●学園長のひとり言
平成17年9月4日

 (毎週1回)

                 

ただ、待つ!

 

私は待っている。じっと待っている。とは言っても正直なところじっと待てずに、ちょくちょく口出しをしてしまう。口出しをした後で「しまった!」と思う。その度に反省し、親御さんたちのつらさや苦労が以前より理解出来るようになる。

性格的に何もせずに待つのは苦手だ。何でもいい、動いていないと落ち着かない。何もせずただじっと待つだけは本当に苦手だ。まるで何かの我慢大会のようだからだ。しかしそれをするのが私の役目。それは子供たちの「役立つ踏み台」になることを選んだときからの私の大きな仕事の一つ。

学校に出てくるのを待つ。友人とうまく付き合えるようになるのを待つ。人と上手に話せるようになるのを待つ。人の話が耳に届くようになるのを待つ。授業が理解できるようになるのを待つ。理解してくれるのを待つ。理解出来るようになるのを待つ等。

「待つ」にも色々な種類の「待つ」があり、待っている人の立場によっても「待つ」という意味も変わってくる。ただ共通しているのは、「待つ」ということはどんなことであっても、「忍」の一字でしかないということだ。例え嬉しいことであったとしても。

また、耐え忍ぶことには限界がある。何の限界かというと、時間の限界だといえるだろう。この世に生きているもの全てに与えられている「持ち時間」。それが人生の終焉を意味するものであるという事実が示すように。

老若男女を含め、全ての生き物に与えられている権利として、一日は24時間であり、何にどう一日を使ってもその一日は自分の持ち時間から正確に差し引かれ、確実に減っていくという事実。そんな大切な時間が誰にどのくらい与えられているのかを正確に知ることは誰にも出来ないという現実。

ほとんどの人たちが自分の人生の終焉を目算して動いてはいない。むしろ人生という時間はエンドレスだと勘違いして生きているように見えるが、それでもどこかで人生がエンドレスでないことを自覚しているために、何だか分からないが時間に追われ、あせる。そのあせりが一番顕著に出て来るのが、子供のことに関してだろう。

つくづく思う。人生がエンドレスではないのだからこそ、知恵を絞って時間の配分を上手にすればいいのだが、知恵を絞ることを忘れてただただ「あせる」。しかしただ無闇にあせっていいことはない。「あせりは禁物」と分かっていても子供に関しては、なかなか悟れない。悟れなくても悟らなければいけないのだろう、特に教育に関しては。

教育することは「待ち」の一手だ。教えて待つ。つまり、サンプルを見せて、後はそれを真似してくれるまで待つしかないのだ。

「なに?」「なあに?」
「だからママが言っているでしょう、ご飯を早く食べなさいって!」

子供のころ、人形遊びには全く興味が無かった私の一番大好きな遊びは「子守」。学校から帰るとランドセルをほっぽり出して一目散に赤ちゃんがいる近所の家に「おばさん、赤ちゃん貸してください!」と遊びに行き、子守をさせてもらった。

その大好きな子守をしながら、小さい子供たちが何か注意される度に何回でも「なあに?」を繰り返し、お母さんから叱られることが不思議で仕方が無かった。

大人になり、色々な国で友人の子供さんや日本語の生徒さんの子供さんの子守をさせてもらい、それが日本人の子供だけでないのに気づき可笑しくなって笑ってしまったことも度々あった。何しろ日本の小さい2・3歳の子供たちと同じような年齢の、でも青い目をし、クリクリカールの子供たちがドイツ語や英語で「なあに?」を連発していたからだ。そしてその後に必ずと言っていいほど「だからママが言っているでしょう、早くしなさい!」というお母さんの言葉が続いていたからだ。

ある年齢になると、小さい子供は必ずと言っていいほどこの「なあに?」を連発しだす。それも何度も繰り返して。その度にたいてい親が切れている「早くしなさい!」などと。そんな小さな子供でも小さな頭で一生懸命考えているのだろう、親がそばに行き、顔を見ながら「早くご飯たべて、一緒にお買い物に行きましょう」等としっかり理由を話して聞かせると納得し、そのとたんゼンマイ仕掛けのお人形のように食べ始めるのだ「♪お買い物、お買い物♪」などと歌いながら。

勿論親に叱られなくても聞き分けがよく、親の言うことをすんなり理解できる子供もいる。でもほとんどの子供が「なあに?」を繰り返しながら、自分の頭の中で親の言うことを租借し何とか理解しようと、少ない経験と想像力を働かせて理解できる何かを探っているかのように見受けられる。そして年齢が少しあがり質問できるようになると、「おかあさん、こういうこと?」「先生、こういうこと?」などと自分の理解したことが間違っていないか自分の言葉に直して、確認してくるようになる。

親も先生も子供をとりまく大人たちは子供の教育が始まったときから待たされることも教育の一つだと覚悟しておくべきなのだろう。それも、ただ待つのではない正当な「待ち」をしなければならないのだということを。例え時間がなくても、お尻に火がついている状態でも「正当な待ち」のルールに則って待たなければいけないのだということを。

「正当な待ち」とは、決して「問題の先送り」をすることではない。これを見誤ると「不登校」「引きこもり」「ニート」を始める理由を子供たちに与えてしまうことになる。

「正当な待ち」とは、問題を解決するために、問題は問題として個々の問題をしっかり確認し、解決方法の一手段として時間を与え、「じっくり待つ」を選択する。

そのために一見「待ち状態」のように見えて、水面下ではしっかり「白鳥の湖」状態。即ち、表面は何事もないように優雅に、しかし水面下では問題の解決に向けてなり振り構わず「気づかせる努力」「感じさせる努力」「考えさせる努力」「反省させる努力」「自分に打ち勝つ努力」など、そんな努力がなされるように働きかけながら、当人が動き出すのを只無心に待つことなのだ。それもその「待ち」が、待っている人間の単なる自己満足にならないように気をつけながら。

最近の上田学園には正当な「待ち」をしなければいけない問題が山積みされている。その「待ち」の実践を一番しなければいけない私が焦り、自分で自分をがんじがらめに縛り、時には身動きが取れないようにしている。そんな私に学生たちがぶっきらぼうな言葉で助言してくれたり、心配してくれたりする。それをしてくれる度に、学生たちの視野が広がっていくのが分かる。

問題点を把握するために、問題を遠くから眺めようとする作業も無意識にしだしている。そんな学生たちに助けられ、甘えさせてもらいながら「正当な待ち」をしようと自分と闘っている。

どんな問題があっても、どんな問題を起こしてくれても、信じられる何かがあり、あきらめられない何かがあり、捨てられないなにかがある魅力的な上田学園の学生たち。

そんな彼らに囲まれていられることを、どんなに落ち込んでいても、どこかで「ラッキー!」と思える自分と、誰よりも何よりも学生たちが一番大切で一番「可愛い」と思える自分。

理屈ではないそんなことを感じる自分の心に正直に寄り添っていくためにも、「正当な待ち」をするために、自分としっかり闘っていくつもりだ。たくましく成長している学生たちに助けてもらいながら。

 

 

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