●学園長のひとり言 |
平成18年2月6日 大学って何をするところ? 「勉強しなさい!」等と言われなくても自分達で率先して勉強を始めた上田学園の学生たち。「自分達で勝手にハードルを上げているんだから、自分達で責任をとりなさいよ」等と先生の厳しいご意見もなんのその、ますます勉強に加熱し、こんなことをしてみたい、あんなことをしてみたいと、自分たちの考えをぶつけ合っている。そんな彼らの後ろで、「早くかえりなさいよ」風邪をひかないようにね」等と、おろおろしながらお母さん役を楽しんでいる。 嬉々としてか嫌々かには関係なく、自由に自分で選択して入学した上田学園。自由に選択したことへのおまけとしてついてくる義務は「しっかり遂行していただきましょう!」とばかりに、半強制のように進められた上田学園の授業。「何をやっているのか全く分らない」と、分る努力もせず、出来ないということも、分らないということも言わず、ただただブスクサ文句だけを一方的に言い、責任を学校側に転嫁して逃げようと、無駄な努力だけをし続けた学生たち。 自分の今の状態を正直に話さないことは、先生を視かとしているのと同じ。自分がやられて嫌なことを「どうして人にするのかしら?」という気持ちで、分らないということ、理解できないということを正直に先生に言う。それも「上田学園の勉強の一つだから」と、ことあるごとに言い続けていた。 自分が努力しないことや分らない事を、分ったふうを装うことで体裁だけを整える。でも内心満足せず、そんな本当の自分を知られることを恐れ、問題を直視せず、問題から逃げようとする。そんな彼らに背後霊のようにくっついて「大丈夫だから、貴方なら大丈夫だからやってみて」と連呼。気がつくと勉強が学びに変化し、知らないことを知る喜びと、何かを最後までやる達成感。もっと知りたいという欲望感。いつの間にかハードルを自分たちであげだし、どの授業でも、学んだことがその授業の中で応用されるばかりでなく、しっかり他の授業にも応用され、いい結果が出せるようになってきている。 彼らを見ていてつくづく考えてしまう。勉強をするということの大切さと、学ぶことのすごさと、学びたい、質をあげたいと願う自然な気持ちと、それに答える先生方。学校・教師・学生間で綾なすコラボレーションについて。 学歴と学力、学歴と常識が一致しない昨今、大学院の大学化、大学の高校化、高校の中学化、中学の小学校化と言われるほど、学力も人間としての成長も低下していることが危惧され、そのたびに短絡的に「学校が悪い」などと、論点のずれているとしか思えない暢気な意見が飛び交う。それも何か問題が起きたときだけ。 学力と学歴が一致しなくなって久しい。しかし相変わらず「自分の子供には関係ない」とばかりに、其の問題から目をそむける。そして紙の上の「学歴」にしがみつき、世の中不景気だから就職できない、だから大学院へ。それでも就職できないから専門学校に進むことを選択。あいも変わらず問題を直視せず、問題の先送りと、学歴の買い支えを、し続ける。 本当に学びたいなら、大学や専門学校に行くことは大賛成だ。しかし、大学卒業という紙のために行くのは、なんだかむなしいし、どこか間違っていると思えてしかたがない。 上田学園は今、学生たちが学ぶことを心から楽しむようになっている。それも楽しい学びの陰に色々やりたくないこともしなければ楽しい学びにならないことを自覚し、そのための努力も惜しまなくなっている。そしてそんな彼らがもっと「知りたい」だから「学びたい」と、大学や専門学校に進学することを真剣に考え出している。しかし、そんな彼らの「学びたい」と渇望する気持ちに答えられる学校、即ち本来の大学の機能を果たしていると思える大学が、残念ながらなかなかみつからない。勧めたいなと思える大学は、海外の大学が断然多い。 それは国内の大学が大学の機能を果たさず、就職予備校化しているからだろう。 大学とは何をしに行くところなのだろうか。医者や弁護士になるために大学で勉強する。確かに大学と仕事が直結している。しかし、本当に大学とは何しに行くところなのだろうか。日本の誰もが大学の役割について考えていないように思うのは、私だけだろうか。 本来大学とは、好奇心の追求の場。結論の出ているものを土台にし、結論の出ていないものに対し、自分なりに調べた資料も持って教授たちと一緒に追求していく場ではないのだろうか。今以上に好奇心を満足させてくれるような回答が見つけられる勉強がしたいから、行くところではないのだろうか。 上田学園を卒業するとき、将来こういう仕事につきたいと思うけれども、大学や専門学校で学ぶタイプではなく、実践の中で学ぶタイプなので、こんな会社に入って働きながら学びたいと考えていると、自分の意見をしっかり言って入社試験を受けて欲しいし、また、将来こういう仕事をしたいので、それを大学や専門学校でまず学問的に学ぼうと考えているので、それを学べるのはこの大学なので、この大学の受験をしますと言って、進学をする学生になって欲しいと願っていた。 そして今上田学園の学生たちは実際にそう考えて大学の選択や、仕事の選択をし始めている。だが悲しいことに、大学の高校化だけではなく、大学の就職予備校化に拍車がかかり、大学が大学として機能しているところが、みつけられないのだ。 現在の日本の大学は、アカデミックな場から、就職予備校になり、魅力のある教授達の魅力が発揮されず、優秀で魅力的な教授たちは単に人寄せパンダ役を担うだけで、実際は「宝の持ち腐れ」状態に陥っているようだ。 それに拍車をかけるように長い間、年齢相応の心の成長や、自分で判断する教育がないがしろにされ、請け負い業者による合理的暗記方法で頭をフル回転させられて合格してきた結果、「燃えつき症候群」状態の学生たち。彼らは自分で自分の人生に興味もなければ、将来を描くことも出来ず、おまけに学歴と学力が一致しない現実が、優秀な大学教授たちの授業の足をひっぱり、教授たちのやる気を削いでいるようだ。 大学が大学として機能している大学が、日本には本当にないのだろうか。 上田学園の学生たちのように、学歴も学力も年齢も経験も全く異にする学生たちが、先生方と色々な意見を交わすために、一生懸命本を読み、リサーチし、リサーチしたことを自分なりに咀嚼し、何とか自分の言葉で自分の考えを先生にぶつけ、先生の反応や意見を聞くことを楽しむ。友達の反応や意見を聞くことの楽しむ。 そんな裏づけをしながら自分の意見をぶつけ、他の人の意見や考えを知る楽しさを体験し、それを通して学ぶ楽しみを発見。学ぶことに燃え出している学生たちの知りたい欲求を一方通行ではなく学べる大学は、ないのだろうか。 大卒の紙切れと一緒に、「英検一級とれます」「漢字検定一級とれます」「簿記検定一級がとれます」「自動車免許がとれます」などなど、取れる資格名が羅列されている大学のパンフレットをむなしい気持ちで見つめていた私に、横から覗きこんでパンフレットを見ていた学生たちが「資格の勉強なら、別に大学まで行くことないじゃないか。個人でとればいいだけの問題だから」と一笑してくれた。 現代は、目先の利害に翻弄され、使命感などは全く考えていないように思うが、時代がどんなに変わろうとも、個であろうと公であろうと、使命感をしっかりもつべきであろう。そのためにも個人の役割、組織の役割をしっかり認識する必要があるのではないだろうか、特に21世紀のなかでの。 それにしても、誰か教えてください、日本の大学は何をするところなのかを。 教育を生業にしている一人として、真剣に悩んでしまいました、学生たちの欲求が満たせるところを求めて。そしてチャンスがあったらいつか、絶対小学校から大学まで創ることを現実化したいと、今まで以上に考えています。
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