、朝顔や胡瓜などのつるを這わせて、日よけをすると部屋の温度は1・2度低くなるとか。

我が家も植木をたくさん置いてあるベランダから入る風は植木も何もないコンクリーがむき出しのベランダを通って入ってくる風より、涼しい。同じすだれをかけるのでも、家の中にかけるのと、外にかけるのとでは、断然外にかけたすだれの方が効果的だ。

誰がどんな理由かではなく、無意識のうちに自然と共存する知恵を若い人たちに授けながら夏の「暑さ対策」として、昔の人たちは夏が近づくと風鈴を下げ、すだれをかけ、打ち水をし、つるのある草花、朝顔や糸瓜などを紐などに這わせてすだれのように大きく育てていくことを年中行事のようにやっていた。

現代はかんたんにスイッチをいれ、急激に冷やしていくことを選択する。冷房の効いた部屋に座っていると、体が冷えすぎて体調を崩しがちになる。また冷房に慣れた体には、ほんの少しの温度の下がりを通して「夕方」を気づき、ホットすることもない。必要以上に涼しい中で過ごし、感覚を鈍くしている。

今の世の中「便利」という名の元に、なんでも簡単に手に入れられるし、工夫をする必要もなくなっている。そのために感覚なども含め、色々な意味で色々なことに鈍くなっているように思う。大きな楽しみも減ったように思う。

教育も便利になった。便利になったために問題も大きくなっている。色々な意味で教育を受けることに鈍くもなっている。学ぶ楽しみも減っているように思う。

学校生活は基礎基本を強制的に身につけさせられる勉強から始まり、それを我慢しているうちに勉強が面白くなり、その勉強で身につけた基礎基本を土台にして学びが始まり、そして学校生活を終えて行く。その間、色々な工夫をしながら学校生活を続けていく中で、計算外の学びがたくさん出てくるのだが、今はそれが簡単に端折られ、計算したものしか学べなくなっている。

試験勉強のために、重要な部分、覚えた方がいい部分を、色々工夫しながらまとめた手作りの「ノート」。そのまとめから学べたこと、発見したことは多くあった。しかし今はまとめるための時間を短縮するために、参考書がたくさん売り出されている。その結果、自分で気づくこと、発見することが少ない。

受験のプロ、受験塾は、時間を合理的かつ有効に使うことで、合格にだけターゲットが当てられ、その間に、またはその後に起こる計算外の問題には、全くといっていいほど考慮することはなされないように見受けられる。確かに受験塾はそれでいいのだが、それだけでは済まされないものがある。

成績を偏差値に合わせ、そして受験する学校を簡単に特定してくれる。それもなるべく高い偏差値の学校か、絶対入れる学校へ。塾によっては勿論受験する学生の性格を分析し、希望をじっくり聞き、行きたい学校を一緒に調べ、考えてくれる塾もあるだろう。しかし受験で売っている大手の塾は、学生の数も多い。奇麗事ではすまされない建前と本音もあり、悠長に一人一人の学生に合ったアドバイスなどはやっていられないだろう。

大学の夏休みでイギリスから一時帰国しているシーシーに何気なく質問してみた、どうして高校を中退してしまったのか「今の貴方にならはっきり理由が言えるのかしら?」と。

「勿論自分が悪いのですが、自分で何も調べようともせず、塾の口車に乗って受験して、合格しないと思っていたら合格して、入学してみたら大学受験のために暗記、暗記。それ以外は『するな』と言われ、『どうして?』『何故?』と質問したくても出来ない。理解できないと覚えられないので、教科によっては全く点数が取れなくなって…。勿論自分が悪いんですけどね。でもやっぱり自分の足でちゃんと学校を見つけ、その学校がどんな教育をしていこうとしているのかを納得し、それから入学を決めないとまずいと思いました」と。

学校の中間試験も期末試験も、試験はすべて教師のために行われるものだ。その試験の結果を通して、教師はどう学生たちに教えられたかをチェックする。その結果を受けて、教師は教え方を反省し、もっといい教え方を工夫する。試験は教師にとって、教え方を工夫する大切な資料であり、材料だ。

教師が学生たちの試験結果を参考に教え方の工夫をし、一生懸命教えたことがどれだけ身につき、次のステップの学びを、どの学校で無理なく継続するかを決めるために入学試験があり、入学試験は次に教えを受ける先生に、学生たちがどこまで学んでいるかを伝える大切な一手段であり、学生たちが自分のテンポで無理をせず確実に学んでいける学校を探すための、一手段でもある。

個人によって異なる学びのテンポがあることを忘れ、入学試験というレベルチェックの結果だけで「勉強が出来る」とか「勉強が出来ない」という表現で区分けするから、みんなで誤解してしまうのだろう。

入学試験というレベルチェックで自分のレベルを知り、自分のレベルにあった学校に入学。そこで次のステップに行くための基礎になる「学び」が始まり、その学びによって心ゆたかな人生がスタートできるはずが、その学びが始まるときに「名門校」という評判に踊らされ、その「名門校」が自分に合う学校なのか。自分の子供に合う学校なのかも考えずに、塾などで一時的に学力を底上げしてもらい、学力のない学歴と評判のみに固守しすぎることで無理が生じ、その無理が、子供の将来に大きなプラスになると信じた「名門校」の意味が無になるような不登校や引きこもりの引き金になることが多いように見受けられる。

勉強や学びにテンポがあるのは、自然なことだ。すぐ学べる子供。時間がかかってやっと学べる子供。目から学ぶ子供。耳から学ぶ子供。身体全部で学ぶ子供。個々によって学び方もかかる時間も違うのは当たり前のことだ。自分のペースで成長することは自然なことで、自然を無視し、強壮剤やごまかしで一見自然に成長させたように見せたとしても、それは本当の成長ではない。

自然に逆らわない教育は美味しい教育だ。自然を上手に利用し、そして先人の知恵で自然を壊すことなくフォローする教育。そんな教育を早急に取り戻さなければ、今問題になっている30歳・40歳過ぎても仕事も何もしないという「ニート」が当たり前の日本社会になってしまうのではないだろうかと、心配になる。

日本中が貧しく、誰でもが進学を選択出来なかった時代とは違い、経済が豊かになり、誰でもが進学出来る時代にはなった。しかし出来るからといって、勉強が嫌いな子供たちを無理に高校や大学に行かせる必要はない。「学び」とは決して学校内だけでしか出来ないことではないからだ。

仕事を通して学ぶことも出来る。働くことを通して、社会人としての常識をも学べるし、生きる知恵も身につけられる。それ以上学びを求めたくなったら夜学に通うなり、一時的に仕事を止めて大学に入学するなりしたらいい。そのときこそが学びの「旬」であり、それが自然であり、それだから実のある成果につながるのだと思う。

良い生活とは、何をして「良い生活」なのだろうか。幸福とはなにをして「幸福」といえるのか。「良い生活」「幸福な生活」の定義も明確に出来ない今、学校さえ出れば、資格さえ取れば、良い生活も幸福も絶対手に入ると妄信し、子供の意思を無視して「上の生活だ」と思えるものを目指させようと思う考えは、捨てていくべきだろう。またそれを信じ、行きたくもない学校に行くことを選択した子供たちに、「俺の意思で学校に入ったわけではない」と、勉強できないことの言い訳に間違ってもさせてはいけない。

学ぶ理由を確認できない学生にとって、学校や勉強を楽しめるわけがない。必要としていないのだから。必要とするまで「待つ」。子供が動くまで待つことは「出来ない」と考えるなら、小さいときから「勉強」も「学び」も、生きている限り色々な形で一生続くことを、子供を取り巻く大人たちが毎日の何気ない出来事を通して、理解させていかなければならないだろう。

何事も自然がいい。自然に学びたくなったら学べばいい。そのときの学びは美味しい学びだろう。学びたくなかったら社会人として最低必要な義務教育を終えたら、働かせたらいい。働く中で、「生きるとは」、「学ぶとは」、「人を尊敬するとは」、「責任とは」「義務とは」など、色々なことを身体で覚えさせていったらいいと思う。

世の中、学歴に対する考え方が随分変わってきた。特に社会では。それに連れ親や教師の意識も変わってきた。が、実際は現実を受け入れることより、現実から自分の子供だけが置いていかれたら困るとばかりに、まだまだ学歴神話から離れられない大人たち。そんな大人たちが多いのは、大人たち一人一人が自分の生きている生き方に自信がないからなのだろう。

大人が現実を直視し、変化を受け入れ、もう一度子供を自然な状態にもどしてあげる勇気を持つと同時に、自然に成長していこうとする子供たちにとって「生きやすい社会」をいかに提供できるようにするか、それが今後の大きな課題になるだろう。

大人は子供たちが大人の付属品ではないこと、独立した個であることを再確認し、育てていかなければいけない。

子供たちには色々な選択肢を持たせてあげたいと思う。色々な選択肢の中から「これに決めた」と子供たちが自分で選択したものに対し、親として、教師として大人として、自分たちの考えをきちんと伝え、その上で支持出来るものは支持し、応援出来るものは応援する。明確な意見を持って子供たちに接するためにも、自然に支持したくなるような子供に育てるべきだと考えている。

色々な教科と色々な先生方を通して、学生たちに色々な選択肢を提示しているつもりの上田学園。問題も多いが今以上に、各学生たちの自然な成長の流れにどう寄り添い応援していけるか、もっとしっかり考え、実践していくつもりだ。

今日も暑い一日が続いている。年をとっている母にはきつい夏だ。自然がいいからといってクーラーを拒否するつもりは、ない。しかし、先人の知恵を拝借し、自然を大切にしながら、もっと効果的に自然を利用し、その上で文明の利器も上手にとりこんで利用していこうと、考えている。何しろ、100歳までに三年を残すだけだった父の分まで、母には長生きしてもらい「孟母」を実践し続けてもらいたいと願うからだ。

それにしても暑い日が続いている。しかし自然は確実に秋の気配を感じさせてくれる。

上田学園のシャッターに学生の手で描かれた「FREE IS NOT EASY」の文字。シャッターにスポットライトの当たる午後7時が「まだかな?」と思いえるほど、日一日とシャッターの文字が読みにくくなっている。秋はそこまで来ているようだ。

 

 

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